第百三十一話 冗談(joke) 瑛、紅壱のジョークに慌てる
紅壱の、絶望しか感じないほどの、圧倒的な強さによって、深刻なダメージを与えられたオーガ
しかし、紅壱の仕事は、あくまで時間稼ぎと足止め
きっちり、仕事を果たした紅壱の努力に応えるべく、自分の限界を超えた瑛の燃える刀が、オーガに致命傷を刻む
オーガに勝てた事で、緊張が解けてしまった瑛を、紅壱はお姫様抱っこで運ぼうとする
ちょっとした一悶着が起きかけた時だった、わずかに息があったオーガが、最期の力を振り絞って襲い掛かってきたのは
しかし、そのオーガの命を絶ったのは、瑛でも、紅壱でもなく、2km離れた場所で待機していたスナイパーだった
「燕ヶ原先輩、ありがとうございます、我々の命を救っていただき。
はい、後は我々で片付けられますので。
では、学校で、また」
瑛は件のスナイパー、燕ヶ原に礼を真摯に述べ、耳に入れていた通話機から手を離した。
「俺らが、まだ、面を拝めてない先輩っすか」
「あぁ、そうだ。
相変わらず、見事な腕だな」
一つ、溜息を洩らした瑛は、オーガの側頭部にポッカリと空き、人のそれとは異なる色味の血が止めどなく流れ出てくる穴を見て、顔を青褪めさせ、声を小刻みに揺らす。
「俺の故郷にも、腕利きの猟師がいましたけど、レベルが違いますね」
「うむ。公式大会に出場できれば、金メダルを独占できる腕だからな、燕ヶ原先輩は」
「つまり、一回もデカい大会には参戦した事がないんですね」
「あぁ、実にシャイでな。アガってしまう訳じゃないらしいんだが、頑なに拒むんだ、出場を。
けれど、先輩の噂を聞いた、多くの優勝者が、この学園に来た際の勝負は受けて、圧倒的に勝っているからな、実力は本物さ。
完敗た全員が認める、世界級の天才だ」
なるほど、と頷いた紅壱は、もしかして、彼女は篠原さんの教え子かもな、と考えた。
祖父の友人であり、SSS級スナイパーにして、祖父の玄壱が「千射千中」と認める弓兵でもある篠原アリスから、何度か、紅壱は「養成学校」について聞いていた。その生徒の一人に、仕事に連れていっても問題がないほど、優秀な逸材がいる、と篠原が言っていたのを思い出した紅壱。
(その教え子さんが、極度の人見知りだったとは聞いてないし、違うかな)
今は、色々と考えても仕方がないし、考えるべき事ではない。
懸念すべきは、一戦目のオーガ戦を、燕ヶ原先輩とやらに見られてしまったか、だ。
オーガを一方的に叩きのめしていた一連を見られていても困る事になるが、それ以上に進退が極まりかねないのは、オーガを小屋の中へ放り込んだ所まで見られていた場合だ。
これだけの短時間で、2kmを往復できたとは考えられない。だが、自分がオーガを小屋に閉じ込めている、と瑛に報告され、確認に行かれたら大変だ。何せ、大鬼は小屋の中になどいないのだから。今ごろは、吾武一たちの胃袋の中じゃないだろうか。
(念には念を入れて、小屋から逃げだした、って会長らが判断してくれるように、偽装しておいた方がいいか)
瑛を騙し、余計な不安を抱かせる事に心痛はある。ただ、その痛みに歯を食いしばってでも、自分の秘密は守らねばならない。
偽装そのものは、女優から教わった方法を応用すれば、問題ない。
(ま、ゴチャゴチャ悩んでも、しゃあないか。
報告されちまったら、そん時はそん時。備えあれば患いなしってな)
見られた、と決まった訳ではない。そもそも、紅壱は最初から、狙撃手の存在に気付いていたので、オーガが赤ん坊を喰った、と勘違いして犀魚を繰り出し、ここまで連れてくる時も、どのポイントからでも見られない場所を選んだ。
オーガと戦闘になるのは予想外だったが、紅壱は万が一に備え、この辺りの地理を確認し、自分が一人で戦える箇所を見繕っていた。
なので、あの場所で何が起こったのか、オーガを仕留められる技量がある狙撃手であっても見る事は出来ていないはずだ。
しかし、完全に、不安が拭いきれないのは、魔術の存在があるからである。
どの属性に分類されるかも定かではないが、遠視の効果がある術を使えば、どんな場所からでも、あそこでの戦いを見る事が出来たかもしれない。
ともあれ、やるだけの事はやっておくにしても、今、瑛を置いていく事は出来ないので、一度、皆と合流する方を優先すべきだろう。
「にしても、あんだけ焼かれて、まだ動けるとは、オーガってのはシブといんですね。
学校を襲ってきたゴブリンとは、比べ物にならねぇな」
「すまなかった。やはり、私の術が威力不足だったようだ」
ここで、「いや、俺が時間稼ぎしている時に、もっと、ダメージを与えておけば、会長がキッチリ倒せていたはずです」と反論すれば、「私だ」、「俺です」と言い合うパターンに入ってしまうのは目に見えていたので、紅壱はゴクンっと飲み込んだ。
「ちょい、ビビっちまいましたね」
「そんな風には感じなかったぞ、全く。
むしろ、焦ったのは私の方だ。漏らしかけたぞ」
瑛としては、自分なりに精一杯の茶目っ気を出したつもりだった、紅壱が覚えてしまったであろう、死に対する恐れを緩和らげるべく。
だが、そもそも、生真面目な瑛では、紅壱に、その手のセンスでは敵わない。
「いや、会長、言い辛いんすけど、さっきから、左手が妙に冷たく感じるんですよね」
「な、何ィッ!?」
本当に、自分は失禁してしまったのか、と瑛はすぐさま、自らの股間を押さえてしまう。
けれど、先ほど、詠唱していた際の集中で汗ばんではいたが、漏らした、と認識できるほどは濡れていなかった。
そこで、やっと、紅壱に騙された、と気付いた瑛は、今までで、最も真っ赤になった。
「このっ、許さんぞッッ」
「ハハッハ、すんません」
惚れた女に、胸板をポカポカと叩かれるのだ、男としちゃ、頬が緩んでしまうのも致し方ない事だ。ちなみに、瑛のパンチ力は、愛梨や恵夢と比べれば、破壊力が足りないにしても、一般的な女子よりは高く、プロの女子格闘家に匹敵する。並みの男子が一撃でも受けたら、笑う余裕など微塵もなく、骨が砕けた痛みとショックで呼吸が出来なくなるほどだろう。
「まったく!! 本当に、漏らしてしまった、と焦燥ったじゃないか」
「大丈夫ですよ」
「何がだ?」
「俺は、会長が、パンツをおしっこでビショビショにしちまっても、仮に、ウンコを漏らしちまったとしても、それくらいじゃ、尊敬の気持ちを失いません、絶対に。
そうなった時は、証拠隠滅に協力します、全力で」
この言葉で、キュンと来てしまい、乙女オーラが漏れ出る瑛は、やはり、少し変わっているのか。とは言え、そんなズレた所にも、紅壱はぞっこんなのだから、やはり、変わり者で、確かな強者である二人は、お似合いだ。
「さて、小ジョークはこの辺までにしましょう」
「うむ、そうだな。
私も、大分、回復してきた。
名残は惜しいが、下りるとしよう」
「いや、万が一があったら、俺が嫌なんで、このまま抱っこしていきます」
「・・・・・・では、頼む」
ここで、素直になった方が可愛らしい、と脳内会議で出た結論に従い、瑛は体から力を抜き、紅壱が自分を運びやすいようにする。
「しかし、参ったな。このままでは、豹堂の事が運べん」
「だから、蹴っていきましょう」
「いや、ダメだろう」
わざとらしく、口を尖らせた紅壱は「ま、会長が言うなら、止めますよ」と告げた。
「やっぱり、会長、肩に担がせてもらってもいいですか?」
「どっちにしろ、エリに、からかわれるんだ。
いっそ、思い切り、恥ずかしい方を選ぶとするか」
紅壱は自分を抱えて、両手が塞がっているので、瑛は通信機で愛梨にアクセスする。
「あぁ、すぐ行く」
瑛が通信を終えたのを確認し、紅壱は彼女を右肩に担ぎ直すと、しゃがみこんで、鳴も左肩に担ぎ上げた。
(凄いな)
彼が女子高校生二人、しかも、体重は平均よりもある、を肩に乗せているのに、難なく立ち上がった事に、瑛は驚きを禁じ得ない。
膂力、脚力、何よりも、体幹が、毎日の地道な努力で鍛えられていなければ出来ない動きだ。
やや険しいが、少なくとも、無理をしている表情ではないな、と瑛は思った。
「大丈夫か?」
「まぁ、正直、軽いとは言えませんけど、中学時代のトレーニングに比べたら、まだ、マシですよ」
実戦の中で技を叩き込んで教えてくる祖父のやり方もハードだったが、運転技術が卓越している女優を除いた他の師匠が課してくるメニューの方が、よほどキツかった。およそ、言葉に出来るような内容と量ではなく、祖父との語り合いとは違った意味合いで、死を意識した。
しかし、人間、不思議なもので、あれだけキツかったメニューでも、体を鈍らせないよう、今でも毎日、周囲を驚かせないよう、簡略化、だが、効果のあるものを行わなければ、朝から調子が上がらなくなってしまった。
「重かったら、いつでも言ってくれ・・・下りるからな」
うっす、と頷きながらも、なるべく長く、肩に好きな女を担げる嬉しさを堪能したかったので、絶対に言わない、と胸の内で決めていた。できれば、合流してからも、下ろしたくない、と思うほどだ。
「じゃ、行きます」
女子高校生二人を担いでいる者とは思えぬ、軽快、それでいて、瑛を酔わせないよう、鳴は起こさないよう、注意しながらの足取りで、愛梨たちが待っている空地へ向かう。
オーガの頭を撃ち抜く三年の技量に感服する一方で、紅壱は、彼女に、一戦目を見られてしまっていたらマズい、と危惧する
ライフルのスコープを用いても見られない場所を選んで、オーガと戦ったつもりであったが、魔術の対策は全く出来ていなかったのだ
不安はあるが、悩みすぎても仕方ない、と腹を括った紅壱
彼が腹の中で、何を考えているか、知らぬ瑛は、紅壱が、自分にジョークをかました事に憤慨しつつも、彼は、自分がおしっこを漏らしても失望しない、と知って惚れ直すのであった