第百二十九話 七秒(seven seconds) 瑛、紅壱に七秒だけ、オーガの相手を頼む
子供を食べた、と勘違いし、オーガをフルボッコにした紅壱
彼は、瑛の元に向かう途中で、リザードマンと戦っていた愛梨と夏煌を助けるが、その場には留まらず、瑛の元へ急ぐ
自分たちを助けてくれた紅壱に礼を言えなかったことを悔しく感じつつ、夏煌は、今後も、紅壱と一緒に戦える女になるためには、リザードマンを一人で倒せるようにならなければならない、と決意する
友人のそんな決意も露知らず、紅壱はオーガを強烈な突き技で吹き飛ばし、窮地に陥っていた瑛を救う
「た、辰姫・・・・・・」
瑛は、彼方へ吹き飛ばした大鬼から目線を外さず、二本の警棒を手にして、自分を守るようにして前に立った紅壱に唖然とした表情だ。
しかし、驚きの後に、瑛は形容しがたい安堵と喜びが込み上げてきたのを、確かに感じる。
折れかけていた心が真っ直ぐに戻れば、尽きかけた体力も戻るような気がした。
(私を、助けに来てくれた、辰姫が!!)
彼女が、いきなり、やってきた自分に何を聞いていいのか、分からなくなるほど混乱しているのは、背を向けていても、彼女の雰囲気から感じ取れた紅壱。
けれども、オーガが横っ腹を押さえながら立ち上がったので、呑気に喋ってもいられない。なので、ストレートに尋ねた。
「会長、俺は、何秒稼げばいいですか?」
「7秒だけ、オーガの動きを止めてくれ」
熱を帯びていない声でされた直球の質問に、瑛もまた、余計な間は置かずに答えた。
紅壱は首を縦に振らず、「七秒は、無理です」とも言わなかった。
だけれども、瑛には、彼が警棒のグリップを強く握り直した音が聞こえた。
それだけで、十分に紅壱の覚悟が、自分の為にオーガを全力で食い止めて、7秒の時間を稼ぐ、その確固たる意志が伝わってきた。
(ならば、私は彼の気持ちに応えるしかないッッ)
実のところ、オーガに十分なダメージを与えられる、攻撃魔術の構築には、10秒は欲しかった。
しかし、紅壱が盾役を自分の為に引き受けてくれた、つまり、彼を危険に晒してしまう事を思うと、10秒は欲しい、なんて言えなかった。
強力な魔術を発動した際の反動から身を守るための部分を、詠唱する呪文から省けば、1秒は稼げる。だが、もう2秒足りない。けれど、一度、口にしてしまったのだ、土壇場で、最大の威力を出せるように詠唱を工夫するしかない。
先輩として、会長として、何より、辰姫紅壱に惚れた一人の女として、今、自分の限界を突破する、そう決めた瑛はその場に右膝を着くと、日本刀を鞘へと納め、呪文の詠唱を開始した。
「やるか」
紅壱は気付いていた、瑛が、本当は10秒の猶予を欲しがっていた事に。
けれど、彼女は、自分の記録を塗り替える、今ここで限界突破を果たしてやる、確固たる決意を瞳に宿して、「7秒」と口にした。
なら、獅子ヶ谷瑛を心底、好いている男として、「10秒じゃなくて大丈夫なんですか?」とは聞き返せない。
同時に、紅壱は10秒を稼ぐ気もなかった。
瑛が「7秒」と言った以上は、7秒だけ、オーガの足止めに徹するつもりでいた。
もし、7秒以上を作ろうとすれば、瑛の女義を穢してしまう。
(だけど、これは意外に難しそうだな)
7秒で倒すのであれば、紅壱にとって簡単だ。その気であれば、先の「義勇衝突」で、大鬼の体を真っ二つに突き斬る事が出来たのだから。
瑛がピンチであったのだから、そうすべきだった。実際、紅壱も技を直撃させる寸前まで、オーガを仕留めるつもりでいた。
だが、あの刹那に、瑛の目に、闘争心がまだ残っていた、いや、守るべき対象が近くにいた事で強く燃えているのを見た紅壱は、オーガを倒す役目は瑛こそが担うべきだ、と判断し、即座に「義勇衝突」の威力を最弱に下げた。
(このオーガが、そこそこ強くて助かったな)
最弱の殺傷力まで下げても、今頃、アルシエルの住魔らの経験値になっているであろう一体の方なら、まだ立ち上がる事は出来ていない。動けるようになるまで、十秒は要していただろう。
幸い、この片割れはレベルが高く、耐久性の数値も、もう一体よりも上のようで、最弱の「義勇衝突」を受けても、すぐに動けるようだ。
とは言え、動けるだけで、全力での攻撃は厳しそうだ。それは、大鬼の渋い顔に浮かび上がっている、大粒の脂汗が物語っていた。
内臓は破裂していなくても、痛い事は痛い。
(つまり、俺がすべきは、ここから逃さず、なおかつ殺さず、そんで、憎しみを俺だけに向けさせる事だな)
恐らく、オーガは自分に勝てない、と痛みを根拠に、確信してしまっている。憎悪など、およそ湧き上がってこないだろう。
だからと言って、何もしない訳にはいかない。
逃げられるのは論外だし、自分には勝てなくても、瑛なら殺せる、と考えたオーガが、それを実行したら不味い。実際に、オーガなら瑛を、この状態でも殺せるのだから。
なので、紅壱はオーガを7秒間で、逃がさず、追い詰められて瑛の方へ向かわないよう、位置取りを意識して、オーガの戦闘力を限界まで奪わなければならなかった。詳細に言えば、瑛の攻撃をモロに受けてしまうほど、半死半生にする、だった。
(ま、会長の為なら、やるけどな)
紅壱がニヤッと笑ったもんだがら、大鬼は身が竦んでしまう。
気付いた時には、オーガの眼前に拳が迫っていた。
「ぎぁ!?」
鼻が突然に熱くなり、オーガは二歩三歩と後ろによろめいた。
唇を濡らしたそれを舐めたオーガは鉄の味を舌に覚え、殴られて鼻血が出た、と言う現実を認識した。
この大鬼もまた、紅壱の存在が恐ろしい、と本能で理解させられてしまった。
最初は、自分の相棒から、必死で逃げてきたのだ、と高を括っていた、いや、そう思い込もうとしていた、自分にあんな「痛み」を与えられる人間が、オーガごときから逃げるなんてありえないのに、だ。
相棒は、コイツにもう殺されている、それを理解してしまったオーガは生まれて初めて、恐怖で体が小刻みに震えてしまった。
ダメだ、コイツには勝てない、それを確信したオーガは、「死にたくない」とも願う。
だが、命乞いが通じる相手でないのも、やる前から恐怖が教えてきたので、オーガの中に浮かんだ選択肢は、「逃走」と「メスを人質に取る」だった。
メスに自信を付けさせたいからなのか、そこは読み切れなかったが、オーガは紅壱に、少なくとも、自分を殺す気がないのを察していた。
屈辱、その二文字すら、今のオーガには生じず、どっちを選んだら死なずに済むか、それを悩む事に必死だった。
狼狽える大鬼の様は滑稽だが、瑛の為に時間稼ぎをする事しか考えていない紅壱は、くすりとも笑わない。
走って来られても恐ろしいが、ゆっくりと大股で、最短距離を一直線に歩いてこられる方が、よほど、精神的に圧し掛かってくるのだ、と知りたくもない事実で、オーガのプレッシャーは頂点に達し、よりにもよって、選んではならない方を取ってしまった。
目の色と呼吸音、何より、切羽詰まった雰囲気で、オーガが自分を躱して逃げるのではなく、詠唱中の為に身動きが出来ない、無防備な瑛を人質に取る気だ、と紅壱は見抜いた。
仮に、瑛が捕まってしまったとしても、自分なら、溜息一つを吐いてから、すぐさま救出できる。
しかし、「救出できる」からと言って、瑛を人質になどさせるなど言語道断だ。鳴以上に、自分が自分で許せない。
「させねぇよ」
オーガの耳に、その言葉と一緒に飛び込んで来たのは、己の頬に裏拳がブチこまれ、頬肉が裂け、歯が砕けた音。
あまりの痛みで、脳への信号が強制的にシャットダウンされたのか、オーガは痛みで混濁する事はなかったが、逆に意識が鮮明のままである事の方が不幸だろう。
痛い事すら分からなくなるほどの打撃を喰らって、混乱状態に陥った大鬼は、またしても、瑛を標的にしてしまう。
「・・・・・・だから、させねぇって」
オスは自分を殴った位置から動いていない、ここまでぶっ飛ばされた自分の方が先にメスの元まで行ける、そう思ってしまったのは、オーガの中に、まだ、一方的な蹂躙で培ってしまった強者の薄っぺらいプライドが残ってしまっていたからか。
ドンッ、と自分がぶつかった何かが、最初、オーガは紅壱だ、と理解できなかった。正確に言えば、無事だった方の頬に踵がメリ込んで、先ほど以上の距離をぶっ飛んで、地面に落ちてからも、自分に何が起きているのか、理解できていなかった。
残念な事に、今度の痛みは、脳に届いてしまったようで、オーガは激痛に喚いた。
喧しいな、とボヤきながら、紅壱は右耳の穴を小指の先で掻き穿りながら、悠然とした足取りで近づいていく。
オーガは、会った事などなく、聞いた噂も与太と笑い飛ばしていたが、この時に限っては、本気で思った、これが死神の足音か、と。
現実と感情に追い詰められた喰われる側が、いよいよキレて、逆襲に出るのは、何も珍しい事ではない。
窮鼠猫を噛む、この言葉通り、死への恐怖が生命力と闘争心を燃やし、鼠の前歯が猫の頸動脈を噛み切る奇跡は、現実に起こりうる。しかし、悲しいかな、オーガの前蹴りは紅壱に直撃はしても、ダメージを与える事が叶わなかった。
こちらの世界に来てから、このオーガは二人のオスを前蹴りで殺害していたので、その足は人間を絶命させる感触をハッキリと知っていた。
「!?」
だが、紅壱を蹴った瞬間に感じたものは、オーガの知らない感触だった。
目はまだ無事だったので、自分が目の前の人間を蹴ったのは事実だ、と判っていた。
けれど、蹴りの威力は紅壱の体へ吸収されてしまったように、自分の体に返ってくる快感は皆無だったため、オーガは今、何が起こっているのか、まるで理解できなかった。
隙を見せたら、危険なのは、経験で覚えたはずなのに、オーガは学習していなかった。
オーガの蹴りのインパクトを、いつものように「芳雲」で殺した紅壱は、自分に当てたままで引かれない足を無造作に掴み、「末黒野」を仕掛けた。
未知なる技に対し、オーガは咄嗟に耐えようとしてしまった。だが、ドラゴン・スクリューと言う技の構成上、無理に耐えれば、そのダメージはより深刻になる。知っている者であれば、安全な受け身を優先しただろうが、大鬼は出来なかった。
ブヅンッ、聞いた事もないような音と共に、オーガは突然に右膝の感覚を失った。
受け身を取り損ない、地面へマズい倒れ方をしてしまったオーガは、紅壱からの追撃を恐れ、すぐに立ち上がろうとする。けれど、右足が言うことを聞いてくれなかった。
このままではマズい、と焦ったオーガは恥もかなぐり捨て、亀のように丸まって、次の攻撃に耐えようとした。
しかし、紅壱はもう、オーガを殴りも、蹴りもしなかった。
その代わり、紅壱がしたのは、オーガの首筋と腰の辺りを指先で「トン」と順に叩いた事だけ。
それだけだったのに、オーガは気付いたら、直立不動の体勢を取ってしまっていた、どんなに痛い攻撃を受けても、声一つ上げないで耐えてやる、そんな意思に反して。
自分が何故、立ち上がってしまったのか、訳が分からなかったオーガだが、体はすぐに元の防御態勢に戻ろうとする。
しかし、遅かった。
もう一匹のオーガの相手をしていたはずの紅壱が、ここにいる事を驚きつつも、紅壱が自分を助けに来てくれたことが嬉しくなる瑛
手遅れにならなかったことにホッとしつつ、紅壱は瑛に問う、自分が何秒、オーガの足止めをすれば、倒せる技を繰り出せるか、を
10秒は欲しかった瑛だが、紅壱が命懸け(実際には、そうではないが)で、オーガの足止め役を引き受けてくれた以上、今、ここで自分の限界を超えるべく、「7秒」と彼に伝える
惚れた女の命とプライドを守りたい紅壱は、オーガを殺さず、逃がさず、瑛に近づけさせず、を意識し、手加減をした攻撃で、七秒の猶予を稼ぐのだった
そして、ついに、その時が来るッ