第百二十七話 塗薬(ointment) 愛梨、夏煌が塗ってくれた薬が、傷に染みて呻く
圧倒的な力の差で、オーガに完勝した紅壱
仲間の経験値稼ぎを目論む彼によって、アルシエルへ転送されたオーガは回復する時間を稼ぎ、紅壱に復讐するチャンスを掴むべく、自分を囲んでいた吾武一たちを騙そうとする
しかし、つい、調子に乗って、紅壱とカガリを馬鹿にしてしまい、吾武一らの怒りを、オーガは買ってしまう
結局、紅壱に負かされたオーガは、ろくな抵抗も出来ぬまま、鬼生に終止符を打たれ、アルシエルの住魔の経験値となったのだった
残虐なオーガに襲われ、重傷を負ってしまった一般市民の治療を、血と戦いの濃厚な匂いに誘われ、やってきてしまったリザードマンに邪魔させないため、愛梨と夏煌は『組織』が開発したフェロモンスプレーで、あの場から数10m離れた、広い場所に移動し、厳しい戦いを繰り広げていた。
リザードマンは、数値だけ見れば、オーガよりも戦闘力が劣る魔属だ。
紅壱は、苦もなく、倒しているが、実際のところは、難敵である。
以前の個体も、生徒会メンバー全員で囲む事により、何とか、あそこまでのダメージを与えられていた。
他の地域を任されている生徒会であれば、リザードマンが出たら、足止めに徹底して、プロに助勢を要請するレベルだ。
なのに、今は、愛梨と夏煌の二人だけで戦わねばならない。端的に言って、過酷。彼女らは、決して、弱い訳じゃない。ただ、どちらも、直接攻撃を得意とするので、遠距離系の攻撃魔術でのフォローが出来ないのである。しかし、泣き言を言ってはいられない。
もう一体のオーガと戦っている、瑛らの助太刀にも向かわねばならないので、この蜥蜴男に長い時間はかけられない。
感じるのが当たり前の焦りで、ミスしないよう、自分に言い聞かせながら、愛梨と夏煌は息を合わせて、リザードマンと必死に戦っていた。
戦闘開始から、そろそろ、3分。決着の時は、すぐそこに迫っている。
「ナツ!!」
愛梨が、絶命必至となるであろう、特大の一撃をブチ込める、最高のタイミングを作るべく、リザードマンの槍を必死に回避け続けていた夏煌。
彼女は、ここだ、と直感し、リザードマンの死角から奇襲を仕掛け、愛梨に向かっていた注意を自分へ向けさせた。
彼女の思い通り、リザードマンは危険を察知し、夏煌の方へ、イグアナに酷似している顔を動かした。
何の目配せもなかったが、元々、人の気持ちを読む事に長けている愛梨は夏煌の狙いに気付き、彼女の奇襲に合わせ、自らも動いた。
二人とも、ここで倒しきれる、と油断はしていなかったが、十分なダメージを与えられる、そんな確信があった。
だが、戦いの中では、常に予期せぬ事が起こる。
リザードマンは、自分が夏煌のフェイントにまんまと引っ掛かってしまい、このままでは、愛梨に痛烈な一撃を当てられる事を悟った。
見た目通り、歴戦の猛者である、このリザードマンは腹を即座に括った。
大きい方の人間から一撃は喰らうが、このチビは今、ここで刺し殺す、と決断したリザードマンは夏煌へと殺意をロックオンしてしまった。
蜥蜴男が、どちらを迎撃するか、逡巡し、動けなくなるはずだ、と予想していた夏煌は自分へ、愛梨は後輩へと、リザードマンの鬼気迫った殺気が集中するとは思ってもいなかった為、逆に焦ってしまった。
ただでさえ、空中にいたため、まともな回避など不可能な状況であったのに、強烈な威圧感をリザードマンから叩きつけられた事で、身が竦んだ夏煌は体勢を崩してしまった。
愛梨は、リザードマンの攻撃を、自分へ向けさせようとしたが、経験ゆえに間に合わない、と察せてしまった。
咄嗟に、後輩の名を口に出してしまった弱さを、誰も責められまい。
もうダメだ、と諦めた夏煌。だが、自分の役目は放棄したりなどはしなかった。
死なばもろとも、刺されたならば、その槍を掴んで、愛梨が攻撃できるチャンスを広げる、と決死の思いで目を見開いた。
だが、実戦で不意に訪れるのは、ピンチだけではなく、危機的な状況を引っ繰り返す、鮮烈な一手を打ち出せる者だ。
「!?」
夏煌は、槍を自分に向かって突き出していた蜥蜴男の腕の肘から先が、いきなり、空中を舞った事に絶句した。
けれど、危機が去った事を頭よりも先に理解した体は、即座かつ自然に動く。
あまりにも、滑らかに一瞬で切断されたからか、リザードマンの小さな脳には、まだ、腕が着られた痛みが届いていないらしい。
だが、槍がいつまで経っても、獲物に届かない事を訝しみ、目を向けた事で、自分の腕が無くなっている事に気付いて、硬直ってしまう。
その硬直は、あと一秒もすれば溶解るだろう。だが、夏煌には、十分だった。
「!!」
「ギィェェェェェッッッ」
右に握っていたナイフでリザードマンの両瞼を、何の躊躇いもなしに切り裂く。
このナイフには、凍氷属性の魔力が付与されており、傷口が瞬時に凍る効果があった。二重に視力を封じられたリザードマン。
左に握っていたナイフで、激痛に絶叫んでいたリザードマンの口を下から突き刺し、切っ先を上顎まで通した。その上、痛みを無視して強引に開けぬよう、凍結効果で固定してしまった夏煌。
片腕と槍を失い、目は潰され、とっておきの酸性の唾液も吐けなくなったリザードマンは、がむしゃらに残った腕を振り回し、ラッキーに頼って、人間を倒そうとする。けれど、世の中、甘くない。
リザードマンがメチャクチャに振り乱す爪を落ち着いて回避し、間合いへ飛び込んだ愛梨の両拳が唸りを上げた。
「ウラウラウラウラウラウラウラウラ・・・・・・ウラァッ」
あまりの迅速さに、無数の残像が宙に固定されるほどだった、愛梨が放った怒涛の連打は。
後輩たちは、密かに、この連打を、こう呼んでいる、ゴリラッシュ、と。
目が見えている状態であっても全弾回避が困難で、両腕が揃っていても、全てを受けきり、耐え抜く事は不可能であったろう、ゴリラッシュを、まともに喰らってしまったのだ、リザードマンのダメージは計り知れない。
数秒ほど、地面から離れていたリザードマンの体は、重力に囚われ、地面へ背部を叩きつけられた。
リザードマンの鱗は、腹側でも、ニューンナンブの弾程度なら、血が滲む程度の防御力を誇っているが、愛梨の打撃力には、その程度では心許なかったようだ。
体の前面に隙間なく刻まれた殴打痕の深さは、3cmほどはあるだろう。
骨が砕け、内臓も破裂しているのは明らかで、小刻みに痙攣していたリザードマンの体は、最期に一度だけ、ビクンッと大きく跳ね、静かに背中が地面に落ちたかと思ったら、そのまま、ピクリとも動けなくなった。
仕留められた、その事実が、死なずに済んだ安堵感を一層に大きくしたのだろう、夏煌はへなへなと膝を崩してしまう。
へたり込んでしまった夏煌の遥か頭上を跳び越えていったのは、誰でもない、紅壱。
見下ろす視線と、見上げた視線が交差したのは、ほんの一瞬。
だが、夏煌にとっては、それだけで、あの時、リザードマンの腕を切り飛ばして、自分を助けてくれたのは、彼だ、彼しかいない、と理解た。
夏煌が無事であるのを、同様にその一瞬で確認し、彼女に微笑みかけた紅壱は、その場に留まることなく、駆けていった。
すぐにでも追いかけたかった夏煌だが、リザードマンを相手に、愛梨と二人だけで戦った、危うく死にかけた、そのストレスは心に、いつも以上の負担になっていたようだ。心の疲労は、肉体にも影響を及ぼす。
動きが鈍い体で向かっても、紅壱の邪魔になってしまうだけなので、夏煌は唇をキツく噛み締めて、その悔しさを飲み込む。
今の自分に出来る事と言ったら、紅壱が瑛らを助けてくれるよう、消耗しきった心の中で願う事と、あと一つくらいだ。
「助けられちまったな、コーイチに」
リザードマンを全力で五〇発も殴ったからか、愛梨の拳は、かなり傷付いてしまっていた。骨が見えていないだけ、まだマシ、と言うしかないレベルだ。
「・・・・・・」
「こんなもん、舐めとけば治るよ」
そんな軽口を叩いているが、愛梨は涙ぐんでいた。
もうちょっと、夏煌は紅壱のカッコ良さへの恍惚を堪能していたかったのだが、愛梨をこのままにもしておけない。自分と同じく、精神的な脱力でへたり込んでしまっている愛梨の元へ這い這いで向かうと、彼女の拳の治療を開始した。
「ちょ、おい、優しく塗ってくれよッッ」
「・・・・・・」
「いや、先輩って立場は、関係ないだろっ!?」
「・・・・・・」
「カチカチ山の狸も、関係ねぇよ!!」
効きが良い分、“少しだけ”傷に染みる軟膏をたっぷりと塗りたくられ、愛梨は引っ繰り返っている所為で、いつもより、女の子っぽい喚き声を発する。だが、夏煌は耳を貸さず、治療を続けた。
「はあ、助かった。ありがとう」
やや乱暴な治療が終わり、肩で息をしていた愛梨は、教本通りに包帯が巻かれている手をヒラヒラと振りながら、後輩に心からの感謝を込めた礼の言葉を、しっかりと、口にする。
アルシエルに送ったオーガの事など、即座に忘れ、紅壱は、大急ぎで、生徒会メンバーを助けに向かう
血と戦いの匂いを嗅ぎつけ、割り込みしてきたリザードマンの相手をしていたのは、愛梨と夏煌
攻撃に特化しすぎている二人は、苦戦を強いられていたが、勝つ事と生き延びる事を諦めていなかった
一か八かの作戦に出た夏煌はピンチに陥るも、彼女をギリギリで救ったのは、やはり、紅壱だった
彼が作ってくれた好機を無駄にせず、夏煌と愛梨は見事な連携で、リザードマンの撃破に成功する!!