第百二十一話 腹殴(harapann) 紅壱、オーガの腹をぶん殴る
瑛たちが治安維持を任されているエリアで起きた、怪異による殺傷事件
討伐に出向いた彼女らが遭遇してしまったのは、オーガ二匹。しかも、血に飢えたリザードマンまでもが、この場にやってきてしまう
まさかの事態に混乱しながらも、瑛は仲間を信じ、全力を尽くさんとする
そんな折、地面に散乱していた被害者の買い物袋の中身を見た紅壱は、いきなり、オーガの一匹へタックルを仕掛け、この場から連れ去っていってしまった
彼のスタンドプレーに驚きながらも、瑛は一匹を紅壱に任せる決断を下し、残ったオーガとリザードマンを自分達で倒す事を決める
紅壱に超加速のタックル、空五倍子をかまされ、彼の肩に担がれた状態で十分に開けた場所まで運ばれたオーガ。
「GUAaa」
空き地の入り口で、紅壱が急ブレーキをかけた事により、オーガは地面へ投げ出され、激突した際に痛みで苦悶の声を発してしまった。
だが、さすが、と言うべきか、現役アメフト選手でも失神させられる空五倍子を受けたと言うのに、そこまで深刻なダメージを内臓に負わなかったようだ。
もっとも、紅壱は、このオーガを褒める気などなかった。
修一であれば、ここまで運べないし、逆に衝突の瞬間に、圧倒的なパワーで潰されていた。
そもそも、紅壱は空五倍子でオーガを倒す気などなかった。絶命させる訳にはいかなかった。
珍しく、と言う訳でもないが、紅壱は久しぶりに、ドス黒い憤怒りを、心中に渦巻かせている。
カガリ戦では、瑛達を守るためにも本気でブッ倒す、その決意と同時に、力及ばずに倒されても恨まない、と言う覚悟もあった。
けれど、今、自分の前で立ち上がったオーガに対しては、憎しみを核とした殺意すら覚えていた紅壱。
勝った、倒したとしても、カガリを降した時のような爽快感などないのは、紅壱も承知していた。それでも、彼はこのオーガを許しておけなかった。
『このチビ人間が、ナメやがって』
190cmに到達している背丈の紅壱も、3m近い大鬼からすれば、チビ扱いらしい。だが、もしも、ここに他者がいる事を許されていたならば、威圧感を伴う風格は、圧倒的に紅壱の方が立派だ、と感じたに違いない。
『殺して、喰ってやるぞ!!』
「喰う気はねぇが、ぶっ殺すってのはコッチの台詞だ」
オーガは、目の前のガキが、先ほどの人間どものように怯えないので驚き、その裏では不安を抱いた。
そんな場合に、自分からヘマをしてしまうのは、人間もオーガも変わらないようだ。
単に虚勢を張っているだけだ、と勘違いしたオーガは紅壱の恐怖を煽るべく、自らのくっきりと割れている腹筋をガンッと叩いた。
『ふんっ、さっき、丸呑みした赤子じゃ足りないな、と思ってた所だ。
男の肉は硬い上に、臭いから好きじゃないんだが、我慢して喰うか』
その発言に、無表情だった紅壱の顔に反応が生じたので、オーガは「効果あり」とほくそ笑んだ。自分が、致命的なミスを犯し、死に直行しているルートから、もう外れる事が出来なくなっているのにも気付かず。
「赤ん坊を丸呑みにしただと・・・・・」
紅壱が、あの場から離れる以前に気付いた事、それは被害者がもう一人いた、そして、その犠牲者はあの女性、もしくは男女の子供だ、と言う事。あの場に散乱していた荷物の中には、赤ん坊用の紙おむつや粉ミルクの缶、また、抱っこひもがあった。
その為、オーガは自分達が到着する前に、赤ん坊を食ったのだ、と気付いた紅壱は怒りで頭に血が上った。
もちろん、戦力を分散させる、と言う目的もあったが、それは所詮、後付けに過ぎない。人喰いだけならまだしも、子供を喰った、それは許せなかった。
しかし、ここに来て、紅壱は一縷の望みを見出した。
急に、紅壱が俯いたので、脅しが効いている、と調子に乗ったオーガは、紅壱には劣るにしろ、兇悪な笑みを形作った唇を、赤褐色の舌で強く舐めた。
『さすがに、お前は丸呑みできないからな、生きたまま、頭を齧ってやろう。痛い、助けて、と喚いても、喰うのは止めてやらん。
その後は、女どもだ。さっさと戻らないと、俺のダチが、全員、犯しちまうかもしれん。
穴と言う穴をガバガバにされて、精液だらけの人間のメスなんぞ喰う気も失せる。
せめて、あの性格が激しそうな女は喰いたいもんだな』
脅迫はこれくらいでいいだろう、オーガはダメ押しに紅壱の方へと、大きな一歩を踏み出した。
だが、大鬼がそれ以上、前に進む事はなかった。何故なら、いつの間にか、目の前には紅壱が立ちはだかっていたからだ。
あまりにも、静かで疾い接近で、オーガの思考は停止を強いられた。
例え、瑛らでも、紅壱が摺足で対象に急接近する「尺取」と、気配を不自然全さを感じない薄さまで鎮める「額繋」を使ったら反応すら出来ないだろうから、決して、オーガの動体視力や反射神経、気配の察知能力がお粗末な訳じゃない。
反射的に殴りかかる、そんなアクションすら起こせず、棒立ちのまま、情報処理が出来ずに固まっているオーガの意識を強引に覚醒させたのは、経験のない、強烈すぎる腹部への激痛みだった。
痛みをオーガに与えたのは、紅壱のショートアッパー、結裁。この時、もちろん、彼は雲屯も《うんとん》使っていたので、オーガは攻撃が直撃するまで、紅壱が殴ってきた事に気付けなかった。
本来であれば、この結裁でオーガの腹に穴は開き、勝負は決していた。
しかし、紅壱は普段は使う「三垣」をあえて省き、結裁を繰り出していた。
「三垣」と言うのは、攻撃の技ではなく、攻撃力を高めるテクニック。
大雑把に言うと、地面を蹴る事で生まれるエネルギーを、一滴も漏らさぬまま、繰り出す打撃に乗せる。 一瞬でも、タイミングがズレれば、通常の威力すら損なってしまうものだ。
だが、紅壱は、ある目的の為に、オーガを殺さなかった。ぶっ殺してやる、と思っていたのに、だ。
その理由を、オーガが吐き出した。
それはオーガの胃液に塗れていたが、紅壱は構わずに地面へ落ちる前にキャッチし、オーガの長い腕でも届かない位置まで下がる。
自分の手加減した結裁で、大鬼は地面に蹲り、反撃するどころか、転がりまわる事すら出来ないとしても、彼は油断しない。
地面が抉れるほど強く蹴った足とは逆に、紅壱はそれを抱きかかえている腕には、一切の力みを入れていなかった。
「ふぎゃ」
紅壱の腕の中で、オーガに丸呑みされたおかげで傷一つなかった赤ん坊は息があった。
しかし、分泌され始めていたオーガの胃液で、肌には爛れが生じている。
とりあえず、生きているのならば、大丈夫だ、と紅壱は自分に言い聞かせる。
そうして、赤ん坊に手を翳すと、まず、生命力を測る。
弱いが、「ダメだ」と諦めが過るほどではない、と判断を紅壱は下す。
紅壱は、まだ、自分の魔力をコントロールできない。そんな状態で、効果がある、と思っていない呪文は唱えられない。
だから、口に出した、「傷よ、治れ」と。
今の彼は、カガリにトドメを刺した時に劣らぬ集中力を発揮していた。なので、彼の膨大な魔力を蓄えているタンクの隙間から漏れ出ている魔力を使い、術の発動に成功した。
例え、少量であろうとも、紅壱の魔力は純度が違う。それは、術が発動した際の効果が段違いである事を意味していた。
回復魔術に適性のない一年生の魔力であれば、呪文を唱えても、小さな切り傷を治すのが関の山である。
経験を積んだ学生術師でも、オーガの胃液によって、肌が爛れた赤ん坊を救う事は出来ないだろう。
学生術師が取るべき正しい行動は、人間の医者に任せる、しかない。間に合うか否か、は別としても。
紅壱の場合は、言葉に乗せた魔力だけでも十分だったのだろうが、彼は念には念を入れた。
イメージする、指の腹がナイフで切れ、出来た傷を。
普段から、彼は闘気を指先まで纏っているので、量販店で販売しているナイフくらいじゃ切れないのだが、強いイメージは肉体に影響を及ぼす。
小さくはあるが、人差し指の腹はパックリと開き、そこから、血の滴が赤ん坊へ落ちた。
直後だった、一瞬にして、赤ん坊の爛れていた肌が元通りになったのは。
赤ん坊の傷が綺麗に治った事、ぶっつけ本番で術を成功させられた事、その二つに安堵した紅壱の口からは息が吐き出された。
「よっしゃ」
紅壱は上着を脱ぎ、痛みが消えた驚きから、キョトンとしている赤ん坊を優しく包むと、背後に積まれていた木箱の上へ置いた。
「もう少しだけ待っててな。
アイツに、キッッツイお仕置きしたら、すぐに、お母さんたちの所へ連れていってやるからな」
搗き立ての餅のような感触をしていた赤ん坊の頬に、紅壱は温かな気持ちになる。
だが、振り返った紅壱の顔には、今の今まで赤ん坊に向けていた慈しみの表情などは、まるで残っていなかった。あるのは、全く、荒々しさを失っていなかった怒りだった。
オーガはまだ、起き上がる事すら出来ていなかったが、紅壱は気にしない。
立っていない相手には攻撃せず、回復するまで待ってやる、そんな情けをオーガにかける気はなかったからだ。
瑛たちに、オーガとリザードマンを押しつける形になってしまったが、今の紅壱には、そんな事を気にしている余裕はなかった
このオーガは、赤ん坊を殺した、それが紅壱を激怒させていた
しかし、紅壱は、オーガが「赤ん坊を丸呑みにした」と口を滑らせたことで、希望を見出した
すぐさま、オーガの腹へキツいボディブローをブチ込むと、オーガは赤ん坊を吐き出す
胃液でダメージを負ってしまっていた赤ん坊だったが、紅壱の術と血によって、瞬時に完治する
赤ん坊を助けられた歓喜を噛み締めるのは後回しとし、紅壱はオーガへの罰を優先するのだった