第百十五話 風刃(wind edge) 鳴、紅壱へカマイタチを撃ちまくる
それは、いくつもの選択が重なった結果、辿り着いてしまったかもしれない未来
愛する男を喪った悲しみ、愛する男を自分から奪った存在への憎しみ、そして、愛する男を守れなかった自分の弱さへの怒りが、瑛を世界を滅ぼす魔女へと変えた
瑛を尊敬し、敬愛し、そして、独占したい鳴は、彼女を止めようとしたが、それは叶わず、世界は滅んだ
そして、術は発動し、鳴の魂は過去に戻る
まだ数えていられるほどしか繰り返していない失敗を経ても、鳴は諦めない
今度こそ、瑛と自分が結ばれる未来だけを目指し、鳴は再び、自身へ「やり直し」の禁術をかけるのだった
豹堂鳴は、己の心身を芯まで蝕んでいる、術の過剰発動による不調を自覚できていなかった。
確かに、彼女の才能は、一年生としては突出している。それは、瑛の眼鏡に適い、生徒会に入れた事が証明している。百人に一人の天才、と認めても良い。
しかし、いくら、選ばれた天才であろうと、「やり直す」魔術を、そう何度も使えるものではないのだ。
本来であれば、失敗しているはずである。天使が手助けしたせいで、成功してしまったのは、むしろ、不幸な事故と言える。
天使族は、自らを至高かつ欠点など持たない存在と驕っているが、アバドンら、魔王に到った存在と比較すれば、万能性では著しく劣っているのだ。
しかも、鳴に協力している(させられている?)天使は、下っ端ではないにしろ、上級に属している訳でもない。
なので、天使の補助があっても、完璧には程遠い稚拙な術を、瑛の恋人の座が諦めきれずに繰り返し続けた、その結果、今回の鳴は、これまでの記憶と経験を引き継げずにいた。
前回までは、自分がどこで、いつ、どんな失敗をしていたか、その全てを覚えていられたので、同じミスは繰り返さなかった。
彼女は、その度、自分にとって最悪の未来に繋がる道を選ばず、新たな未来に向かって、前進めていた。もちろん、その道も、彼女が望む結果にはならなかったので、やり直す回数は増える一方だったが。
自分が、幾度も失敗、つまり、死んでいる事を覚えていない事が、彼女にとって、幸福な事か、それは判断できない。
誤った選択をしないために必要な記憶はなくとも、死の事実と体験は、鳴の魂そのものに刻みつけられ、寿命を大幅に削っている。だが、皮肉にも、その分、鳴の所有魔力は、今まで最も多くなっていたのだから。
「くっ」
不意に襲ってきた、微かな眩暈など気にせず、鳴は怒りと憎しみに任せ、刀を振る。
「今日と言う今日は、引導を渡してやる!!」
右の刀を真剣白歯取りすると言う、人間として有り得ない絶技を披露した紅壱に、鳴は必殺の刃を繰り出す。
瑛の全身から薫る、雄の本能をくすぐるフェロモンに油断して接近こそ許してしまった紅壱だが、第二刃までむざむざと喰らうほど、彼もマヌケではない。
日本刀の刃をしっかりと噛んだ紅壱。
「ッラァ!!」
力いっぱいに握っている柄から、不気味な圧力を感じ取った鳴はそのまま口を切り裂いてやろうとしたのだが、紅壱の首に力が入る方がわずかに早かった。
「え、ちょっ!?」
首の力だけで、咥えている日本刀ごと鳴を、紅壱は一気に高々と振り上げた。
魔力による身体強化や、鳴の呼吸の虚を突くテクニックを合わせたとしても、およそ、人間業ではなかった。この力技には、他のメンバーも唖然とする。
頭に上っていた血が驚きで一気に引いて冷静さを取り戻せたのか、鳴は咄嗟に刀の柄を手放した。
もしも、無理に刀を取り戻そうとしていたら、紅壱は刀身を噛み砕いて、同時に彼女を地面へと叩き付けようとしていただろう。
鰐の能力を引き出せるようになった今の彼であれば、いくら、魔力でコーティングされ、強度が増していても、日本刀ですら煎餅ほどの堅さにしか感じないだろう。
刀が振られた勢いに自らを乗せ、回転しながら紅壱より遠ざかっていく鳴。彼女は、着地までの間に、呪文を高速で詠唱していく。
「ルーズ・オプトゥニール・キャマーレ・シュライエン・ブレッヒェン・シッパーレ・スバートル・ラーフ」
柔軟な体を活かし、彼女は着地の衝撃を見事に殺し、すぐさま反撃の体勢へ移る。
「疾風切弾!!」
小太刀から放たれたのは、風の刃。
人の首はおろか、胴ですら両断できる、今の鳴が繰り出せる、単発では最高威力の技だ。
さすがに、この技は憎い相手に向けて使っていいものではない、と愛梨達は紅壱を守ろうとしたが、冷静になったとは言え、鳴の胸の中では、まだ怒りの炎は消えていなかったようで、そのスピードは彼女らが知っているモノを超えていた。
「サイタラ・カタクティスィ・マズバハ・ゼンフ・・・青水守壁」
短縮詠唱で発動させた恵夢の水の壁は、ほんの少しだけ間に合わなかった。
思わず、陰惨な光景を思いを脳裏に浮かべた皆が青ざめたけれど、風の刃が紅壱に直撃したことで起きた突風で舞い上がった砂煙が収まった時、そこには誰もが予想していなかった事態が生じていた。
「無傷!?」
「いや、さすがに痣くれぇにはなったな」
鳴自慢の「疾風切弾」を防いだクロスアームブロックを解いた紅壱は、悲惨な状態になった制服の袖を破り取り、うっすらと蚯蚓腫れが浮かんでいる腕を、顰めた顔で擦り、息をしきりに吹きかけていた。
「私の疾風切弾で、皮も切れてないって、アンタ、何をしたのよ!?」
絶望感から叫ぶ鳴の頭に浮かんだ推測、それは地土属性もしくは錬金属性による魔術で、腕を石または鉄のように硬くしての防御、だった。続けて、疾風属性によるガードも可能だ、と思い浮かぶ。
しかし、どちらも、経験値が高い瑛達だからこそ可能な対処法だ、素人の域をやっと片足が出た紅壱に出来る訳がない、と頭を振った。
「何をしたって、俺が出来る方法でガードしただけだよ」
鳴が何故、動揺からヒステリックになってるのか、が理解できない紅壱。
彼は自分にガードできたのなら、疾風切弾と言う技は、名だけが立派で、さほどの威力じゃないのだろう、と勘違いしていたのだ。
そんな彼は、「別に大した事はしてねぇさ」と、落とした袖を拾い上げた。
その袖に付いているモノを見て、恵夢は「なるほどねぇ」と、感心したように頷いた。
闘気で覆えば、アーミーナイフと同じ程度の切れ味があるカマイタチは、完全に防げる。
しかし、なるべく、闘気に関しては、瑛らに秘匿としておきたかったので、紅壱は羅綾丸の糸を、瞬時に袖へ巻きつけ、腕甲の代わりとする事で、鳴の放ってきたカマイタチを防ぐ判断を一瞬で下し、実行していた。
「凄いな、あの糸」
愛梨は驚き、夏煌は紅壱へ拍手を送った。
「あと、防御力を一段階上げる呪文も、咄嗟に唱えてたしな、小声で」
もちろん、詠唱などしていないのだが、鳴らは、その言葉を信じた。だからこそ、絶句させられた。
術師として、まだまだ半人前扱いである紅壱は無知ないが、無属性の魔力による防御の効果はたかが知れている。
同じ無属性の魔力攻撃ならまだしも、変質している魔力攻撃を受け止め、無傷などありえない。総合的に優れている瑛や、無属性の魔力を用いての肉体強化が得意な愛梨であっても、流血はするはずだ。
紅壱であれば、闘気や羅綾丸の糸、または、奔湍丸の鱗を使わずとも、実際に、自身の魔力で防御力を上げても、鳴の風刃は防げただろう。
その不可能を可能としたかもしれないのが、紅壱の中に宿るアバドンだ。
同等量の無属性の魔力であっても、人と魔王では根幹からして、質が違う。
いくら、鳴が瑛のために日々、鍛錬を欠かしておらず、今は怒りで限界のタガを外していると言っても、風の刃くらい防ぐ事は難しくない。何せ、同格の魔王の中には、魔術攻撃どころか溜息一つが、鳴の疾風切弾、それの百倍の威力があるのだから。
瑛の愛から、途方もないほどの回数のやり直しをしていると言えど、過去の自分が積み上げてきたモノを継承できなかった、今回の鳴は、紅壱がアバドンと約束を交わしている者とは、全く知らない。
だから、彼女が、紅壱と自分の才能に差がある、と誤解してしまうのは仕方のない事だった。
仕留めた、あの瞬間に驕った己が急に恥ずかしくなったのだろう、鳴の顔は真っ赤に染まった。
羞恥心に襲われた時、人の行動パターンは大体、二つに割れる。穴があったら入りたくなり、その場に蹲ってしまう。または、自分の失敗を帳消しにすべく、自棄になるか、だ。鳴の場合は、どうやら、後者だったようだ。
「な、生意気なのよ、一年生のくせに!!」
一年生なのはお前も同じだろ、そう、紅壱はツッコめなかった。
ブチ切れた鳴は、プライドも何もかも捨て、憧れの人に近づく悪い虫を払うべく、先輩らにも隠していた奥の手を紅壱相手に使用した。
「ルシェッロ・バッサン・セッカ・ティーフェ・リェーチカ・レマンソ・メルコヴォージェ・カスカダ・プルート・カタラクタ・リハ・ベルカ・シイアヘオ」
これだけの長い呪文を、舌も噛まずに詠唱できる紅壱は感心する。腹の底では、やはり、呪文の詠唱は、実戦向きじゃないな、と自分の考えに確信を強めながらも、詠唱の妨害を仕掛けなかったのは、驕慢ではなく興味からだった。
「疾風切弾・連!!」
腕だけでなく全身を使って繰り出される、15連発の風の刃。
しかも、鳴はこの後の、魔術の過剰使用で生じる疲労感や筋肉痛も構わず、自分の限界である15発を連発してきた。
刀へ疾風属性の魔力を充填するのに約0.4秒ばかり必要するにしろ、技と技の間にほぼ間はない。
「スアンテン・イナブ・フィリラ・ピーヌス・マグノーリヤ・ドゥラスノ・コーコスパルメ・ヴィスキョ・ソール・ライラク」
愛梨は肉体を鋼鉄化させる「肉体鉄化」を発動する呪文を唱えて、15発のカマイタチの前に立ちはだかり、可愛い後輩を守ろうとした。しかし、彼女に待ったをかけたのは、恵夢だった。
「ちょっと待ってぇ」
鳴ではなく、自分を止める副会長に愛梨は抗議の視線を向けるも、恵夢は苦笑いを浮かべつつも、彼女の肩の手に置いた手を退かそうとはしない。
傍目からは、ただ置かれているだけのように見えるが、恵夢は地土属性の魔術、「加重囲域」で重力を操作し、愛梨の動きを制限していた。
自身の肉体を使い慣れない術で鋼鉄と化している事で、地面にかかる重さは更に増し、足跡は更に深くメリこみ、亀裂が広がる。
自分の実力では、恵夢に怪我をさせずに、この手を振り払えない、と溜息を溢しながら判断した愛梨は諦めたように、両手を頭の高さまで上げる。
実際、一般人どころか、並みの術者でも、とっくに地面に這い蹲って立ち上がれなくなっているほどの加重力帯の中で、平然と腕を上げる事が出来るだけでも、愛梨の実力の高さは覗える。
(ま、アタシも、コーイチがどう出るか、気になるっちゃ気になるしな)
ちなみに、夏輝は鳴がキレた時点から、紅壱が負けないと信じているからか、二人の目にも止まらぬ動きを見つつも、どこか眠たげだった。
15発の風の刃。一発はガードできたが、この連撃を受ければ、ただでは済まない。
鳴らを驚愕させたとは言え、紅壱がまだ、魔力のコントロールに関して未熟である事実は変わりない。
アバドンと言う巨大なタンクが身の内にあっても、彼にはそれを開くための蛇口を回すパワーも、それを体内に循環させる経路も整っていない。
今の彼は、腕に魔力を凝縮させるのも、せいぜい、1秒が限界。
もし、無理に魔力を腕だけに留め続けようとすれば、内部から破裂してしまうだろう。
肘から先が吹き飛んでしまうのは構わない。数秒もあれば、再生するだろうから。
しかし、その過程を今、メンバーに見られるのは些か、都合が悪かった。
なので、紅壱は回避を、合理的に選択した。
彼であれば、常時のリズムを崩している鳴の背後を取り、隙だらけの首元へ手刀を打ち込み、意識の糸を断つ事は簡単だった。しかし、それでは面白くない、と考えてしまうのが、彼の悪い癖。喧嘩屋、そんな悪性がそぞろと騒いでしまったようだ。
疾風切弾、一発のスピードは、約130km/h前後だが、迫ってくるタイミングは揃っていないし、目が反応できないほどの速度ではなく、体も意識に追いついてこられる。
元より優れている動体視力と反射神経が、闘気により強化されている紅壱であれば、避ける事は、さほど困難ではなかった。
さすがに、何発かは回避が間に合わない、そう判断せざるを得ないものもあったが、それはそれで、地面から拾い上げた、羅綾丸の糸がくっついている袖を拾い、盾とする事で、己の身と秘密を守る。
「やるぅ、ヒメくん」
「アタシなら、被弾上等で突っ込んでいきますけどねぇ」
「・・・・・・」
「ナル、ざまぁ、って言い過ぎだぞ、ナツ」
「ナルちゃんも成長してるんだけど、ヒメくんとの差は埋まりそうにないねぇ」
今度こそ、と不安を押し退けるように、半ば強引に得ていた確信まで消し飛ばされ、鳴はパニックに陥る。
現実を拒絶するように悲鳴めいた威嚇の声を発し、鳴は頭痛を無視して、「疾風刃弾・連」を、再び使う。
その度、紅壱はまるで目には見えない相手、きっと、瑛だろう、とダンスを楽しんでいるかのような足運びで、当たれば肌が切れるだけじゃ済まない風の刃を回避ている。
ガチの実戦ではないけれど、風の刃の軌道を鳴の目線や手元、刀の角度から予想して躱すコツが掴めるのが楽しくてしょうがないのだろう、紅壱の口元には楽し気な歪みすら浮かんでいる。
当然、それ、魔王的な微笑が鳴の曇った目には嘲笑と移り、怒りの火へ焦りと言う名の油を注ぐのは百も承知だった、紅壱は。
結局、二人のじゃれ合いは、シックスナインになってしまった驚きと、キス未遂の幸せの余韻から、やっと我に返ってこられた瑛が目の前の光景に右往左往し、最終的に雷を二人へ落とすまで続くのだった。
度重なる失敗で、死に過ぎた鳴の魂は既に、回復不能なレベルまで傷だらけとなっていた
つまり、もう二度と、彼女はやり直せないのである。しかも、今回は、失敗のルートを回避するのに必要な記憶も受け継げていなかった
そんな事など知らないのだが、今回も、鳴は紅壱を殺そうと、本気の攻撃を繰り出す
けれど、才能の差は歴然
紅壱は、鳴が必死に繰り出すカマイタチを、まるで、ダンスのステップでも踏むかのようにして回避してしまうのだった
二人の喧嘩を止めたのが、我に返った瑛の雷であった事は言うまでもない