第十話 蜘蛛(spider) 獅子ヶ谷瑛、辰姫紅壱に弱点を知られる
いつ起こるか分からぬ、有事に備え、魔属・霊属と契約を結ぶための儀式に挑んだ紅壱
しかし、一同の予想に反し、彼の中から飛び出た、複数のエネルギー体は広大な森の至る箇所へ飛び散ってしまう
瑛の号令の元、生徒会役員らは飛散した光球の落下予測地点へ散開する
果たして、紅壱は全てのエネルギー体と契約を結び、戦力を強化できるのか?
手を少し伸ばしたら容易に触れられる距離を1cmたりとも縮めさせることなく、歩調をコントロールして自分の前を歩いている瑛の白い首筋に、冷たい視線を注いでいた紅壱は彼女に気取られないように溜息を強く噛んだ。
「どうした、辰姫? 緊張しているようだが」
ノーモーションで瑛に振り返られ、いや、何でもないです、と表情をキツく引き締めた紅壱。
そんな彼を可笑しげに見つめる瑛の手には、先に四つの鈴が揺れる赤い紐が握られていた。どうやら、それで霊属の大まかな位置を把握できるようだ。彼女は「チリン、チリン」と鈴が鳴る方向へ、躊躇うことなく歩を進める。
「不安なら、素直に言ってくれ。私は、どうにも、その辺りを察するのが不得手なんだ」
「いや、大丈夫っす・・・いや、まぁ、ちょっとばかし不安っすけど」
親指と人差し指の間に隙間を作った紅壱を訝しむように眉根を寄せた瑛だったが、「何があっても私が守る、安心していい」と真面目に告げ、顔を前に戻すと鈴に魔力を流し込む。音波はゆっくりと広がっていき、霊属にぶつかって返ってきた。
「近くにはいないか・・・・・・」
(——————・・・・・・今更だが、ぶっちゃけ、この生徒会メンバーで一対一になって、一番に緊張させられるのは会長なんだよな。まぁ、言えねぇけど、んなコト・・・泣かれたくねぇしな)
数日前、偶然、混雑していた食堂で鳴と相席になってしまった。彼女は自分をあからさまに憎み、恨み、妬んでいる。しかし、それでも、瑛といる時ほど、手に汗はかかないし、喉も渇いてこない。痛む心臓が早鐘のようになる事だってなかった。むしろ、クラスの女子よりハッキリとした感情を向けてきてくれる鳴に対し、皮肉混じりに軽口を叩くのは嫌いじゃなかった。
(他の人らより隙がねぇからだろうな)
冷静に分析を下す紅壱。後輩である自分を守るように、自発的にさりげなく前を悠然と歩く瑛に、弱点があるようには彼には思えなかった。
まだ定期テストが行われていないからハッキリはしないが、生徒会室で課題を手伝って貰った時の自分に合わせた教え方からして、彼女が全国模試でかなり上位に名を食い込ませている事は間違いないだろう。
運動神経もズバ抜けているのは、人間以上のパワー、スピード、跳躍力を有する魔属・霊属を相手にしても互角に持ち込める点からしても疑いようがない。模擬戦闘では手加減をされているから、五分に持ち込めるが、本気になられたら危ない。負ける、という意味ではない。スイッチが入ってしまい、瑛に怪我をさせてしまうのが、紅壱は怖かった。
有能かつ優秀な生徒会長として、全生徒から尊敬の念、畏敬の視線を集めている事も、わざわざ言う必要がないほどだ。
明らかに自分の足下にも及ばない他人を見下す発想がないように、普段の一般生徒への接し方から紅壱には思えた。生徒のトップに立つ人間ならば、意図せぬうちに一抹の優越感で自然と他人を少し上から見がちになる。
だけれども、瑛は常に相談相手と同じ目線に立ち、なるべく、相手に見合った適切な助言を送り、最低限のサポートだけを行う、下手に甘やかして彼女等の心身の成長を阻んでしまったりしないように。
実際、見た目も内面も、『普通』の生徒からは懸け離れてしまっている紅壱にですら、瑛は物怖じすらせずに接す。むしろ、逆に厚かましさすら覚えるほど、ガンガン距離を詰めて来ようとする。単に、自分のようなプチ不良が物珍しいからか、「君に期待している」と言う真直ぐな言葉に虚飾がないからなのか、それとも、本当に惚れているのか、紅壱は時に首を傾げたくなる。
(この人に、男として見られてるってのは光栄、それは本音だ。
付き合えるってんなら、マジで嬉しい。
けど、俺の勘違いで告白しちまって、玉砕したら、って思うと踏み切れねぇんだよなぁ)
こうも、自分が女々しいと、瑛へのキモチ、どんな動きを取るべきか、それを考える事で知るとは思ってもいなかった紅壱は、軽い自己嫌悪で頬の筋肉が固さを増し、兇悪さがより際立ってしまう。
そんな彼の葛藤はさておき、『完璧超人』と表現しても差し支えない人間だった、獅子ヶ谷瑛、この少女は。
そんな評価を周りから受けている自覚があり、その期待に応える気概を維持している瑛。
彼女は、自分がどうして、その気になって探せば何処にでもいそうな人間である紅壱と対峙した際、己は落ち着きに欠けてしまうのかが判断らないのが気に入らず、半ば強引に紅壱に自分とペアを組ませた。
思いきって、何故、私は君と一緒にいるとドキドキするんだろう、と尋ねてみるか、腹を括った彼女が足を止めたのは紅壱より、ほんの少しだけ遅かった。
足を止める半瞬前、彼女の周囲の空気がわずかに引き締まったのを感じた紅壱は瑛が見ている方向とは反対側に、狩人のそれに近い視線を走らせる。
右手側の茂みが震え、奥からガサガサと巨大な『何か』が柔かい草を踏みながら自分達の方に歩み寄ってくるのを察知し、瑛と紅壱は自然に臨戦態勢を取る。
すると、あちら側も二人の威嚇を感じ取ったのか、進むのを止めたようで、一転し、静寂が響く。
「・・・・・・」
「距離は200mくらいっすね」
しばらく、瑛は魔力が流れてくる方角へと、獅子のごとき、烈しい光が宿る瞳を無言で向け続けていたが、どちらも待ったままでは埒が明かない、と判断したのか、小さく頷いて、慎重に歩を再開する。
一瞬、肩に手を置き、静止ないしは撤退を促すべきか、迷った紅壱だが、自分の意見に耳は傾けても、瑛は前進あるのみ、その選択を翻さないだろう。その展開が、容易に想像できた彼は「仕方ない」と諦め混じりに呟く。そうして、紅壱は足に引っ掛かっていた蜘蛛の糸をそっと千切り、瑛を静かに追う。
「辰姫」
「何ですか、会長」
瑛の顰めた声に、紅壱もボリュームを絞って返す。
魔属もしくは霊属が、どこに身を隠し、こちらの隙を窺っているか分からない以上、極力、音を出さないで動くのがセオリー、会話も控えるべきなのだが、瑛は紅壱の緊張を感じ取ったようで、自ら喋りかける事で、彼の不要な力みを和らげようと試みる。
しかし、彼女は自らの声が、いつになく上擦りを含んでいる事に微塵も気付いていなかった。実際に、静寂を生む緊張に耐え切れなくなっていたのは、瑛の方だったようだ。紅壱も、それなりに神経を尖らせていたので、瑛の心情が理解できた。だからこそ、危険が増すのも承知で、彼女の呼びかけに応えた。
紅壱が返事をしてくれた事で安堵を覚えたのだろう、瑛の双肩から立ち上っていた剣呑すぎる気迫は薄まる。
「君に、苦手な動物はいるのか?」
「藪から棒ですね」
「いや、大事だぞ。
君の念により、こちらに来た魔属、霊属が亜人型や獣人型であれば、問題はないが、動物型である可能性もあるのだ。
その時、フォルムが苦手なモノであったら、信頼関係は築けん」
一理あるな、と頷いた紅壱は瑛の質問を真面目に考えてみたが、すぐに首を横に振る。
田舎の村暮らしで、山や川が遊び場だったのだ、紅壱は。野生動物に対し、怖い、と思う事はしょっちゅうでも、嫌い、と感じる事はなかった。獣、鳥、魚、虫の類はご近所さんだった、彼にとって。
(さっきから、妙に蜘蛛の糸が顔にへばりついてくるな)
瑛はズンズンと進んでいるので、恐らく、自分の顔がある高さばかりに巣があるのだろう、と紅壱は推測し、粘つく糸を顔から剥がす。
仮に、これから契約を結ばねばならぬ相手が、どんな形状の動物型であっても、紅壱は良好な関係を築こう、と決めて、「特にないですね」と瑛にハッキリと答えた。
(まぁ、万が一にも、天使だったら、即お帰りいただくがな)
「そうか、君には生理的に無理、と言う動物はいないのか」
羨ましい、瑛の声に、そんな感情が宿っているのを聞き逃さなかった紅壱。
逡巡は滲むも、好奇心は押さえられず、紅壱はソフトに探ってみる。
「会長はあるんですか、苦手なもの」
「あるに決まっている。君もそうだが、皆、私の事を何だと思っているんだ」
「他の奴らの印象は知りませんし、興味もありませんけど、俺は尊敬できる女、って思ってます。
頼りになる、頼りにしたい、っつーより、頼られたい、って思ったのも初めてですね、女性に対して。
あー、いや、頼られたいっつーと、何様目線だ、と言われちゃいそうか。
何て言えばいいのかな・・・・・・甘やかしたい? 自分の前だけでは、素を出してほしい、かな?」
紅壱の欠点の一つ、それが、思った事をハッキリ相手に言う点だろう。口に出したら傷つける、と思う内容は言わないか、ボカすのに、彼は相手が気分を害さないだろう、と判断した言の葉を口から紡いでしまう。これは、日常的な会話を修一ら、気の合う同性とばかりしていて、年齢の割に異性との対話能力が低いままであるから、と思われる。
そんな直線的な賛辞を、イケメン枠に入れても違和感がない紅壱にノーモーションで投げられて、冷静に受け止められる女子がいるだろうか。いや、いまい。多分に漏れず、瑛も頭皮まで真っ赤になってしまう。 もし、霊属探しの真っ最中で泣ければ、嬉しさが極まって、失神してしまっていただろう。
まだ姿を見せぬ霊属に内心で感謝しつつも、さすがに、頬の紅潮まではコントロールできないようで、瑛は熱った顔を手で扇ぐ。森の澄んだ空気は頬に気持ちよいが、火照りはすぐに引いてくれない。
「―――・・・君は、いつも、そんな殺し文句を、女性に対して言うのか?」
自分の声に妬みが含まれている、と気付き、瑛は血の気が引きそうになるも、紅壱は見なかったフリをし、「まさかでしょう。俺は、リップサービスを使えるほど、小器用な男じゃありませんって。会長みたいに、ホント、凄い女性にしか言いません」と、再び、瑛の女心を殺しに来る。
もう、瑛はKO寸前で、膝が小刻みに震えてしまっている。意識して、女性を褒めている男なら、自分の口撃が確実に効いてきている、とほくそ笑むだろう。しかし、性質が悪い事に、紅壱には下心などない。故に、彼は悪気なく、「尿意でも催したのか?」と心配になり、眉を顰めてしまう。
腐れ縁の男友達であれば、そこらへんでしてこいよ、と気軽に言える。しかし、相手は異性で、先輩だ。さしもの、紅壱にも、この言葉は不味い、とブレーキは踏める。
いっそ、会長の方から「花を摘みに行ってくる」と言ってくれりゃ、その場に蹲って、目をキツく閉じ、耳を塞ぎ、念を入れて大声を発し、水音を聞かない配慮も出来るのに、と紅壱が途方に暮れた時だった、救いの手が差し伸ばされたのは。
二人が自分の攻撃範囲に入ったのを感じ取ったのだろう、それは自らも距離を詰めてきたのだ。
草が踏まれる音に、二人の間に漂っていた、甘さと苦さが混じった空気が瞬時に霧散する。一瞬前までは、いっそ殺してくれ、と懇願するように身を小刻みに震わせていたのに、音のする方へ向いた顔は、戦士のそれに変じていた。
「気を抜くな」
「・・・っす」
瑛は跳びかかってきた相手にカウンターの右ミドルキックを合わせるつもりなのか、しっかりと脱力したオーソドックススタイルに構え、紅壱はいつでも左ジャブを繰り出せるように左足を軽く前に出したファイティングスタンスを取った。
しかし、「来る」と確信を覚え、全身に走った力みを堪えようとした瑛は次の瞬間、絹を引き裂いたような悲鳴を放ってしまった。
「うおっ!?」
紅壱は草むらから姿を覗かせた「それ」より、隣で彼女が発した悲鳴に驚かされてしまう。思わず、怒髪天となった鳴が駆けつけてはこないだろうか、と恐怖で歪んだ顔を左右に忙しく動かしてしまう。
幸い、鳴は既に、瑛の悲鳴も聞こえないほど遠い地点まで移動してしまっているようだ。
(アイツの事だから、『愛の力』で駆けつけちまうかと思ったが)
安堵で胸を撫で下ろしかけた紅壱の手が素早く動く、精神にかかる負荷が限界を超えて気絶してしまった瑛の身を支える為に。
彼女が自分たちの上に立つ人間に相応しくあり続けるために、毎日、地道な筋トレを続けて、常に魔属・霊属と渡り合える状態にしている事は紅壱も恵夢から聞かされて知っていたが、腕に感じる女性らしくない重みに思わず、目を見張ってしまう。
(おいおい、どんだけ自分を苛め抜いてるんだ、この人ぁ)
普段から、女性を抱きかかえるような状況に陥っているわけではないが、瑛は少なくとも彼が働いている喫茶店の女性スタッフの誰よりも筋肉質だった。
かなりのショックが精神に圧し掛かったのだろう、いつになく険しい顔で失神している瑛を、俗に言う『お姫様抱っこ』の状態で抱え直した紅壱は、ついに草陰から全貌を現したそれを、闘争心が剥き出しの眼光で威嚇する。
常に気丈な瑛を気絶させるほど不気味な姿をしていた、それは。
短く硬そうな暗褐色色の体毛に覆われた足は、女子高校生の平均的なサイズのウエストよりも遥かに太いだろう。しかも、そんな足が左から四本、右からも四本、計八本が同じく毒々しさを醸し出す色の体毛が逆立つ、巨大な胴から生えているのだ。
足の多い虫が苦手じゃないタイプの人間ですら絶叫しない方が不思議だろう。中学時代、山野を駆け回って、それの仲間を何十種類と見てきて慣れている紅壱ですら、戦う気で満ちている心の片隅に、一抹の恐怖を覚えてしまうほどだ。
(警戒すべきは、八本の脚による高速移動。巨体を活かしての体当たり。
糸もヤバそうだな。それを使って、三次元的な移動もするかも知れん。漫画みてぇに、糸で鉄を切るって事もあり得るか?
牙も鋭いが、毒を吐く可能性もありそうだ・・・麻痺ならまだしも、即死系はヤバいな)
戦うとなった時、勝てるか、と自問した紅壱は即座に「無理だ」と判断する。
人間は重火器を持っていたって、巨大化した虫には勝てない。生物としての強さが、根本的に違い過ぎる。野犬や猪、若い熊程度であれば、祖父に仕込まれた格闘術で、容易く無力化できるが、人が継承してきた伝統の重さが、目の前の巨大蜘蛛に通じる、と思い込めるほど、紅壱はシンプルな頭の作りをしていなかった、残念ながら。
しかも、今、自分の両腕は瑛を抱き上げている事で塞がってしまっている。攻撃手段が蹴りしかないとなったら、余計に手詰まりだ。
逃げる、この選択も下策と終わるだろう。瑛を抱いたままで最高速度を出し、なおかつ、それを維持できるとは思えない。よしんば、トップスピードに乗れても、足の数が異なる蜘蛛はあっと言う間に、前に回り込んでくるだろう。また、吐いた糸が背中や足にくっつけられたら、一気に引き寄せられてしまう。咄嗟に、瑛を投げても、彼女が蜘蛛に襲われる順番が後になるだけだ。
瑛を起こしても、戦力として数えられるかも怪しい所か。またも気絶するくらいなら、このままにしておいた方が良い。気絶すら出来なくなるほどの恐怖で、精神が壊れて、廃人同然になってしまったら目も当てられない。
不良を気取っているくせに、瑛を囮ないしは生贄にし、自分だけは生き延びよう、そんな発想が微塵も浮かばないあたり、彼の根っこは良い奴である。そして、身近な人はそれを知っているのだ。
さて、どうしたもんか、途方に暮れた時か、足と同じ数の青白い光が点滅している複眼と目がバッチリと合ってしまった紅壱。
「・・・・・・ぅ」
自分が嫌悪感や気持ち悪さを、目の前でジッとしている巨大な蜘蛛に対して抱いていない事に気付いて、少し驚く。
感じる恐怖にしても、あくまで、その規格外のサイズに対してだけ。
(・・・やっぱ、俺が召喚したからなのか? この・・・デカい蜘蛛を)
巨大蜘蛛はカチカチと匕首のような二本の牙を打ち鳴らした。その規則的な音で、彼(彼女?)が自分達に対して殺意や敵意、そして、食欲を抱いていない事を察した紅壱は臨戦態勢を解除し、全身の隅々にまで張り巡らせていた緊張感を霧散させる。
彼が戦る気満々な闘気を長躯に引っ込めたからだろう、巨大蜘蛛の巨躯から安堵の念が伝わってきた。それを感じた紅壱は彼(彼女?)もまた、唐突に『コチラ』へやって来てしまって、不安になっていたのを理解し、威嚇してしまった事に申し訳なさを抱く。
そんな彼の表情のわずかな変化を見たからか、まるで彼に「気にしてないよ」と言うかのように牙を鳴らす巨大蜘蛛。
人語は口の構造上、発せないようだが、意思は頭ではなく心で読み取れると直感した紅壱は自ら、巨大蜘蛛に歩み寄っていった。慎重だが力強さが滲む彼の前進に応えるかのように、巨大蜘蛛も太い脚を動かして草葉が擦れる音すら上げる事なく距離を詰めていく。
(今、会長に起きられたら、間違いなくパニックを起こされて、俺もコイツも瞬きをする間もなく殺されるかもな)
想像に難くない凄惨な未来予想図を思い浮かべてしまい、失笑をつい漏らしてしまう紅壱はついに、触れられる距離まで巨大蜘蛛に近づき、静かな気持ちで対峙する。
「時間もないから、単刀直入な言い方をさせて貰うが・・・俺と契約してくれ」
懇願でもなく、指示でもない紅壱の強気な発言に、巨大蜘蛛の八つの眼が可笑しげに歪んだ。その黄色と赤の点滅が歓喜か、侮蔑かを表しているのか、その辺りはハッキリと読み取れなかった紅壱だが、あえて何も言わずに巨大蜘蛛の反応を眉一つ動かさないで待つ。
巨大蜘蛛は目を点滅させるのを止めると、おもむろに牙を16ビートで打ち鳴らしてくる。
頭に直接、鮮明な映像として浮かんだ彼(彼女?)の出してきた契約する条件に目を大きく見張った紅壱だったが、間を置くことなく「飲む」と力強く首を縦に振った。
先程よりも速く目を黄色く点滅させた巨大蜘蛛は、牙を強めに一度だけ鳴らす。
「よし」と破顔した紅壱は巨大蜘蛛の眼前に膝を落とす。そうして、心の中で「会長、起きないでくれよぉ」と本気で念じながら、袖を肘まで捲り上げた筋肉質な右腕を彼(彼女?)の鋭く、不気味な液体で濡れている二本の牙の前に突き出す。
「っつう!?」
そして、腕に牙が根元まで埋まる。鋭く突き立てられた痛みに、思わず硬く閉じてしまった目に滲み出した涙を振り払いながら、ゆっくりと瞼を上げると、既にそこには巨大蜘蛛の姿は無かった。
足下の草が不自然な形に潰れていなければ、今のは白昼夢だったのか、と疑いたくなるな、そう思いながら、袖を下ろそうとした紅壱は周囲の肉を不気味に蠢かせながら、もう塞がろうとしている腕の二つの孔に気付く。
それは彼に見られながら完全に治り、代わりにそこには巨大蜘蛛との契約の証である事を示すかのような、毒蜘蛛を象った赤褐色の痣が浮かび上がる。
「よしっ」と彼が嬉しげに口許を歪ませて拳を握った拍子に、抱きかかえられていた体を揺さぶられたのだろう、瑛は小さく不機嫌そうな呻き声を発し、細く目を開けだす。
そうして、「あ、起きましたか?」と暢気な声をかけながら、自分の顔を覗き込んできた紅壱の黒曜石を思わせる目と自分の目とがバッチリ合ってしまった瑛は五秒半かけて、耳まで真っ赤になっていき、ほぼ反射的に紅壱のガラ空きになってしまっていた顎を打ち上げた、強烈な掌底の一撃によって。
「何をしているかっっ!?」
タイミング、角度ともに文句のつけようがないほどのアッパーに、さしもの紅壱の柔軟な筋肉で固められていた太さのある首も全ての衝撃を逃しきれなかった。脳を縦方向に揺らされ、力を強制的に抜かされた膝が不規則に踊ってしまうも、彼はそれでも、瑛を地面に落としてしまうような醜態は晒さなかった。
「本当にすまなかったッッッ!!!」
「い、いや、もう大丈夫っすから」
未だに鈍い熱が残っている顎を擦りたいのを堪え、紅壱は今すぐにでも自分の額を割るような気迫で土下座をしようとしている瑛を落ち着かせる。
彼の顎を打ち抜いた感触で、すぐさま冷静さを取り戻した彼女は紅壱に優しい動作で地面に下ろされてからの三分間、彼に対して謝り続けていた。
「失神した私を介抱してくれようとしていた君を、またしても殴ってしまうなんて、会長以前に人間として失格だ、私は」
どうも、この人は責任感が強すぎて自分を追い込みやすい性質だな、と瑛の一面を知りつつ、紅壱は穏やかな口調で彼女を落ち着かせる。
「・・・獅子ヶ谷会長、こんな事で俺なんかに頭を下げないでくださいよ。
誰だって、こんな凶悪な面の男の腕の中で目を覚ましちまったら、パニックで手の一つや二つは出しちまいます。
ホント、気にしなくていいっすから」
すると、途端に瑛の表情を険しくしていたものが罪悪感から怒りへと摩り替わる。
「そんな風に、自分を卑下するんじゃない。
何が『凶悪な面の男』か。君の顔は凛々しく、実に整っている。自信を持て。
君が、どうしても、自分の顔を好きになれないのならば、私が君以上に好きになってやる」
今の今まで必死に謝られていたのに、いきなり叱られ、容姿を褒められた挙句、告白紛いのコトバを真正面からぶつけられたものだから、紅壱は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になってしまう。そんな彼を見て、自分が何を今、口走ったのかに気付いた瑛はまたもや頭皮まで朱に染まってしまう。
だが、一旦、謝罪の言葉を切ったからだろう、少しは気持ちも落ち着いたようで、再び、彼と目が合った時にはもう詫びては来なかった。その代わりに、瑛は「ありがとう」と真剣な声で告げ、折り目正しく深々と頭を下げた。それに対し、紅壱は無言で、柔らかな微笑を返すに留めた。
(あー、やっぱ、俺、この人、好きになっちまいそうだ。
あの魔王を復活させなきゃいけねぇから、彼女なんか作ってる場合じゃないって思ってたのになぁ。
生徒会の仕事に慣れて、ちっと自信が出たら、いっそ玉砕覚悟で、告ってみるか)
瑛とペアを組み、霊属を探して森の中を歩く紅壱
緊張をほぐし合うために交し合った会話の中で、彼は瑛への好意を新たにする。同様に、瑛も紅壱のストレートな言葉に、恋心をくすぐられていた
そんな二人の前に出現した霊属、それは巨大蜘蛛だった。実は、完璧超人で完全無欠と思われている瑛だったが、蜘蛛だけは大の苦手だった
後輩に醜態を晒してしまった瑛、恥ずかしがる一方で、心の片隅では、彼になら弱点を知られても良かった、と思うのだった・・・・・・