第百四話 助言(advice) 恵理砂、ある事に悩む紅壱に助言する
紅壱がアルバイトの料理人として働く「うみねこ」に来店したのは、合唱部のコーチ・馬止辺恵理砂だった
聞いていた噂と実際の彼女の容姿、そのギャップに驚きは覚えつつも、紅壱は恵理砂を客として歓迎する
恵理砂もまた、紅壱がここで働いていたとは思っていなかったようで、仰天こそしたが、落ち着き、ある料理を注文する
果たして、紅壱が貧血気味の恵理砂の為に作った料理は、舌に合うのか?
「お待たせしました」
「あぁ、美味しそう」
恵理砂は、料理から立ち昇る白煙で、より一層に、食欲を刺激されたようで、口の端がキラリと光る。
「ライスにしますか、パンにしますか?」
「・・・・・・パンで」
少し迷って答えた恵理砂に「畏まりました」と頭を軽く下げ、紅壱は六枚に切ったバケットを提供する。
「いただきます」と、目の前の食事と料理人《紅壱》への感謝を示し、恵理砂はまず、スープを口へ運ぶ。
容姿こそ野暮ったいが、食事の作法は洗練されており、彼女のスープを飲む姿は決まっていた。
紅壱は感歎の息こそ吐き出さなかったが、自然と片方の眉が上がってしまったほどだ。
「牛乳の甘みが、体に染み込んできますねぇ」
ほぅ、と吐いた息は、見た目とのギャップも相まってか、妙な色気を滲ませる。
店内に、ちらほらといた男性客をドキドキさせている自覚もないのか、恵理砂はたっぷりと黄色に染まったアスパラガスを齧る。
シャキッ、と気持ちの良い音を上げたアスパラガスを、恵理砂は楽しそうに咀嚼する。
「おいしっ」
唇についた黄身を舐める際、彼女の唇の隙間からは鋭い犬歯が覗いた。
「では、メインを」と、恵理砂は双眸を煌めかせながら、フォークへ乗せた鶏レバーを口に運んだ。
一瞬、目を見張った彼女の表情は途端に緩む。二つ目を乗せたパンを食した恵理砂のそばかすが目立つ頬は、今にも落ちそうである。
そんな彼女の嬉しそうな表情に、紅壱も微笑む。
初来店の人間が目の当りにしたら、即座に逃げ出すだろうが、この店にいるのは紅壱の顔にも慣れつつある常連で、なおかつ、人間ではないので、彼のリアクションに苦笑するのみで、自分らの食事を中断しないだけの胆力があった。
「あー、ほうじ茶も合うけど、お酒欲しくなっちゃう味」
そうボヤいた恵理砂だが、「でも、外じゃ呑まないって決めてるんですよねぇ」と自戒するように、コツンと自らの頭を打つ。
「足腰が立たなくなっちゃうんですか?」
「どっちかっていうと、キス魔になっちゃうんです」
「・・・・・・キス魔ですか」
「そう、誰彼構わずに、首筋にチューして、吸っちゃうんです」
自嘲に唇を歪め、恵理砂はパンへ、お代わりしたポテトサラダを乗せて齧る。
「でも、これ、本当に美味しい。赤ワインが合うのになぁ」
肩を落として項垂れる恵理砂に、紅壱が差し出したのは一枚のメモ。
「レシピです。家で作ってみて下さい」
「え、いいんですか?」
「お客さんに喜んでもらうのが一番ですから。
いいですよね、店長」
ここで、「ダメ」と言うほど多部も鬼ではない。彼女は、二口女なのだから。
「お酒に合う料理を覚える為に、ここを贔屓にしてください」
「ありがとうございます」
嬉しそうな笑顔で、紅壱からメモを受け取った恵理砂は大事そうに、それを胸ポケットへ入れていたパスケースに挿し入れる。
「凄いですねぇ、君は。
あの獅子ヶ谷さんのお眼鏡に適って、生徒会で活躍してるだけじゃなくて、こんな美味しい料理が作れちゃうなんて。
モテるでしょう? 実際の所」
「どうですかね。俺は、この悪人面ですからね、周囲に女子が多いからと言って、漫画やドラマみたいには、安易にモテませんよ。
それに、何百人の女にモテるより、俺は本気で一人の女と、本物の愛を本気で交わしたい方なんで」
頭と下半身が別の生き物、と言われる年頃の男子高校生とは思えぬ、ピュアさと漢気が満ちる、紅壱の台詞を真正面から聞き、恵理砂は目が点になる。
しばらく、呆けていた彼女だったが、「やっぱり、君は凄いわね」と呟いた。
「獅子ヶ谷さんが認める男子に興味はあったんだけど、こんなに中身がある、男の子だと思ってなかったわ」
ごめんなさい、と頭を下げられ、紅壱は戸惑ってしまう。
「・・・・・・まだ、獅子ヶ谷さん達も知らないのだけど、私、今度ね、生徒会の顧問も任される事になっているの」
「え、そうなんですか?」
生徒会も、学生活動の一端なので、顧問がいるのは当たり前だ。
(そう言えば、俺、まだ、生徒会の顧問と面、合わせてなかったな)
「元々、生徒会の顧問は片瀬教頭が引き受けていたんだけど、副校長の研修で、生徒会に関わる時間を確保するのが難しいそうなのよ。
けど、他の先生は全員、部活の顧問に就いちゃってて、最も忙しい生徒会の顧問は引き受けられないの。
それで、外部講師の私が頼まれたってこと。
無理です、って断ったんだけど、そもそも、獅子ヶ谷さんが生徒会長である以上、顧問は単なる飾りだから、いるだけでいい、って片瀬教頭に押し切られちゃったんだ」
確かに、瑛が生徒会長なのだ。わざわざ、教師の手を煩わせはしないだろう。むしろ、余計な口出しなどしたら、瑛にお仕置きされかねない。高等部の教師陣に、その程度の想像も及ばない愚者はいまい。
(他の先生は、生徒会の顧問になれなかったんじゃなく、なりたくなかったんだろうな)
情けない大人だな、とは呆れるが、自分のプライドは守りたい、その保身は理解できる。年端もいかない女子高校生に邪魔者扱いされるのは耐えられまい、年齢が高く、キャリアがある教師ほど。
いよいよ、頭に血が上って、暴力に訴えようとしたところで、返り討ちにされるのも目に見えている。
「正式に決まるのは、五月頃、ゴールデンウィーク過ぎになると思いますけど、よろしく」
「こちらこそ。
まぁ、俺もまだまだ、先輩らに仕事を教えてもらっている最中で、同級生にも置いていかれないよう必死こいてる身なんですけどね。
さっき、馬止辺先生は、俺のこと、凄いって褒めてくれましたけど、世界で歌手として活躍してるだけじゃなく、才能がある生徒にプロの技術を教えられる才能がある先生の方が、よほど凄いですよ」
すると、恵理砂は寂しさと自らへの苛立ちが綯い交ぜになった笑みを浮かべ、「そんな事はありませんよ」と、紅壱からの賛辞を、さりげなく、だが、ハッキリとした態度で退けた。
「世界的に活躍と言っても、プロの世界にあるピラミッドじゃ、私はせいぜい、真ん中です。
コーチを引き受けているのも、こちらで生活するための費用を確保する為です。
しかも、その報酬だけでは暮らしていけないので、他の仕事もしています」
「他の仕事っすか」
彼女はコーチであり、教師ではないので、副業をしても就労規則違反にはならないだろう。とは言え、恵理砂はガードを上げていたので、紅壱はそれ以上、聞かない。
「不安が無いと言ったら嘘になりますけど、精一杯、頑張ります」
「いやいや、先生にまで頑張られたら、男一人の俺は余計に肩身が狭くなっちまうんで、程ほどでイイですよ、頑張るのは。
それに、キツくなったら、ここに来てください。飯食いながらの愚痴には、俺でも突き合えますんで」
「・・・・・・ありがとうございます。
優しいですね、アナタは。
そんなに、女性の扱いが上手いなら、やっぱり、モテるでしょう」
最後の一本のアスパラガスを名残惜しそうに齧りながら、恵理砂は悪戯っぽく笑う。
チラリと見えた犬歯は、やけにセクシーで、紅壱は彼女に大人の魅力を、確かに視た。
これを計算でしているなら大した女優だな、と感心しつつ、紅壱は「全然っすよ」と首を横に振る。
「可愛い女の子にモテたいとは、曲がりなりにも生徒会の一員なんで言えませんけど、せめて、もうちょっと、距離は縮めたいんですけど。
会長のアドバイスで、なるべく、笑顔で接するようにしてるんですけど、やっぱ、ビビらせちまうんですよ」
紅壱の事を本能かつ根本から嫌っている鳴は除外されるにしろ、瑛と夏煌は惚れており、恵夢と愛梨の中では好感度が高いので、彼の笑顔に対して、恐怖の感情は、もう生じない。
だが、まだ、紅壱の良さを分かっておらず、外見で判断している女生徒からすれば、紅壱に笑いかけられたら、膝は笑い、息も出来なくなってしまうのだろう
「確かに、先生の間でも噂にはなっていますね、君と矢車君は。
女子生徒からおっかない、とクレームが来ているそうです」
「マジですか・・・」
まさかの事実に、紅壱は少なからず、精神にショックを受ける。
「けれど、貴方達の怖さが抑止力になっているのか、今年度は男子へのイジメが減っているそうですよ。
確かに、女子生徒から怖がられるのは辛いかもしれません。
でも、生徒会の皆さんは、貴方のスマイルに嫌悪感を抱かないでくれているのでしょう?
きっと、他の女生徒にも、腐ったり、諦めたりせずに笑いかけ続ければ、貴方の良さがちゃんと伝わるはずですよ」
「あざっす」と、紅壱が大きく頭を下げると、「生徒会顧問として、私も協力しますよ」と親指を立てる。
「あー、美味しかったです」
アボカドとカニのサンドイッチまでもペロリと平らげた恵理砂は、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「お口に合いましたか?」
バッチリ、と恵理砂がお腹を擦ってくれたので、紅壱は安堵し、今までで最も柔らかい笑みを浮かべた。
「!! それですよ、辰姫くん」
「え?」
「その笑い方なら、女子全員に怖がられる事はなくなりますよ」
恵理砂から、ピッと伸ばした人差し指を向けられ、紅壱はキョトンとした表情で、自らの頬へ手を持って行く。
「貴方の事を想い、あえて、ハッキリ言いますが、貴方の満面の笑みは、トイレを探している下痢っ腹なデーモンか、放置しすぎた虫歯の痛みを堪えているワイバーンにそっくりです」
「!?」
自分の笑顔が、一般人の尺度からしたら、威嚇に近い効果を与えるものなのでは、薄々と思い始めていた紅壱だったが、よもや、そんな例えを持ち出されるとは予想外だった。
「しかし、今の、微笑む程度であれば、相手を必要以上に委縮させる可能性は低くなるはずです。
生徒会メンバー以外の女生徒には、それくらいの微笑を向ける意識を持ったら、どうですか?」
「微笑ですか」
「正確に言えば、微々笑くらいに抑える必要があるかも知れません」
この先生はまた、無理難題を押しつけてくるな、と紅壱は渋い表情になる。すると、恵理砂は「その顔は、絶対にしちゃダメですよ」と眉間に皺を寄せ、注意する。
「う、うっす」
「もちろん、いきなりは無理でしょうから、少しずつでいいですよ。
幸い、貴方には、生徒会メンバーと言う味方がいるんですから、彼女達にもアドバイスを貰えるでしょう」
「まぁ、約一人、バリバリ、俺に敵意を剥き出しにしてきてるんで、味方って感じじゃないですけどね」
鳴相手なら、本気で威嚇したいくらいだ。さすがに、彼女の心臓が止めてしまったら、冗談じゃ済まないので、やらないが。
「アドバイスありがとうございます、馬土部先生」
「こちらこそ、美味しい料理をありがとうございました」
紅壱に一礼し、恵理砂は満足気な笑顔で会計すべく、レジに向かう。
「またのご来店をお待ちしております」
紅壱が腕を奮った料理の見た目と香りは、容赦なく、恵理砂の食欲を激しく揺さぶった
我を忘れぬよう気を付けながら、恵理砂はその料理を口へと運ぶ
当然、浮かんだ色は至福と感激だった
恵理砂が、自身の料理を「美味しい」と褒めてくれ、紅壱は嬉しそうに微笑む
その微笑を見て、恵理砂は彼に、その笑顔を意識すれば、誰も貴方を怖がらないようになる、と助言を送るのだった
良い助言をくれた恵理砂に感謝する一方で、紅壱には、ある懸念があった