第百三話 講師(coach) 紅壱が働く飲食店に、合唱部のコーチがやってきた
愛梨に、己にとっての強さを尋ねられた紅壱
普段から、ふざけてはいない紅壱は、愛梨が正直な答えを求めていると感じ、素直に自分の考え方を晒し出す
紅壱の持つ、強さに対する考え方を知った愛梨は驚かされながらも、後輩への敬意を深めたのだった
まさか、菓子の材料の買い出しを任せた愛梨が、自分の秘密に危うく気付きかけたとは知らず、今夜も、アルバイトに精を出す紅壱
多部の強さを彼がどれほどなのか、と予想しようとしていた時だった、彼女がやってきたのは
(この人、確か、合唱部のコーチを担当している、馬止辺恵理砂さんだよな)
自分磨きが疎かな美人の素性を思い出し、紅壱は心中で手を鳴らす。
こう見えて、と言ったら失礼だが、瑛の話では、この馬止辺は世界でも有名なソプラノ歌手らしい。
大会での成績が、ここ数年ばかり奮わぬ合唱部の地力を上げるべく、理事会が特別講師として雇用ったらしい。それを聞き、庶民の紅壱は、「さすが、歴史ある学校は違う」と唸ったものだ。
(うーん、そこまで凄ぇ歌手にゃ見えん。
まぁ、ステージに立つと、スイッチが入るタイプなのかね、この先生)
だが、ここは学校ではなく、商店街の一角にある、普通の飲食店だ。怪異が客として来店する事があっても、世間的には、普通の飲食店だ。
校内で普段、彼女がどんな格好をしているかは知らないが、この様相なら、今は自分の時間なのだろう。
なら、彼女に、アルバイトの自分は学校の関係者ではなく、一人の客として接するべき、と即時に判断した紅壱。
「・・・・・・いらっしゃいませ」
この手の店に慣れていないのか、それとも、元から引っ込み思案な性格なのか、きょどきょどしていた彼女は「ありがとうございます」と律儀に頭を下げ、グラスとおしぼりを受け取る際に、紅壱の顔をジッと見つめた。
数瞬ほどして、ハッとしたので、どうやら、彼女も紅壱が高等部の生徒である事に気付いたようだ。
(まぁ、俺は髪で結構、目立っちまうからな、先生の方が知っていても、不思議じゃないか)
どちらかと言えば、紅壱は髪の色より、大型の猛獣じみた顔の作りで目立っているのだが、本人も気にしている事なので、触れないようにしておこう。
「あぅ、えっと、タツヒメ君ですか?」
「はい、一年の辰姫紅壱です。
合唱部に歌ァ教えてる、馬止辺先生ですよね。初めまして」
紅壱が小さく頭を下げると、恵理砂は焦りながら立ち上がって、「はじめまして」と返す。
やはりと言うべきか、合唱部の指導をしているだけあって、地声の圧が中々に強い。
いきなり立ち上がっただけでも目立つのに、空気を伝って窓ガラスを小刻みに揺らすほどの声を出したのだ、数は多くない客の視線が集中するのは当然だ。
「す、すいません、大声を出しちゃって」
恥ずかしそうに、恵理砂は他の客に頭をペコペコと下げ、紅壱が「どうぞ」と示して、ようやく、椅子へ腰を戻す。
「ご来店ありがとうございます」
なるべく、温厚な微笑みを意識しつつ、紅壱は恐縮している恵理砂へメニューを出す。
焦りやすい性格ながらも、世界で有名な歌手だけあってか、意外にも度胸が据わっているのか、紅壱ほどの強面は見慣れているのか、恵理砂は恐れずに、紅壱からメニューを受け取った。
「お通しです」と、紅壱が小鉢で出したのは、コーン入りのポテトサラダ。
箸でちょっと摘まんだそれを口に運んだ恵理砂は、レンズの向こう側で瞳を煌めかせ、「美味しい」と至福そうな声を漏らす。
自分の表情が蕩けているのに、紅壱の優しい目で気付いたのだろう、恵理砂は赤面する。
「科学のオジロ先生と、日本史のサノ先生が、『美味しいですよ』と教えてくれて、気になっていたんです」
(どっちも、三年担当の先公だな。
それに、店で会った事もねぇや)
「でも、ここで、あのタツヒメ君がアルバイトしているとは知りませんでした。
オジロ先生たちは、何も言ってませんでしたから」
自分がバイトとして雇われる前からの常連で、彼らが来店する時間と、自分がバイトに入る時間が、幸か不幸か、まだ被っていないんだろうな、と判断する紅壱。
「ちゃんと、生徒会にバイトの申請はして、許可は貰ってますよ」
「あ、告げ口する気はないんですよ」
紅壱に敵意を向けられたくないのか、恵理砂は大袈裟に、両手を左右に振り、密告の意志が無い事をアピールしてきた。あまりに、彼女が必死なので、紅壱は不安がるのもあほらしくなる。
「もちろん、疑ってません。
でも、一応の口止め料として、デザートをサービスさせてもらいます」
「いいですか?」と、紅壱が目で問うと、多部は「好きになさい」と頭の後ろにある口で笑って、快諾してくれた。
紅壱が自分たちの正体を察している、と判断してから、多部は人目が届かないポジションでは、正体の一部だけだが、紅壱に見せるようになってきた。信用されている証拠なので、嬉しくはあるが、地味にギョッとする。
「ありがとうございます、タツヒメ君。
けど、デザートの前に、ここの美味しい料理をいただきますね」
デザートをサービスしてもらえる事となり、嬉しそうな笑顔を浮かべた恵理砂は、メニューを開くが、どれにも目移りしてしまうのか、決めきれないようだ。
十分ほど待っても、注文が来ないので、紅壱は困ってしまう。お喋りや携帯ゲームに興じて、注文する素振りが無い輩なら、多部の許可が事前に出ているので、遠慮なしに叩き出している。
だが、恵理砂は真剣に、何を食べようか、吟味してくれている。となれば、無碍には出来ない。かと言って、いくら、客が少なくとも、このまま、ウンウン唸られても、店側としては参る。
「馬止辺先生」
「す、すいません、優柔不断で」
「いや、そんなに悩んでもらえれりゃ、ありがたいです。
どうですか、お好きな食材があるなら、それで作りますよ」
「好きな食材・・・・・・」
「逆に、苦手な食材があるなら、それを使用しない料理にもできます」
「ニンニクは、少し苦手です」と、恵理砂は気まずそうに、小声で告げる。
「あぁ、口臭がキツくなっちゃいますもんね。
じゃあ、喉に悪いから、味付けを辛くするのも控えた方がいいですか?」
「あ、いえ、汗が止まらなくなるほど辛いのはダメですけど、私、辛党なんです」
そこで、恵理砂は少し躊躇いを見せたが、紅壱の「遠慮しないでいいですよ」と言わんばかりの微笑みで、おもむろに口を開いた。
「実は、少し貧血気味なので、それが食事で改善されたら、助かります」
「貧血・・・・・・確かに、ちょい、顔色が良くないですね」
紅壱ほどの洞察力がある者が意識しないと判らないが、確かに、恵理砂はわずかに血の気が失せている。今すぐに倒れる事はないにしろ、今の内に血を増やしておいた方が良さそうだ。
「・・・・・・レバーは大丈夫ですか?」
恵理砂が「はい」と首を縦に振ってくれたので、紅壱はオーソドックスにレバーをメインの食材に使う事にした。
(残ってるのは、鶏レバーだけだったな)
鶏レバーは先程、他の客を出す際に水で血抜きした物が一人分は余っている。
ニラレバ炒めを出したいところだが、相手は女性だ。味に自信はあると言っても、さすがに、ニラレバ炒めは男らしすぎる。
(他に、貧血に効く食材か・・・)
ホウレン草とアスパラガスは好きか、そう尋ねると、恵理砂は「嫌いじゃありません」と答えた。
「では、少々お待ちください・・・お通しのお代わりは、いかがですか?」
どうやら、何を注文するか、迷っている間に、箸は自然と動いていたようで、小鉢は空になっていた。
無意識で、ポテトサラダを食べていた事に、恵理砂は恥ずかしそうに俯きながらも、まだ味わい足りなかったのか、小鉢をおずおずと差し出すのだった。
紅壱は小鉢へ、ポテトサラダを気持ち多目に盛る。
「お酒はお飲みになりますか?」
すると、恵理砂はきっぱりと、首を横に振った。
「いえ、お酒を飲むと、乱れちゃうので控えているんです。
けど、この時間帯に、お水しか飲まないのも、失礼ですよね」
「構いませんよ。ミネラルウォーターじゃなく、炭酸水もありますし。
それか、ノンカフェインのほうじ茶もあります。貧血に効くって訳じゃなくて、貧血に良くないカフェインが入ってないってだけですけど。
貧血に効果ある鉄分が多いのは、マテ茶ですけど、これは好みが割れますね」
「・・・では、ほうじ茶でお願いします」
注文に頷き、紅壱は飲料品専用の冷蔵庫から、ほうじ茶のボトルを出し、新しいグラスへと注いだ。茶葉からも淹れられるが、それでは、恵理砂を待たせてしまう。
「美味しい。ポテトサラダにも、意外と合うんですねぇ」
恵理砂に一礼すると、紅壱は早速、調理に取り掛かる。
まずは、100g程度の鶏レバーを一口大に切り、大さじ1の牛乳、塩小さじ1、コショウは一つまみをかけ、タイマーの針を10分にセットする。
「さてさーて、その間によ」
紅壱は、六本のグリーンアスパラガスの根元、硬い部分の皮を薄めに剥く。半分に切ったグリーンアスパラガスは塩茹でする。
続けて、他の料理に使って残していた塩茹でのほうれんそうとベーコンを2cm大に切り、玉ねぎは薄切りにする。
バターを鍋で溶かすと、紅壱は切った材料を炒めていき、水、コンソメスープの素(固形キューブ)、ローリエを加えて一煮立ちさせる。
グリーンアスパラガスが茹で上がると、アルミホイルを敷いたオーブントースターの天板に並べ、塩コショウと粉バターを振りかけた。更に、千切ったバターまで乗せる。
「タイマーは四分半にセット」
オーブントースターの前から離れた紅壱は鍋へ牛乳を注ぎ入れ、沸騰しないように火力を調整する。
そのタイミングで、最初のタイマーが鳴ったので、鶏レバーの水気を取る紅壱。
石突を除いたしめじと鶏レバーを、サラダ油を熱したフライパンで炒め、両面がこんがり、良い焼き目になると皿へ盛りつけた。
オーブントースターから取り出し、皿へと並べたグリーンアスパラガスへは、半熟の目玉焼きを乗せた。
「まず、アスパラのチーズ焼きです。卵の黄身を絡めて、どうぞ」
続けて、紅壱が恵理砂の前に出したのは、塩コショウで味を調えた、ほうれん草のクリームスープ。
「熱いんで、気ぃつけてください」
最後に、紅壱は赤唐辛子の小口切りを溶かしたバターで炒める。本来は、ニンニクを使うのだが、恵理砂が苦手では使えない。
食欲が刺激される香りがし始めたら、そこへパセリのみじん切りとレモンの搾り汁を足し、さっと炒めるや、鶏のレバーへソースをかけた。
ディナータイムの混雑も収まった頃に、「うみねこ」へ来店したのは、天戯堂学園高等部の合唱部にコーチとして招かれ、部員らを指導している馬止辺恵理砂だった
世界的に有名なソプラノ歌手、と瑛から聞かされていた紅壱は、恵理砂が野暮ったい姿だったので、本当だろうか、と訝しむも、食事に来てくれたのであれば、歓迎するのが当然
気持ちをすんなりと切り替え、紅壱は恵理砂の注文に応える
果たして、紅壱の料理は、世界を巡るツアーで肥えた舌を満足させる事が出来るのだろうか




