第九十九話 師匠(master) 愛梨、自分の師匠の顔を頭に思い浮かべる
ボクシング部のマネージャーである巧は、エースである井上を成長させようと、彼女に愛梨をぶつけてしまった事を悔いる
だが、部長の魚見は彼を過激に責めはしなかった。巧に惚れているからではない、彼女も部長として、井上を次のステージに進めさせるには、愛梨の存在と、彼女に完敗する事が必要だ、と考えていたからだ
後輩が成長してくれる事を期待する一方で、魚見は、かつて、瑛が長刀部を、その天才性ゆえに廃部へ追い込んでしまった事を思い出す
自分の努力は、凡人を破滅させる、それにすら気付けない瑛に同情する一方で、魚見は彼女が、紅壱に対して、恋愛感情を抱く事で、人並みの幸福を感じられるようになる事を願うのだった
(・・・・・・多分、師匠もいいんだろうなァ)
今は卒業した先輩や、瑛たちに怪異との戦い方を指導されていたから、そこに関しては、自分に一日の長がある、と愛梨は思っていた。先輩としてのプライドを守るべく、無意識下で思い込もうとしているのだが、今は、そこに触れないでおく。
確かに、紅壱は経験数こそ足りなかったが、姿は恐ろしく、戦闘力も高い怪異に物怖じしていない時点で、愛梨が「おかしい」と思うには十分だった。
あんな風に、怪異へ笑って、攻撃を勇敢に仕掛けられるのは、戦闘狂である以上に、紅壱は人を傷つけ、時には喰らう怪異よりも、よっぽど恐ろしい存在を知っているから、と愛梨は推測していた。
最初は、紅壱の戦い方は、自分と似通った、高い身体能力に任せた喧嘩殺法だ、と思っていた。だが、数回ほどか、怪異と戦闘う紅壱を観察して、彼の荒々しい動きは、その実、洗練され、不要な無駄が省かれている、と理解できた。
粗雑に見え、筋肉に頼り切っている、と周りが勘違いするのは、紅壱の繰り出している技が劣化版だからなのだ、そこまで気付けたのは愛梨だからだろう。
本来なら、怪異だろうが一撃で屠れる実力がありながらも、威力を落とした技を紅壱が使っているのは、舐めプレイではない。
経験値を多く得て、自分の強さを根っこから支えて、より上を目指すには、実戦が最適である。
だからこそ、紅壱は雑魚であっても、一撃で倒せるのに倒さず、その怪異がどう攻撃してくるのか、どんな逆転の一手を隠し持っているか、少しでも情報を引き出し、次に活かすために、わざと殺せない技を繰り出しているんだ、そう思い至った時、さすがの愛梨も下着に黄色と茶色の染みが出来かけた。
劣化版の技で戦う、それは、紅壱が威力が半減以下の技でも、木製バットやニューナンブ程度では斃せない怪異を倒せる実力を持っている事を裏付けていた。そして、そんな紅壱へ怪異すら殺せる技術を教え、それを支えられる肉体となるように導いた師匠がいる事実も示していた。
(ハイジさんは、師匠って呼ぶな、と言うけど、紅壱に闘いのイロハを叩き込んで、体を作らせた誰かは、ハイジさんと同じくらいか、それより強い)
瑛らが籍を置く『組織』には、学生術師の誰もが憧れる、プロハンターのトップ10がいる。
その序列の八位であるハイジは、愛梨と魔力量がさほど変わらない術師であったが、術式を工夫し、なおかつ、呪いを背負う事で、『組織』でも指折りの武闘派となった。
ミノタウロスを単身で倒せるのは、千人近い術師が活動する『組織』でも、ハイジを含めて二十人前後であり、ハイジはその功績を正当に評価され、八位の席を用意されていた。もちろん、八位で満足する気はなく、ハイジは更に上を目指している。
『鈍鉄の左腕』、そんな異名を持つハイジが目をかけているのが、愛梨だった。
狩人の家系に生まれた瑛とは異なり、元は一般人である愛梨は、この業務を始めた頃は、ゴブリンにも苦戦していた。
ゴブリンのおぞましい容姿や、チンパンジーに匹敵する力を怖がる性質ではなかったが、魔力でろくに強化されていない攻撃では、人よりタフなゴブリンを倒す事は難しかった、当時の愛梨では。
逃げる、そんな選択肢は、愛梨になかった。彼女だって、痛いのは嫌だし、ゴブリンに犯され、その挙句、喰われたら、そう思うだけで、身の毛がよだった。
しかし、戦う、と決断た自分が逃げたら、他の人が犠牲になる、そう思ったら、アタシがやるんだ、と闘争心が滾った。
周囲から雑魚扱いされている小鬼も倒せないようでは、命が救われた恩も返せない、強くならなきゃ、と『組織』の支部に設置されているトレーニングジムで、汗を流している愛梨に目を止めたのが、そこのシャワーを借りに来ていた、仕事帰りのハイジだった。
やりすぎである事に眉を顰め、声をかけた時、ハイジには、愛梨に怪異相手の戦い方をレクチャーする気は、微塵もなかった。当人が、自分は人にコツを教えるのが得意でないのを、最も分かっていたからだ。
しかし、ゴブリンを倒せない、新人、その手の家系に生まれていない者ならば尚更、難しい事に、本気で悔しがり、強くなりたい、と呟いた愛梨に、かつての自分を重ねたハイジ、ハッとした時には、もう、口から、その言葉が出ていた。
この時、愛梨は、いきなり、話しかけてきた相手が『組織』でも名うての実力者とは全く知らなかったが、ハイジから「君さえ良ければ、誰かを守れる戦い方を教えたい」、そんな申し出に、何の躊躇いもなく飛びついた。
ロックミュージシャンか、と勘違いされる事の多い見た目に因らず、真面目なハイジは思いがけず、それを口にしてしまったとは言え、キラキラとした目で見つめられ、好い気分になったのだろう、自分の任務とトレーニングに支障が出ない、そんな条件を出した上で、愛梨に戦い方を指導する事にした。
持ち前の一切の弛みが無い、絞り込まれた肉体、大抵のスポーツをこなせるだけの運動神経の良さ、天性の格闘センスがあったからと言って、簡単に結果が出せないのが、怪異の退帰任務。
けれども、優れた人間に師事した事で、愛梨のハンターとしての才覚は開花した。
ハイジと愛梨、どちらもが自分の感覚で真理を掴むタイプであったことも、好かったのだろう。
当時の、愛梨がゴブリンとすら、まともに戦えず、勝つ事が難しかったのは、魔力量の少なさだけが原因ではない。
彼女は、勝負を急ぐあまり、その少ない魔力を一気に使ってしまったために、疲労からピンチに陥る事が多かったのだ。
呪文で一段階ずつ、戦闘力を強化していくスタイルを伝授された愛梨は、ゴブリンと遭遇し、すぐに、魔力が枯渇した状態に陥る事もなくなった。魔力を中盤まで、十分に残せるようになったことで、愛梨はゴブリンの動きが、よく視えるようになった。
基本的に、体が男子小学生ほどのゴブリンは、力こそ強いが、攻撃パターンは単調だ。腕や足を掴まれたら、あっと言う間に骨を折られてしまうけれども、近づき過ぎず、近づかせなければ、簡単に倒せる、遠距離攻撃の手段がなかった愛梨にも、だ。
ゴブリンの武器は、爪と牙、個体によっては棍棒、鉈なども持っているが、その殺傷範囲に入らず、打ったら離れるのを繰り返す根気、もしくは、一撃で倒す事が出来るだけの威力がパンチにあれば、小鬼は倒せる。
肉体が負担にかからない、下級の呪文による、効率的な肉体強化が出来るようになった愛梨の敵でなくなった、ゴブリンは、あっと言う間に。
愛梨が、ゴブリンを退帰させる事に成功し、その報酬が振り込まれた事を示す明細書を見せられ、確認した時の、ハイジのリアクションは何気に凄かった
今や、愛梨が弱者、と嘲る者は、『組織』でも数人の学生のみ。その者にしても、愛梨の確固たる実力や、非公認ながらもハイジの弟子として周囲が認めている事を嫉妬しているに過ぎない。
ゴブリンキラー、プロであれば持っていて当然、言い換えれば、ランキング圏内に入る資格とも言える、その称号が、『組織』から近い内に贈られるのでは、と考える者が多くなった。
それだけの強さを得た自分でも、十回の内、一回ほど勝ちを取れるようになったハイジよりも強い存在がいる、と予感しても、愛梨はさほどショックを受けない。
愛梨はまだ、対面した事はないにせよ、ランキング上では、ハイジより強いとされている七人がいるのだから。
ハイジも、トップになる目標を掲げつつも、上位の三人は人間じゃない、と愛梨に溢していた、桁違いの恐怖からか、引き攣った笑顔で。
(まさか、コーイチに指導しているのが、七人の内の誰かってことはないよな)
自分の想像で、汗が一筋流れる愛梨。自分の予想が当たっているからと言って、恐怖する必要はない。
けれど、強気なハイジですら、グラスを握る手に力が入るほどの相手が、紅壱を鍛えていて、もしも、彼が自分達の敵に回ったら、危険だ。
『組織』には、いくつかの派閥がある。今は、まだ、学生術師の身なので、関係はないに等しいけれど、卒業しても、怪異と対峙し続けるのならば、どこかの派閥に属する事になる。
実際、瑛らは、何らかの用事で支部に出向いた際、通路で、それぞれの派閥の幹部へ挨拶をした際、笑顔で挨拶を返され、その場で二言三言の会話をする。これは、幹部らに、瑛らを自分達の派閥へ入れたい、その意志が少なからずある事を意味していた。
今、対立している複数の大きな派閥には、それぞれ、トップランカーが名を連ねている。
瑛に惚れている紅壱なら、彼女と同じ派閥に入るだろう。けれど、もし、他の派閥が、瑛の事を材料にして、紅壱を脅したら、どうだろう。
真っ向から、自分に向かってくる相手ならば、遠慮なく叩き潰せるだろうが、瑛に危険が及ぶとなったら、紅壱は嫌われ、憎まれるのも承知で、敵対の道を選びかねない。
人は、絶対にありえない、と一蹴できない想像ほど、不安になってしまうものだ。
少しだけ、表情が強張った愛梨に、魚見は目を細め、「どうした?」と尋ねた。
「いや、何でもないです」
「何でもない、って顔じゃないぞ、それは」
「・・・・・・ちょっと、嫌な想像をしちまったもんで」
「まぁ、よくある事だな」
無理に笑っている愛梨に頷き返した魚見は、腕組みをして、しばらく、天井を睨んでいたが、前に向き直ると、愛梨の目をジッと見つめた上で断言した、お前の予想は当たらない、と。
「え?」
あまりにも、キッパリと言われてしまい、愛梨は二の句が継げなくなった。
「その想像に関しては、お前の勘が、ものの見事に外れる」
「いや、アタシが何で、悩んでいるか、判ってないですよね?」
一般人だが、この魚見なら、自分の心の中が読めても不思議じゃない、と思いつつ、愛梨は確認してしまう。
「あぁ、判らない。だが、外れる、それだけは確かだ」
「・・・・・・ッ」
何の根拠があって、そんな事が言えるんだ、と怒鳴り返したくなった愛梨だが、唐突に理解した、魚見が本当に言いたいのは、紅壱を疑うのではなく、信じてやれ、だと。
(そうだよな、アイツに師匠がいて、それが七人の誰かかもしれない、ってのは、あくまで可能性の一つで、アタシの想像なんだ。
仮に、そうだとしても、コーイチは脅迫に屈したりしない。むしろ、アキに手ぇ出そうとするような奴がいたら、七人の相手が誰でも全力で倒しに行く奴だ)
紅壱への信頼が、魚見の言葉で完全に戻った事で、愛梨の表情も和らぐ。それに、魚見も胸の内で安堵した。
しかし、直後、愛梨が好戦的な笑顔になったので、ギョッとしてしまう。
「おい、太猿、後輩イジメはするなよ?」
「やだなぁ、イジメなんて真似しませんよ」
その言い方で、魚見はますます、心配になってしまう。
魚見の懸念は的中しており、愛梨はスッキリした事で、却って、穏やかじゃない結論に至りかけていた。
(そうだよな、いっそ、コーイチが敵に回ってくれたら、こっちも手加減なしで楽しめていいよな)
組み手でも、紅壱は自分に付き合ってくれているが、やはり、どこか遠慮はしている。そんな状況でも、紅壱は背筋が凍るような攻撃を繰り出してくれるので、楽しいと言えば、楽しい、と思っている愛梨。ただ、もうちょっと、緊迫感があったら、もっと良い、と感じていた。
紅壱が敵にならないなら、それに越した事はないのだけど、なったらなったで大歓迎だ、と考えてしまうあたり、愛梨も中々の戦闘狂である。
瑛が紅壱と付き合って、幸せになる事を願う魚見の気持ちに同意する愛梨
その反面で、彼女は紅壱の、次元が異なる強さは、優れた師匠の存在も大きい、と推測していた
愛梨は、『組織』の上位10人の8位である、ハイジの弟子的な存在であり、ハイジが力の使い方を教えてくれたからこそ、最初は苦戦していたゴブリンを瞬殺できるまでに成長できた
どれほど優れた師匠に鍛えられたら、あれほど強くなるのか、と紅壱の格に恐怖と嫉妬の念を覚えながらも、愛梨は、いっそ、彼が敵に回ってくれたら、全力で戦えて楽しいのに、と考えてしまう