序章 邂逅(encounter) 九年前、少年は一つの約束《契約》を交わした
序章 九年前、少年は一つの約束を交わした
女々しく咽び泣いている少年は、乏しい語彙で表現できないほどの感情に潰されかけていた。
それでも、彼は自分の手がぼんやりと見える程度の暗闇の中を緩慢な足取りで、行く先もわからないまま、前へ前へと進み続けてきている。
年の頃が七、八歳と思われる、癖が強そうな艶のある黒髪を一つに束ねた少年は気付いた時、この暗闇の中にいた。 だが、彼は足音が静かに吸い込まれていく、この状況が怖くて泣いているのではなかった。
不慮の交通事故で、両親と死に別れてしまったのは数ヶ月前。未だに、家族が幸せだった頃を夢に見て、起きた瞬間に受け入れなければならない辛い現実が、涙を涸れさせてくれない。
山間の小さな村に住んでいた、父方の祖父母の下に預けられた少年は、自分に「おじいちゃん」と「おばあちゃん」がいるとは知らなかった。
父親には幼い頃から「天涯孤独だ」と聞かされ、母親も父親と結婚した際、「厳しい」の一言では表現できないほど古風な実家を飛び出してそれきり、と苦笑いとともに溢していた。
なので、近所の人間が手筈を整えてくれた葬式で、両親の棺を前に大声を上げて泣くしかできなかった自分の襟首を突然、家に土足で入ってきた祖父に掴まれて、熊よりも恐ろしい、切り傷だらけの面の前まで持ち上げられた時は、悲鳴すら上げられなかった。
しかし、「うちに来い」と渋い声で言われた時、すぐに首を縦に振ったのは子供心に、いや、子供だったからこそ、彼が自分の血縁者だと確信したからだった。
いきなりの失敬な来訪者に度肝を抜かされた近隣者になど目もくれず、祖父は少年を連れて行く事を反対する彼等の言葉などに耳を貸さず、彼に身支度を整えるよう急かした。
こうして、少年はわずかな荷物だけを詰め込んだ鞄を背負い、両親の骨が入った壷だけを小さな腕に抱えて、父が自分と同じ年の頃を過ごしていた村にやってきた。
痩せっぽちの少年の胸を膨らませていた新天地への期待と希望は、三日も経たずに空しく萎まされる羽目になる。
悪意はなかったのだろうが、やや閉鎖的な村に生きる子供は、遠い土地から来た同年代の存在に対して優しくなかった。
一番に立派な体格を理由にしてガキ大将に治まっていた、坊主頭の少年を筆頭にし、子供達は彼を毎日のように攻撃した。
ある日は彼の荷物を使われていない古井戸へ投げ捨て、ある日は飼っている大型の犬を彼へとけしかけたり、ある日は裁縫の技術がいつまでも上達しない母親が作ってくれた服を強引に女子の前で脱がせたり、子供なりに手を変え品を変えていた。
彼等に「余所者」と言う理由だけで「無邪気」の三文字を免罪符にされ、とことん苛め抜かれていた少年。
元々、引っ込み思案の気があった彼は口下手で他人と上手いコミュニケーションを取れるタイプではなかった。それでも、少しでも仲良くなってもらおうと、彼なりに努力をした。しかし、それを無碍にされ、揚句の果てに納得がいかない迫害を受ける。
悲しかった、悔しかった。体も心も悲鳴を上げる。
なのに、自分を加虐めるグループに強く出られず、殴られ蹴られ、地面に無様に這い蹲る自分を笑われる毎日。
(自分は、どうして、こんなに弱いんだろうか?)
そんな自己嫌悪に苛まれながら、痛む体を引き摺るようにして帰路に着くしかない毎日。
(手を出さない強さはきっとある・・・・・・でも、僕は手を出せないんだ)
明らかに遊びではない理由で泥だらけ、傷だらけで帰ってくる孫を見ても、祖父母は何も言わず、問い質したりなどしなかった。
常に苦虫を噛み潰したような面持ちの祖父は黙って、その日に獲ってきた猪や鹿の肉を少年に食べさせた。口調こそキツいが孫には優しい祖母も、曲げた膝の間に顔を埋めるようにして声を押し殺して泣く、息子にそっくりな孫の手当てをしてやるだけだった。
彼は自分に対して、そんな風に接する祖父母を「冷たい」とは感じなかった。むしろ、これは自分で解決しなくてはならない、と年にそぐわない考えを抱いていた為に、彼等に対して一切の弱音を吐かなかった少年。
そして、今日も、硬い木の枝を振り上げ、拳大の石を投げながら追って来るガキ大将たちから、必死に逃げるしかなかった少年。まだ、この辺りの地理を把握しきれていなかった彼は自分がどこを走っているのかも解からないまま全力で足を動かし続けた。
肺が熱くなり、脇腹が痛くなり、心臓が早鐘のように危険信号を発し続けてきても、少年は足を止めなかった。
「・・・・・・あれ?」
ガキ大将たちの怒声や罵声がいつのまにか聞こえなくなり、はたと足を止めた時、彼は愕然とした。自分が祖父母から色々と危険だから足を踏み入れてはならない、と釘を刺されていた裏山に入ってしまっている、と気付いたからだ。
すぐに踵を返そうとした少年だったが、それほど長時間、走っていた感覚はなかったはずなのに、木が鬱蒼と茂る山は妙に薄暗く、ここまで自分が走ってきたであろう道も見えなくなってしまっていた。
未体験の〝暗闇〟に本能的な恐怖を覚えて小さく身震いした少年。だが、何故だか足を止めず、その場から動き出してしまった、闇が更に濃い前方に向かって。
理由は特になかった。ただ、足が無意識に前進を選んでいた。この点からも、少年の心に通っている、未熟だが真っ直ぐな一本の芯に強さが籠もっていることが窺えた。
しばらくは唇を真一文字に引き結んで、少し速すぎるペースで足を動かしていたが、次第に悔しさが胸から広がり出したようで、ボロボロと大粒の涙を溢し出してしまう。それでも、彼は前進を止めない。半ば意地で、少年は目的地も考えずに歩き続ける。
体感で一時間も歩いた頃だろうか、さすがに空腹を感じ出してしまった少年の足取りが緩やかに落ちていく。彼はポケットの中から、ガキ大将に見つかってしまう前に駄菓子屋で買っていたチョコレート(¥20)の包み紙を剥がし、口の中に放り込んだ。
この時点で、彼は今、自分が山の中に迷い込んでしまった訳ではない、と気付く。
入ってはならない山でも、さすがに自分の手を見るのがやっとなほど、闇が濃い筈がない。これだけ歩いているのだ、目も慣れてきて周囲の木々くらいは見えてきそうなものだ。なのに、木が見えるどころか独特の匂いすら鼻をくすぐらないのだ。
(何て言ったらいいのかな・・・・・・錆びた鉄みたいな匂いと、食べ頃を完全に過ぎちゃったような肉のような匂いが、ゴチャ混ぜになってる)
舌の上で溶け始めたチョコレートを転がす少年は、細く形の整った眉をキツく顰めて、鼻と口を手で覆う。
(・・・・・・あの世だったりしてね、ここ)
自分が思い浮かべてしまった予想で、決して大きくはない体を大きく揺らした少年。
だが、それならそれで構わないかな、と彼は薄ら笑いを漏らす。
ここにいるのは今の所、自分だけのようで、罵詈雑言を浴びせてくるクラスメイトも、子供ながらの手加減なしの暴力を奮ってくるガキ大将もいない。殴られる事もないだろうし、自己嫌悪にも陥らずに済む。
そんな後ろ向きな考えが一瞬でも心の中を過ぎったのに気付いた少年はショックを受け、足を止めてしまう。
止まってしまったら駄目だった。もう流れ尽くしてしまったと思っていた涙が先程よりも大きな粒で零れ出してしまう。
これまでにない、強烈な自己嫌悪の波に心を飲み込まれそうになった少年が、衝動的にその場で膝を抱えたくなった時だった。
「ん?」と彼は縁から溢れそうになっていた涙を乱暴に拭うと、目を凝らす。
そうして、これでもかと目を見張った彼は、背中に圧し掛かっていた疲労を振り払うように勢い良く立ち上がり、信じられない思いでそこへ駆けていく。
「!! 怪我してる」
こんな暗闇の中で倒れている者がどうして見えたのか、そんな当然の疑問も一秒で頭の中から吹き飛んだ少年は、動揺の色を優しい顔立ちに滲ませながら、その者の傍らに膝を着く。次の瞬間、ヌルリとやけに温い液体が膝を濡らし、彼は思わず立ち上がりかける。
(と、とりあえず、落ち着くんだ、ボク)
スーハースーハー、と青白い顔で深呼吸を忙し気に繰り返した少年は己を鼓舞するように頬を叩くと、ピクリとも動かない彼女に恐る恐ると言った様子で腕を伸ばし、慎重に仰向けにする。
「む、胸、触りますね」と小刻みに震える声をかけてから、同級生どころか村の女性の誰よりも豊かな胸へ手を押し当てた少年は、彼女の心臓が思っていたより強く脈打っているので安堵した。自分のそれより妙に速い事も気になったが、彼は口許へ掌をかざす。若干、荒いが息もしっかりしていた。
「よかった、生きてたよぉ」
だが、確実にかなりの量が体から出てしまっている、と鼻を突く鉄臭さで確信した彼は必死に傷を探す。幸い、腹部からだ、とすぐに判った少年は背負っていた鞄からタオルを引っ張り出すと、傷口に強く押し当てた。
応急処置の心得があった訳ではなかったが、こうすべきだと確信しての行動であった。少年はそのタオルが母親の遺品である事、自分の両手が血でべっとりと汚れていくのもまるで構わずに、心の中で「止まれ、止まれ」と強く念じながらタオルを傷に当て続ける。
一人で歩いていた時は前もぼんやりとしか見えず、手探りで進んでいたにも関わらず、彼女の側に来た途端にハッキリとまでは行かないが、自分の手や相手の姿が見えるようになっている事に、少年は気付いていたがまるで気にしない。それは、目の前の女性を助けたい、とだけ思っている彼にとっては、瑣末な事実でしかなかった。
彼女のそれは明らかに、他人から鋭利な刃物によってつけられた傷だ。
(もしかして、この人も僕と同じで何かから・・・・・・)
心を蝕まんと擦り寄ってきた、粘つく自己嫌悪を追い払うかのように頭を振り乱し、傷口を押さえる手に力を入れる少年。
何分、何十分、傷を押さえていたのかハッキリしないが、真っ白だったタオルは収まりつつある出血で端々まで真っ赤に染まってしまっていた。
(そろそろ変えた方がいいかな・・・あ、でも、他にタオルを持ってない)
自分の服を使おうかと視線を下ろすが、全力で投石から逃げていた上に、ここまで歩いてきた為に、彼のシャツは汗でひどく濡れてしまっていた。
(さすがに、これは汚すぎるよね)
苦笑いを少年が漏らした時だった、突然、女性の体がビクンと大きく跳ねた。
「えっ?!」
驚いた少年が思わず、後ずさりかけると、「カッ」と言う効果音が見えそうになるほど、両方の瞼を勢い良く開いた。そして、自分の傍らにいた顔色が青白い少年を確認するなり、女性は彼の右手首を骨が軋むほど強く掴んだ。
これまで何度も殴られ、下手な関節技を極められてきた少年だったが、この時の激痛は文字通り、激しい痛みで悲鳴や苦痛の声すら上げられないんだなぁ、と何色もの光がチカチカと素早い点灯を繰り返す頭の中で呑気に思ってしまう。
瞼を硬く閉じ、歯を食い縛り、気を失えないレベルの痛みで歪む少年の顔をジッと覗き込んでいた女性は、掴んだ時と同じように突然、彼の右手首を離した。
(この人、凄い力だった・・・お、折られるどころか、潰されちゃうかと思った)
細い五本の赤黒い線がハッキリと刻まれてしまった少年は改めて、背中から冷たい汗がドッと噴き出したのが分かった。
少年はまだ寝ぼけ眼で周囲を見回している女性に対して、抗議の言葉をぶつけられなかった。だが、それはいつもとは異なる理由からだった。
普段、抗議できないのは周囲からの攻撃が激しくなる事を怖れてしまっているからだ。
眼前の女性は痛みすら一瞬で退いてしまい、抗議の声を飲み込ませてしまうほどの威圧感が混じる、恐怖の代わりに畏怖すら感じさせる美しさが惜しげもなく放たれていた。それが、自然と半開きになってしまっている少年の舌の上に、抗議の言葉を貼りつけてしまう。
(気を失っている時も思ったけど・・・・・・綺麗な人だよな)
赤らんでしまった頬が恥ずかしくて、思わず顔を伏せてしまうも、ついつい女性の背筋がゾッとするくらいに整っている、冷たく鋭い横顔を熱く見つめてしまう。
無謀にも触れようとしてきた存在を全て灰にする地獄の炎を、その一本一本に包み込んでいるような紅い髪。石像に変えられてしまうと頭では解かりきっていても、オスの本能に任せて覗き込みたくなってしまうであろう灰色の瞳。
血をかなり失っている事を抜きにしても、指先の熱だけでも儚く崩してしまう、そんな印象を抱かせるキメ細かく白い肌。鋭い八重歯の端がわずかに覗く、生贄から絞り尽くした血で濡らす事でその艶やかさと軟らかさを保っていそうな肉厚の唇。
縋りついてきた弱い男を「包み込む」、そんな聖母のようなイメージなど微塵も滲み出ていないのに、自分から全て喰われる事を望んでしまいそうになる、淫らさと清らかさが同居している肢体。
(おっぱい大きいなぁ)
町から来た子供だろうが、いじめられっ子だろうが、年齢的にも異性への興味がむくむくと顔を上げ始める年頃である、少年の初々しい熱のこもった視線は自然と、気だるそうにしている女性の豊満な双丘へと注がれてしまう。
(この前、知らない偉そうなオジさんが、おばぁちゃんに持ってきたメロンより大きいんじゃ)
記憶がまだ擦れていない母親の胸はお世辞にも大きいと言えるほどではなかったからか、余計に少年は彼女の胸から目を逸らせずにいた。
「――――――・・・・・・触りたいのか?」
「・・・え?」
「小僧、私のおっぱい、触りたいから、ずっと見ているのだろう?」
自分の膨らんだ胸を両手で軽く持ち上げ、上下に揺らした女性が自分の方へチラリと向けた目を光らせ、響きこそ傲慢であるが淡々としたテンポで尋ねてきたものだから、質問の意味を理解するのに何秒かを必要としてしまった少年。一気に、頭皮まで真っ赤になった彼は千切れんばかりの速度で首を左右に振り、「すいません」と弱々しく漏らし、再び俯いてしまう。
「別に謝らなくてもいいさ、小僧。
それに、女のおっぱいは触る為にあるんだから、遠慮しなくてもいい。
今の今まで、私の手当てをしていてくれたのだから、その礼だ」
容姿に合わない少し乱暴な口調、外見に見合っている口の両端を高々と吊り上げる、悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女に、反乱を起こしかけた下半身を無意識に抑えた少年の胸は甘酸っぱく高鳴ってしまう。
「え、遠慮しておきます」
蚊が鳴くよりもか細い声で返すのがやっとだった。
(でも、本当に・・・恐くなっちゃうくらいキレイだなぁ。
もしかして、人間じゃないのかな? ・・・そうだよなぁ、こんな場所で血塗れで倒れてたんだから、少なくとも普通の人間じゃない。
うん、人間じゃないなら、こんなにキレイなのも納得だぞ・・・でも、天使とかじゃないだろうな、きっと)
自分の中で勝手な結論を出し切った少年は、妙に満足気な面持ちで女性を見つめながら、何度も何度も頷いた。
「そこまで褒められると、逆に申し訳なってくるな」
「え?」
「小僧、考えている通りだ、私は人間じゃない。天使なんかじゃないってトコも正解さ」
動物の肉を噛み切るのに適した八重歯を剥き出して笑う美女の顔を、マジマジと見つめ返す少年。視線をわずかに上げれば、髪が色の通り、真紅の炎に先端から変わりだしている。
「お姉さんは・・・・・・」と、少年は少し言葉を選ぶようにして、あらぬ方向を見てから、女性の顔に目を戻し、言葉を続ける。
「人の肉を食べるタイプの悪魔なんですか?」
臆病そうな少年が大して怯えなかったからだろう、「何だ、つまらん」と肩を竦め、美しい悪魔は頭の炎を髪の毛に戻しながら、鷹揚に頷いた。
「人肉は食べる、たまにだがね。十年に一回くらい、無性に食べたくなる。
もっとも、小僧みたいな痩せっぽちには、食欲も湧いてこないな。安心していい」
つまらなそうに少年を見返す目を細めた彼女の「まぁ、十年後は判らないけどね」と言う、一言はあまりにも小さかった上に、垂れかけた涎を強引に飲み込む音に紛れてしまい、彼の耳に入る事はなかった。
「でも、大抵は精を貰うだけさ、願い事を叶えた上でね」
未だに精通を迎えていない少年は彼女が口に出した『精』と言う単語を、「生きる為のエネルギー」と解釈し、「そうなんですか」と首を縦に振る。
そうして、依然として薄暗く、気分の悪くなる臭いが漂ってくる周囲を見回す。
「違うよ、ここは人間が想像している『地獄』じゃない」
どうやら、少年の無防備な心を読んだらしく、悪魔は首を気だるそうに左右へ動かす。
「中途半端に生きて、中途半端な死に方を選んで、成仏も出来ずさせて貰えず、魔にもなれず、鬼にも堕ちれない、憐れとも思って貰えない輩が自然と集まってきちまう場所さ。
アンタ等の世界で言う所の『神隠し』って奴で、生きた人間が紛れ込んじまって帰れなくなる場所の一つがここだ。
小僧、お前、心の底で死にたいとでも思っていたのか? ここにいる奴等に引き寄せられてしまったようだな」
人とは違う意味で目が良いらしい、彼女には自分の足元に何があるのかが見えてしまっているらしく、少し不機嫌そうだ。
「――――――・・・じゃあ、僕、もうアッチには帰れないんですね」
少年が力弱く抱えた膝に顎を乗せながら呟いたのを、ジトッと横目で見た女悪魔。
「少なくとも、自力では帰れん・・・だが、その割には、ショックを受けていないな」
「ショックと言えばショックですけど・・・・・・帰っても、どうせ同じ毎日が待ってるだけですしね」
彼女の言葉で、わずかに顔を上げた少年が浮かべる笑みは固い。
「お姉さんは何で、こんな所に?」
自分が無意識で口に出した台詞は思った以上に心を軋ませたのだろう、半ば強引に話題を変えた少年を、美女はまるで蠅が集るゴミにだって向けないような侮蔑の視線で刺す。
「小僧、確かに私はお前と同じで『逃げてきた』さ、傍目から見れば無様にな。
だが、私は力を取り戻した暁にはリベンジを果たすと決めた上で逃げたんだ、ストレスが腹の中に限界まで溜まっている癖に、何の行動も起こそうともしなかった、『負け犬』になれない腑抜けのお前と一緒にはするな、不愉快の極みだ」
自分の陰鬱な記憶を『視た』のだろう、悪魔の辛辣な物の言い方に、少年の心はひどく傷付けられた。しかし、悲しみの涙など一瞬で蒸発するほど、彼の頭を言いようの無い怒りが煮え滾らせる。
「・・・ほぉ、そんな眼も出来るんじゃないか、小僧。
怒りも憎しみも混ざり合わせて、純度を高めた殺意で染まる瞳。
思わず、眼窩から抉り出して、しゃぶり尽くしたくなるほどだ」
自分を決して視線を逸らさずに睨みつけてくる少年の目の縁を、彼女は名工が創り出した大理石像のそれに匹敵する美しい指先で撫でる。その指遣いの淫靡な事よ、怒りこそ萎えなかったが、少年は奇妙な感覚が尾骶骨から上がってくるのを覚えてしまう。
「どれ、話してみると良い」と妙に穏やかな声で、寝転んだ彼女は少年に促す。他人の記憶を読んだのは間違いがないはずなのに、自分の傷をわざわざ晒せ、と言う悪魔の性格は、かなり歪んでいるようだ。もっとも、性格が歪んでいない悪魔の方が希少だろうが。
しかし、今一度、顎を小さく動かし、「ほら」と呟いた彼女に促され、少年は自分の身の上をポツポツと喋り出してしまった。
両親が死んだ事、存在すら知らなかった祖父母に引き取られた事、学校で苛められている事に加え、ここに迷い込んでしまった経緯までを整理しながら話すのに、軽く数十分を必要とした。
全てを話し終えた少年は、少し疲れた表情で溜息を漏らし、目を軽く閉じたままで寝転んでいる悪魔に視線を向けた。
彼がたどたどしく話している間、無言を貫いていた悪魔。少年が戸惑い気味に自分を見つめているのに気付いたのだろう、ゆっくりと瞼を上げ、淡々と一言。
「・・・『盗み視た』時も思ったが、案の定、つまらん話だったな」
真摯に慰められたかった訳じゃない、安っぽい同情もされたくなかった。だが、自分の記憶を勝手に見た相手にここまで一刀両断されるとは予想もしていなかった少年は怒るに怒れず、ただ口をあんぐりと開けるしかない。
間抜け面を晒す少年を、緩慢に体を起こした彼女は鼻で笑う。
「弱者をいたぶる側は、その行為に至る大袈裟な理由を持っていたりしない。
せいぜいが、『都会から来たことを匂わせる、気取った言動が気に入らない』、『女子受けのよさそうな容姿が、やけに癇に障る』、それだけだろう」
それには同意できたので、何とか文句を飲み込んで口を閉じた少年は、渋々と頷く。
「・・・・・・なら、小僧、お前はそいつらに、いたぶられる理由があるのか?」
思わず、言葉に詰まった少年の顔が引き攣る。「あるのか?」と問われ、彼は「ありません。少なくとも、思い当たりません」と弱々しい声で答えるしかない。
「ならば、何故、良いように殴られる? 殴り続けられる理由があるのか? 反抗しない訳があるのか?」
「さ、逆らえば、パンチの量が倍になるのは目に見えてます」
「ほぉ、一回も逆らっていないのに、どうして判る?」
答えられなかった少年は、罰の悪さを無理に誤魔化すようにそっぽを向いた。彼の態度に苛立つでもなく、彼女は気だるそうな面持ちでありながらも、適当に聞き流す事を決して許さない、重々しい響きの声で話を続けた。
「自分を何の理由もなく傷つけようとしてくる相手を、殴り返すのに理由はいらないさ。
強引に用意するとしたら、『気に食わなかった』、これだけで十分だ」
屁理屈だと言い返したかったが、その台詞は妙に渇く口の中に張りつき、吐き出せない。悔しそうに口をモゴモゴと動かした少年を一瞥した悪魔は、とどめの一言をお見舞いした。
「チッ、臆病者め。一欠片の誇りもないのか、お前には」
瞬間、雷に打たれたような衝撃が少年を襲った。彼は自分を苛めるガキ大将たちを、密かに心の中で見下していた。だから、無抵抗を貫いていた。手を出せば彼等と同じレベルに落ちてしまうと思い、自分に言い聞かせていた、「手を出すな」と。
しかし、それはただの思い違い、自分へのつまらない『言い訳』であったと気付かされた少年の顔から一気に血の気が失せる。自分の容赦ない言葉攻めに打ちのめされ、蒼白となった少年を悪魔は楽しげに見つめている。
「ぼ、僕はどうしたらいいんでしょうか?」
雨の中に棄てられ、随分と体を冷やされてしまった子犬が浮かべるような、プライドも何もかも投げ打って助けを縋る瞳の少年を、彼女は無慈悲かつ愉しげに突き放す。
「自分がどうしたいのか、自分はどうすべきか、それはお前の心しか知らない事だろう」
彼女のぶっきらぼうな助言は心の欠けていた箇所にストンと落ち、それもそうだ、と納得させられた少年は赤みが戻り出した顔を険しくして必死に考え、頭を抱えて髪を掻きながら真剣に悩み、まだまだ小さい拳を硬く握り締めて本気で自分に向き合う。
まだまだ未熟で微かながらも、食欲と性欲の両方を刺激する精悍さが臭気となって、両肩から滲み出した少年を、美しい悪魔は息をわずかに荒げつつ、毒蛇を思わせるような動きで舌を出し入れさせながら熱く見つめていたが、唐突に大きな舌打ちを漏らし、腰を勢い良く上げた。その舌打ちは、隣から這い寄ってくる悪寒を堪えながら懊悩に耽っていた少年の思考を中断させるには、十分な音量だった。
「え?」と驚き、顔を上げた少年は悪魔が抑えもせずに垂れ流しにしている殺気で視界が霞んでしまうも、顎に痛みを覚えるほど歯を強く噛み締めて、辛うじて意識を保つ。
「ど、どうかしたんですか?」
彼は悪魔が憎悪の色が濃く浮かぶ瞳を向けている方向に、目を凝らしてみた。すると、蛍を思わせる光の球がこちらにゆっくりと近づいてくるのに気付く。
次第に点滅のテンポが速まり、大きくなっていく光球。
この口が悪い女悪魔に出会う前の少年なら、それを見て、疑うことなく「助けが来たのだ」と思っていただろう。だが、彼女の厳しい言葉で内面に変化の兆しが顕れつつある少年は、音もなく近づいてくる光の球に対して、嫌悪感すら抱いてしまっていた。
ついに二人まで数mと言った所まで近づいた光球は止まり、しばらく浮遊したままでいたが、唐突に強い輝きを発した。咄嗟に、少年は目を腕で守る。
腕を下ろした瞬間、彼が息を呑んでしまったのも無理もない。光の球が漂っていた位置に、隣の悪魔にも劣らない美しい女性が浮かんでいたのだから。
(天使・・・・・・イメージ通りの)
背中に生えている純白の大きな翼、頭上には淡い光を放っている輪がある。目の前の美女が隣の彼女と対を成す、少なくとも敵対しているであろう『存在』である事は直感できた。
信心深くない人間ですら、彼女の全身から溢れ出ている高貴な雰囲気を浴びたら、その場に涙を流しながら膝を落とし、理由もなく許しを請うてしまっていたに違いない。
だが、少年には天使に対して、首を垂れる「理由」がなかった故に、威圧感にも物怖じせず、無言で唇を真一文字に引き結んでいる。短時間の内に、折れない心を構築しつつある少年に対し、悪魔は感嘆の口笛を吹く。
そうして、彼女は天使を、常人相手なら一秒も必要とせずに心臓を止められるほどの殺気を含めた眼で睨みつける。
「もう、追いついてくるとはな、鼻がいい奴だ。神の猟犬を気取るだけはある」
空気が押し潰れる音が聞こえそうなほど、凄まじい殺気をぶつけられても平然としている天使は、彼女の脇腹から滲み出てしまっている血を見やる。少年もまた、地面に雫が垂れる音で、傷が開いてしまっている事に気付いた。
『貴女こそ、その深手で、よくここまで、逃げて来られたわね』
天使の声はおねだりをする小猫のモノより甘かった。だが、少年はその声が頭に直接、響いてくる事を差し引いても虫唾が走った。だからだろう、彼はほぼ反射的に、天使と悪魔の間に割り込み、背後にした美女を守るようにして、腕を大きく広げた。
今の今まで、本当に少年がいる事に気付いていなかったのだろう、天使の能面を連想させる無表情がわずかにブレるも、すぐに固まりきってしまう。
『こんな所に、人間の少年? 迷い込んできたの?』
天使は、憐れな魂を救うかのように白い手袋をはめた手をゆっくりと差し出してきたが、その手からも異様な気配を感じ、背中が一気に粟立った彼は咄嗟に身を引いてしまう。
救いの手を拒まれた天使の口許が引き攣り、背後の悪魔は仇敵のそんな反応に、楽しげに口の端を小さく吊り上げた。
「天使さん・・・・・・」と静かな声、だが、少年は真っ直ぐに天使を見つめる。
「僕は天使と出会ったのは初めてだけど、これだけは直感できるし、強く確信も出来る」
そこで、自分を鼓舞するかのように一つ大きく息を吐き出した少年は、更に瞳の輝きを強めて言い放った。
「僕はアンタが大嫌いだっっっっ」
しばらく、重すぎる静寂が狭間を支配する。
『今、何と言ったのかしら?
生憎、矮小な人間の戯言なんて、私の耳には雑音にしか聞こえないの。
もう一度だけ、チャンスをあげるわ。
さぁ、坊や、私を褒めてみなさい』
外見、雰囲気、会話で天使が後ろの美女を傷つけた事は疑いようがない。故に、少年はその怒りを惜しまずにぶつけた、それが天使の怒りを買うと理解していた上で。
「何度だって言ってやるさ。
ゲロ臭ぇ耳糞がたっぷり詰まった穴をかっぽじって、よっく聞きやがれ。
ぼ・・・俺はてめぇが大嫌いだって言ったんだよ、クサレゲス天使が!!」
初めての挑発だったが、これらのコトバは少年自身も驚くほど、口から淀みなく飛び出ていった。
案の定、一瞬とかからずに怒髪天と化す天使。ブロンドの髪が、まるで象すら一噛みで死に至らしめる猛毒を牙から滲み出させる毒蛇のように蠢く。
心臓を凍りつかされるような烈しい怒気を、その小柄な体躯にぶつけられても、少年はそこを退かなかった。既に、意識など半ば混濁しかけていたし、小刻みに震える膝をそのまま恐怖に押し負けて、地面に落としたかった。
だが、中指で天を衝く彼は一歩として震える足を下げず、強張った腕も下ろさず、潤んでいる眼も瞑らない。
『不遜の極みですね。実に不愉快です。よって・・・・・・死刑執行』
天使の右手を覆いだしていた光の粒が、突進槍の形を取り出す。
冷え切った無感情な声で冷酷に宣告し、天使は自分を敬う素振りすら見せなかった少年の心臓を無慈悲に貫くべく、無表情のままで光の槍を突き出した。
槍の先が、最後の最後まで閉じなかった少年の眼の前で静止させられる。彼の視界を覆うのは、悪魔の背中。そして、彼女の腹部を光る槍は無惨に貫き通していた。
悪魔は深手を負っているにも関わらず自分の身を挺して、少年を守ったのだ。
「お、お姉さん!!」
円形の傷口から、血は一滴すら溢れ出てはいなかった。槍を包んでいる浄化作用を持つ光によって死滅させられている細胞が、黒い灰となって音も上げずに散っていき、傷が更に深くなっていく様子を目の前で見せられた少年は悲痛な声を発してしまう。
「相手は子供だぞ。
相変わらず、自分達を崇めない人間には、一切の情けをかけないな、お前らは。
本当に胸糞が悪くなる。お前らはいつも、人間に対して、何も与えずに、奪い取っていくだけだ」
『単なるエネルギー源でしかない矮小な生命体に、餌だけでなく愛情まで注ぐアナタ達の方がおかしいのよ。
昔から、私達の姿と名前を騙って、人間の成長を見守り、進化に導いてた。
時には、勇者なんて大層な肩書きも与えて、わざわざ作った魔王って言う虚像を倒させてたわね。
そう言えば、貴女も、その役をこなしていたわね、あの背信者と一緒に』
「ハハハ、そんな事もやったけな」
腹に風穴を開けられているのに、悪魔は昔を懐かしむように笑う。
そんな態度が癇に障ったのか、天使は柄を握っている手を捻った。途端、灰化が進み、彼女は堪えきれなかったのか、短いながらも苦痛の呻き声を上げてしまう。
「お姉さんっっ
てめぇ、ぶっ殺してやる」
しかし、悪魔は前に出ようとした少年を、軽く広げた左手で制する。
「少年、ぶっ殺してやる、なんて浅い台詞は、このシチュエーションで使うもんじゃない。
心でそう思った時、既に、その結果は起こしておかねばならないからな。
使うなら、『ぶっ殺してやった』にしておけ。
しかし、嬉しいな。私も同意見だよ・・・・・・私もコイツらが大嫌いなのさ」
人のそれとは異なる色味の血が垂れる口の両端を吊り上げての笑い方は正に悪魔。怒りも憎しみも混ざり合った、凄まじい殺意は、黒い煙となって少年の目でも確認できるほどだ。
「そんな私が、大嫌いな相手に対してどうするか・・・」
「こうするのさ」と彼女が更に両端を吊り上げ、少年の瞼が上がった直後、天使に、すぐには数え切れない打撃痕が刻まれていた。全身が拳の形に陥没し、天使の美しい顔も見る影がないほど変形させられていた。
本気になった悪魔の乱打は音速すら超えていたのだろう、天使が『殴られた』事をようやく知覚した瞬間に、打撃痕と同じ数の破裂音が一気に響き渡り、鼓膜に鋭い痛みが走った少年は咄嗟に両耳を塞いでしまう。
『ア、アバド・・・きさ』
痛みすら感じないほど歪みきった顔の天使が顎を外さんばかりに開いた口は、悪魔の名を最後まで口に出来なかった。
そして、断末魔を上げかけた直後、天使の脳天から爪先まで線が走る。亀裂の内側から光が漏れ出し、白い焔に包み込まれた天使は爆発もせず、そのまま無音で砕け散り、真珠色の灰の小山だけを悪魔の足元に残して消え失せてしまう。
悪魔の腹部を貫いていた槍も、使い手の消滅に続くようにして、光の粒子となって宙に散っていく。
「こ、殺しちゃったんですか?」
「いいや」と悪魔は首を横に振った。「奴等には『死』と言う概念すらないのさ。単に、瞬間回復ができないレベルまで一気に追い込んだだけさ。もっとも、こうなったら人の姿に戻れるのに、軽く五十年は必要になるだろうがな」と彼女は足元の小山を蹴る。
「念には念を入れよ、だな」
彼女が腕を一振りした直後だった、旋風、いや、ごく小さな竜巻が生じ、灰をあらゆる方向へ吹き飛ばしていく。その際、命乞いが少年の耳には聞こえたけれど、彼は気のせいだと思う事にした。
「お姉さん、傷は大丈夫ですか」と再び、呼びかけようとした少年の動きが不自然に硬直してしまう。
そうして、「ピキリ」と何かが欠け落ちるような音が脳内で聞こえた瞬間、これまでにない激痛が十本の指先から全身に『放電』のイメージを伴って駆け抜けた、彼の口からは十にも満たない子供が上げたとは思えないほどの、濁った絶叫が上げられる。
「ぎっ、じ、がっ、ぐぐぁぅ・・・あああああああ」
少年を襲ったのは、全ての臓器を棘だらけの手で思いきり握り潰され、もみくちゃにされているかのような痛み。恐怖を克服するべく厳しいトレーニングを自分の肉体に課しているプロの格闘選手ですら耐えられないであろう、激痛の二文字では足りない痛みが、小さな体を虐げる。
当然、少年は立ってなどいられず倒れてしまうのだが、脊髄反射で伸ばした手が体を支える事はなかった。間に合わなかったのではない、力を入れきれなかったのでもない、地面に触れた衝撃で肘から先が、まるで脆い砂糖細工のように砕けてしまったのだ。
地面に顎を強かにぶつけてしまった少年だったが、普通なら転がりまわる痛みすら感じないほど、全身を走る痛みは説明しがたく、腕が原形を留めていない彼は体躯を芋虫のように丸めて痛みに呻く。
「しまったな」と、苦虫を噛み潰した面持ちの悪魔は、自分の失態を悟る。
「少年の腕についた血を戻してやるのを忘れていた」
(血? そう言えば、お姉さんのお腹の傷を押さえた時に・・・)
「私とした事が、しまったなぁ」とガリガリと頭を掻きながら、悪魔は自分の腕が肘まで彼女の血で染まりきっていた事を痛みで働いていない頭で思い出している少年の傍らにしゃがみ、腕を壊してしまわないよう注意を払いながら触れる。
「あぁ、これは・・・・・・駄目だな」
少年の腕を自分が使用できる治癒魔術、所持している薬草・魔薬では回復不可能だと判断した悪魔は、あえて痛みに呻いている彼に聞こえる大きさの声を出す。
「すまないな。察しは付いていると思うが、私たち、悪魔の血は他の生物には毒にしかならん。
幸い、私のそれは幸いながら即効性じゃないが、不運な事に細胞を喰ってしまうのだ。浸食が少し遅いのは、少年、君の血に秘密がありそうだな。
しかし、焼け石に水だな。
よって、お前の腕はもう生やせない。私の飲み仲間である、ブエルでも無理だろう。匙を投げる」
少年は顔を痛みだけでなく、悲しみで歪める。
「・・・・・・だが、安心しろ。
ムカつく奴はぶん殴ってやれ、と偉そうに助言った私の血が原因で、腕が無いまま生活させたのでは私の面目が立たん」
そうして、悪魔は少年を抱き上げる、口許には例に漏れず黒い笑みを浮かべて。
「一つだけ、お前の腕を元に戻す方法があったりする」
「融合ですか?」と間を置かれずに聞き返された悪魔は、眉の端を跳ねさせた。とっくに発狂していても不思議じゃない痛みであるはずなのに、的を射た推理が出来た彼に感心しつつ、彼女は大きく頷く。
「つまり、契約だな。
少年は腕を元に戻して欲しい、私はこの傷をゆっくり癒したい。
お互いにメリットがある」
「判りました、契約します」
年端も行かない少年が一瞬すら迷わずに首を縦に力強く振ったものだから、これから口八丁手八丁で説得しようとしていた悪魔は逆に戸惑ってしまう。千どころか万に至りそうな魔生の中、これまで多くの男と一時の契約を交わしてきたが、こんなにも速い受諾は初めてであった。
「いいのか? 本当に。
私でも短い時間ではあるが、痛みを消す事くらいは出来るから、その間に考えてくれて良いんだぞ」
「構いません、貴女と契約します」
人並みの幸せを捨てる事になるにも関わらず、一切の躊躇が少年の瞳に無いのを見た悪魔は、嬉しげに微笑む。それがあまりにも美しかったものだから、少年は数秒、呻くのも忘れて見惚れてしまう。が、すぐに痛みは戻ってきたようで、歯軋りを漏らし、悪魔の腕の中で身を捩ってしまう。
「善は急げだ。名前は?」
少年は途切れ途切れに、両親がくれた名を彼女に告げる。
それを聞き、悪魔は「なかなか、決まった名前だ」と屈託のない笑顔で頷き、続けて自分の名を、人間界で力を得る為に流布させた二つ名と共に告げる。少年は唸りながら、彼女の呼び名を腹の中に飲み込むように頷いた。
「だが、これだけは覚えておけ。
私と融合すれば、それまで『視えていなかった』何かに気付かれ、『感じていなかった』何かを引き寄せやすくなる。
また、度を越えて昂奮したり、即死レベルの大きなダメージを受けたりすれば、お前の肉体は人間のそれから遠ざかり、私達に近くなってしまう」
「つまり、一般人の常識が支配する世界とはズレた世界に、片足だけであるが突っ込んでしまう」と悪魔らしからぬ、憂いを秘めた面持ちで彼女は少年を見つめる。「もう一度だけ、考え直してもいい」と言うように。
しかし、やはり、少年の決意は揺るがない。痛みでマトモな状況判断が下せなくなっている訳ではなかった。ただ、身を任せていた、変化の直感に。
「契約して下さい・・・いや、契約しろ、『こうして世界は齧り尽くされた』!!」
「心得たぞ、我が未熟な主よ。
今、この場、この時を以て、我と汝は生と死を共有する、一心同体、運命共同体、因果を担い合う輩だ」
にんまりと笑った悪魔は剋目して、様々なリスクを背負う『覚悟』を決めた少年の唇を奪った。瞬間、得体の知れない巨大なエネルギーが注ぎ込まれ、全身の痛みを飲み込みながら染み込んで行くのを感じたのを最後に、絶頂した彼は意識を手放した。
(ここは・・・・・・)
知るには早すぎる、頭の芯まで痺れるような快感が遠のき、目を開いた少年は自分が迷い込んでしまった森の中で一人、ポツンと立っている事に気付く。幾度か瞬きを繰り返し、彼は自分の腕を目前まで上げてみる。
契約は成功したのだろう、少年の両腕は指の先まで寸分違わぬ状態で、今まで通りに動かせた。しかし、拳の開閉を繰り返す少年は苦笑いを浮かべている。違和感がまるでないのが、逆に違和感を覚えさせていた。
「・・・・・・うん」
(でも、まぁ、これは自分の物であって、自分の物じゃないんだよなぁ)
心、いや、魂の深い所まで潜ってしまっているのだろうか、悪魔の存在を身の内に感じる事は叶わなかった。恐らく、気丈に振舞いこそしていたが、天使から二度に渡って受けたダメージは軽くなかったのだろう。
(なるべく早く治るといいけど)
再会を望みつつ、悪魔からの忠告を思い出しながら、自分の家に戻ろうと、少年が森から出られる帰り道であると直感した方向へ足を向けたのと同時に、藪の中から三つの人影が飛び出してきた。
「!! ・・・・・・あ」
驚いた少年だったが、人影がガキ大将とその取り巻き二人だと判り、思わず肩から力を抜く。
必死に逃げていた自分を調子に乗って追いかけてきた所為で、気付かない内に森に迷い込んでしまったのだろう、彼等は泣きべそを掻いていた。さすがに、ガキ大将はリーダーの意地があったのか、涙こそ流していないようだが、その瞳は潤んでいる。あといくらもしない内に、決壊していたに違いない。
同じように驚いたか、それとも、安堵したのか、彼等の様子がおかしく、少年は思わず、弾けるような笑い声を上げてしまう。
それが気に入らなかったのか、それとも、自分の無様な姿を見られてしまったのを恥ずかしく思ったのか、ガキ大将は少年に荒々しい足取りで迫っていく。
「てめぇ、何が可笑しいんだよ。ぶっ殺すぞ!!」
「いや、ごめん、ごめん。そんなに怖かったんだと思ってさ」
誤魔化すように語尾を荒くするガキ大将を宥めるように、少年は手を小刻みに動かすが、その行為は逆に火に油を注いでしまったようで、真っ赤になったガキ大将は彼に掴みかかり、その笑みを力づくで消すべく、拳を振り上げた。
この時点で、彼の変化にわずかながらも気付いていたのは、取り巻きの片方であった。
(何だ、コイツ、ヘラヘラして。いつもなら、必死に謝るか、一目散に逃げるくせに)
ガキ大将もまた、これまで苛めてきた相手がさっきまでとは別人だと知る、逆に殴られた事で。
少年は突き出されたガキ大将の、天使の槍よりも何百倍も遅い拳を、まるで紙の球でも避けるような気軽さで躱すと、そのままガラ空きの頬を遠慮なく殴った。おもちゃに反撃される、それは頭の片隅になかったのだろう、モロに少年のパンチを貰ってしまったガキ大将は、落ち葉で覆われる地面を無様に転がった。
彼らは信じられないと言わんばかりに青ざめた顔で、「・・・なるほど、殴る側も痛いな。月並みで安易な実感だと思ってたけど、知ってしまうとキツいね、これは」と一人で納得し、ガキ大将を殴った右手を左右に大きく振っている少年を見やる。
「て、てめぇ、何しやがんだ!!」
「何って・・・今まで、君らがオレにしてきた事と同じだよ」
少年が完全に『苛められる側』を脱してしまった事実に気付いた取り巻き二人は、この時点で怖気づいてしまう。だが、醜い優越感が与える興奮を捨て去れないのか、ガキ大将は怒りに任せ、少年に両腕を振り上げながら突っ込んでいった。
「う・・・・・う・・・」
十数分後、顔面への攻撃アリ、引っ掻きアリ、噛み付きアリの、実に子供らしいケンカに終止符が打たれた。
少年は頭のてっぺんから足の先まで傷だらけの血だらけ、だけど、立っていた。
体重の乗ったトドメの一発で、既に頬が腫れ上がり出しているガキ大将は、地面に大の字に倒れたままで動けないでいた。しかし、生まれて初めて、同年代、しかも、今日まで良い様にいたぶってきた相手に負けたのがよほど悔しかったのだろう、泣き声を最後のプライドで押し殺しながら泣いていた。
そんなリーダーに何の言葉もかけられないのか、取り巻き達は呆然とした表情で、頬から滲み出た血を袖口で乱暴に拭った少年を見つめる。
「痛ぇ。でも、喧嘩でボロボロになると、気持ちいいなー」
彼は切れた口の中に溜まっていた血を勢い良く吐き捨てると、ガキ大将へと手をゆっくり伸ばした。自分に差し出された手をガキ大将は、これでもかと見開いた目で見返す。少年は彼の驚きなど露にも止めず、地面から上げられない手を強引に握った。
殴り合っている際にも、その身で痛感したのだろうが、都会から来たひ弱な奴と散々、嘲ってきていた少年の力が想像以上に強い事を改めて思い知らされたのだろう、ガキ大将は一つ、大きく鼻水を吸い上げる。
「・・・・・・おい、今までイジめて悪かったな、都会モン」
手を離し、素直に少年へ深々と頭を下げた、傲慢なガキ大将に驚かされた取り巻き達も慌てて、「ごめん」と彼へ詫びの言葉を口にする。
「もう、いいさ。気にしてないって言ったら嘘になるけど、こうやって殴り合ったら、スッキリしちゃったし」
快活に笑い、すんなりとガキ大将たちを許した少年。喧嘩の最中、ガキ大将を殴る度に拳と胸に痛みを覚えていた彼は今の今まで、心の中で凝り固まってしまっていた卑屈、侮蔑、憎悪と言った負の感情が溶けていくような気分だった。
「でも、オレは都会モンって名前じゃない・・・・・・辰姫紅壱だ」