第9話
「え、いやいやそんなことは・・・・・・。はい、大丈夫ですって!」
『えぇ~ホントに~っ?』
電話越しに聞こえてくる、彼女の声。それをじっくり味わうように、たまに目を閉じたりもする。端から見ると、何ともアホな野郎の姿に見えるだろう。
『普段の自分』は、友人などとメッセージのやり取りをするくらいで、電話など、今どきは仕事の関係でしか使わないツールだと勝手に決めつけていた。しかし、今は違う。電話は・・・・・・電話は本当に良いものだ。
『じゃあ明日、ね。時間、早くて大丈夫?』
「は、はい!もちろん。寝坊はしません!絶対に!」
向井の調子の良い返事に、電話の向こうで小柴の笑う声が返ってくる。それもまた向井は、軽く目を閉じつつ聞き入った。
『じゃあ、そろそろ。明日・・・・・・楽しみにしてるね?』
「はい、もち自分も。すっ・・・・・・ごい楽しみですっ!」
もちろん楽しみと答えた向井に、小柴が柔和に『ふふっ』とはにかむのが伝わってくる。
あ、ヤバい・・・・・・これ。小柴先輩可愛すぎる。
「はい・・・・・・。はい、おやすみなさいです・・・・・・」
そう言って、スマホの通話を終了させた。
「ん~んん~んんんっ~・・・・・・っ!!」
自室。年季を経て色褪せつつある六畳間の上をゴロゴロ転がる。スマホをそこら辺に放り、しばらく小柴と交わした会話の余韻にひたっていた。
「明日か~」
仰向けな姿勢で、自室の天井を見やる。
じゅくじゅくじゅくじゅく。
セミの声。夏も、段々終わりが近づき始めていた。
「早めに寝るかね」
やがてゆっくり身体を起こし、布団を敷くため六畳間を片付け始める。見開かれた雑誌やら脱ぎ捨てた靴下やら、まあ部屋の散らかり具合はいつもの状態である。
『一人暮らし』でなければ、ココももう少しマシな部屋になるのだろうか。
「・・・・・・って、何考えてんだか」
我ながら『らしくない』妄想などしつつ、簡易テーブルを部屋の真ん中から脇に押しやる。机上には、だらしなく飲み食いをした痕跡。半分ほど口をつけた缶ビールを、片付けついでにグイと飲んだ。
「・・・・・・ん」
いつものように、ひと息つく。ビールなんかは『昔から』飲んでるものの、美味いのかどうかはよく分からない。
あるから、飲んでる。みんなも飲むから、飲んでる。まあ、『飲まなきゃやってられない』日も本当にあるものなのだと、仕事をやるようになってからは分かったものの。
「明日、か」
ふと呟き、思わず微笑みが漏れる。
今の自分自身に充足したものを感じつつ、空になったビール缶をキッチンに持っていこうとした。
「・・・・・・っ?」
不意のことだった。その場に、めまいのようなぐらりとした感覚がする。
気がつくと、力なく畳の床に座り込んでいた。
「な、ん・・・・・・こ、れ」
何だこれはと、呟く。しかし口から出てくるのは、自分のしゃがれた小さな声だけ。畳に手をついたその側に、空になったビール缶が転がっていた。
「あ、れ・・・・・・?」
ふと、かすかな疑問が浮かんでくる。いつも飲むのとは違うビール缶のラベルがプリントされてることに、今さらながら気づく。全く飲まないものではないが、しかし最近買った記憶は・・・・・・。
ぐらり。
覚えているのは、そこまでだった。再びめまいの波が襲ってくる。
向井は力なく畳の上に倒れ込み、意識を失った。




