第6話
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
いつもの夜道を、いつものように帰っていく。本来なら、それだけのはずだった。
仕事は忙しく、いわゆる中間管理職でそれなりに責任もあり、まあ厳しい日の方が多い毎日。
それでも、今思えばそれこそが最もありがたいことで、やはり充実していた日々だったのだろう。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
最初に感じたのは、自分の歩いている地面がいきなりふわりと浮き上がるような、奇妙な感覚。それがあったかと思えば、急にその地面が近づいてきて、自分の視界を目一杯にしてくる。
何があったのか・・・・・・気づいたときには、四方から自分の身体中を襲う痛み。手が、足が、お腹が、頭が、容赦なく暴力的に打ち据えられる。
どんなに逃れようとしても、無意味な抵抗にしかならない。打ち据えられながら、上から目線でワラわれる。
そんなに、楽しいのか。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
やがてのこと。
全てを、奪われた。
自分の大事なものを。
暴力は止んだが、代わりに持っていたもの全てを失ってしまう。
ことごとく、持っていかれる・・・・・・。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
ひたすら、叫んでいた。
返せ、返せ、返せ、返せ、返せ、
返せ、返せ、返せ、返せ、返せ・・・・・・。
身体中の痛みも、無抵抗のまま打ち据えられた悔しさも、どうでも良い。 それより、自分の持っていたものこそ大事なのだ。
あれがないと・・・・・・。
返せ、返せ、返せ、返せ、返せ、
返せ、返せ、返せ、返せ、返せ・・・・・・。
あれが、ないと・・・・・・。
○○○○○○○○○○
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
寝覚めから、最悪だった。
未明のこと。布団を蹴上げるように身を起こし、暗闇の中で荒い呼吸を繰り返す向井。
「~っ、ま・・・・・・った、変な夢かよ・・・・・・」
舌打ちしつつ、盛大にため息をつく。本当に、ここ最近はロクな夢を見ない。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
水の一杯でも飲もうと、布団から起き上がろうとする。すると身体のあちこちにズキりとした痛みが生じ、向井は顔をしかめた。
「何・・・・・・んだかな~」
まるで、夢の中でボロボロになるまで打ち据えられたのが本当のことだったみたいに、身体のあちこちが痛んでいる。何か、そんな目に遭う悪いことでもしたっけな。
そんなわけがないと痛みを無視し、水を飲みにキッチンの冷蔵庫まで向かった。
○○○○○○○○○○
翌朝。今日は、バイトが休みの日。ミンミンミンと、セミの鳴き声が聞こえている。こういう日は、やはり冷房の効いた部屋でうだうだするのに限る。
しかし昼間から知人と会う約束をしているため、朝食を終え忙しく身支度を整えている向井。ジーンズに、白の長袖シャツの薄い上着という格好で、午前十時半には家を出た。
ひゅー。
ニ〇ニ号室。
やはり、その扉から漏れてくる隙間風。心なしか、昨日やその前より風の音が段々と強くなっている気がする。
「何・・・・・・だかな」
やはり、いぶかしく呟く向井。夏場だし、そんなに風が吹く天気でもないのに(むしろ風が必要なくらいに蒸した夏模様で)、しかしいつも、この部屋の前だけはこうだった。
まあ急いでいるし、気にしたところで仕方がないだろうが。
○○○○○○○○○○
地元駅からいくつか電車を乗り継ぎ、東京都は日本橋まで足を運んだ向井。三越付近のカフェで待ち合わせとのことで、鉄道駅の地下道をしばらく行き、出口階段から地上に出る。この時季のキツい熱射の照りつけに参りつつも、何とか目当ての店に到着した。
「暑っつ・・・・・・」
そうボヤきつつ、店の扉をくぐる。案内に来た店員に待ち合わせで来た旨を伝えて、ひとしきり店の中を見渡すように目をやる。果たして店の右奥、窓際の席に知人の姿を見つけた。
「あ。向井くん・・・・・・」
その席からこちらに視線を向けてきた、向井と同年代くらいの一人の女性。軽く茶色に染めたボブヘアーの髪が特徴的だが、それも含めて朗々とした雰囲気をまとっている。
「おう」
そう返事をしつつ、向井は女性の向かい席に腰を下ろす。「久しぶりだね?」のひと言にも、やはり「おう」と返した。
「ん、まあ二、三ヶ月ぶり、か?」
手持ちのカバンを足元の荷物カゴに入れたり考えたりしつつ、そう答える向井。「そうだね。それくらい」と、その知人女性。
「ん、まあ″リホ″も相変わらずで良かったけど」
やや歯に衣着せるような、どもるような、そんな調子の向井。
リホ、理穂。出来れば会いたくない、東京で知り合った知人の一人なのだが、まあ特に会うのを断る理由もないし、久しぶりに顔が見たいと言われればなお仕方がない。
「みんなは元気?」
と、東京のマンションで住まいのシェアリングをしていた面々について尋ねてみる。「ん。まあ、ね」と、ひと言答える理穂。少し素っ気ないというか、会話して早々、向井は彼女のやや違和感ある様子に気づいた。
「痩せた、か?理穂」
様子を窺いつつ、そう尋ねる。
「え?」
不意に聞かれて、理穂は戸惑ったようにこちらを見つめてくる。向井にそんなふうに気遣われたことが、よほど意外だったというような。しかし、「そんなことないよ」と、間もなくそう取り繕った。
「むしろ、体重増えたんだけど?」
と、ジトッとした目線を返してくる。そんなふうに見つめられた向井は、「え?あ、いや何かゴメン・・・・・・?」と、ほとんど反射的に謝る。
あれ、違ったか。
一瞬だけ、彼女の顔色が良くないなと思っていたのだが、どうやら気のせいだったようだ。
「まあ、少しくらいなら大丈夫だろ」
自分の失言をごまかすかのように、適当な言葉でお茶を濁そうとする向井。
「″アキラ″は、ほら。別に女子の体型とか細かいところ気にしないヤツだし」
と、理穂と同じくシェアハウスで知り合った友人の名前を上げる。
「・・・・・・そう、だね」
一瞬の間があってから、ひとつ頷く理穂。軽く茶色に染めた髪が、かすかに揺れる。
「まだ、プロポーズ・・・・・・ってところまでは早いかな」
少し物思いする様子で、理穂は窓の外の景色を流し目に 眺めていく。″理穂″と″アキラ″は、今も交際関係にあるようだ。
つまり、どうやら・・・・・・向井が彼女に″謝ったりする″ことは、しなくて済みそうだった。
理穂に対して、実は″少々″後ろめたい過去を抱えている向井は、ホッと胸を撫で下ろす。
まあ・・・・・・あれだ。今さら、彼女に謝るとかするのも、それこそ『今さら』なのである。
「ちょっと腹へったんだけど、良い?」
気を取り直したかのように、テーブルのメニューを手に取りつつ、向井はそう尋ねた。
言われた理穂はやや間が空いてから、「あ、うん?」と、ふと我に返ったかのようにこちらに目線を戻してきた。
「え。っていうか、空気読んでよ~?」
唇を尖らせつつ、ぶうたらと文句を口にする。「悪い、何か美味そうな匂いとかしてて・・・・・・」と、他の客が周囲の席で定番のランチメニューを食べるのを見やる向井。
会う前こそ不安だったが、この後も理穂とはカフェで談笑するなり、銀座の街で買い物めぐりをするなりして、友人同士の和やかな時間を過ごした。




