第14話
『向井さん』
と、今度は理穂の声ではなく男声が響く。この声は・・・・・・一〇一号室の鈴谷のもの。
『大体、私たちが言いたいことは以上になります』
仕事の話でもするかのような、淡々とした口調で。しかしその言葉を聞いた向井は内心ホッとした思いで、ふぅとため息を吐いた。
「アンタは。俺に、どうこうってのは・・・・・・ないん、だよな?」
『・・・・・・ええ』
恐る恐る聞いた向井に、鈴谷が返したひと言。
『私は、ですが・・・・・・』
と、容赦ないふた言目を続けたが。
「ホント、に」
最悪な夜だなと、向井にはそんな思いがにじみ出てくる。自分はまんまと、こうして″空かずの部屋″に囚われたわけだ。
『にいちゃんに謝れ!!』
『これを・・・・・・最後にしたいと思います』
『絶対に許さないからなぁ!!』
と、過去の因縁を持つ者たちによって。
こういう偶然も、あるものなのか。
『あらあら』
と、聞こえてくる大家さんの声。『せっかくねえ』と、向井に同情的な、
『せっかく、東京からわざわざねえ~』
労るような言いようで、
『せっかく、逃げきれるって・・・・・・思ったのにねえ~』
向井の内情を、ばっさり切って捨てた。
何が、分かる・・・・・・アンタに。
「それで?」
大家の言葉は聞き流し、向井は声を上げる。「どうする?どうしたいんだ?アンタらは」と、居丈高に尋ねた。
『向井、君・・・・・・』
理穂の、声。ポツリと、寂しそうな声音で、
『私は、ね・・・・・・』
氷の″こより″が耳の奥を突っついてくるような、小寒くこそばゆい聞き心地で、
『私にこんな悩みや苦しみを与えて逃げていったアナタなんか・・・・・・死んじゃえば良いって・・・・・・』
背筋の凍えるような、残酷な思いをぶつけられ、
『思ったんだけど、ね・・・・・・』
不意に・・・・・・不意に、自分の背中が・・・・・・本当に、ひやりとするのを感じた。
「っッ!?」
ぞわ、り。
この世に、こんな恐ろしい一瞬があるのだろうか。
抱擁。向井の背中から、人がたをした″黒い影″がその両腕らしきを回し、その背から顔らしき辺りを覗かせている。
目も口も何もない、のっぺらした真っ黒い″モノ″。それが、あたかも自分を愛おしむかのように、優しげに身体らしきを押し寄せてくるのだ。
「や、め・・・・・・っ!」
向井はその″黒い影″の存在をすっかり忘れかけていて、なおさら余計に恐怖する。
何で、今さらこんな・・・・・・っ。
もちろん振り払おうと必死に身をよじるのだが、ここに至ってまたもや身体の自由が利かなくなっていった。
「おい、おい、おい、おい・・・・・・っ!?」
心の底から怯え、パニック状態に陥る向井。右を向き左を向き、しかし自分を救ってくれそうな何ものも存在しないことに、ただ絶望した。
『他の皆さん方も、アナタなんかどうなろうと、ただただ、せいせいするだけだって・・・・・・』
徐々に増していく背中の凍えに、身を震わせ、
『思っているんだけど、ね・・・・・・』
なし崩し的に、そのまま畳の床に押し倒されていき、
『でも、さ』
声。吐息の交わり合いそうなほど、すぐ側から。向井に覆い被さった″黒い影″から、理穂の声がはっきり発せられ、
『″この子″には』
ぎりぎりと、″黒い影″の両腕らしきで、肩や首筋を掴まれ、
『″この子″、には・・・・・・っ!』
悲痛な思いを、叩きつけられる。
「理、穂・・・・・・」
さすがの向井も、彼女が言わんとする思いを察する。″その子″には理穂、つまり″母親が″必要で同じく、″その子″には・・・・・・。
しかしまあ、相変わらず″それどころ″ではない状況なのだが。
『向井さん』
と、鈴谷の男声。向井が今なお目の前の″黒い影″ともみ合うように格闘しているのなどつゆ知らず、彼は言葉を続けた。
『私、は。アナタのしてきたこと、普段の振る舞いについて、どうこう言える資格はありません。もちろん、言わなければならないことはあるのでしょう。正直、アナタがこのような目に遭うあことに、あまり同情の余地はない。アナタに個人的な云々のない私でさえ、そう思います。ただ私自身、他人のふがいなさを批判することは出来ません。現在、家庭のことで少々問題を抱えていましてね。本当は、帰ってやらなければならないことが山積しているのですが・・・・・・。しかし、です』
言いよどみ、そこでひと呼吸置き、
『″娘″が″母親″になる。そうなると・・・・・・』
『やめて』
と、次の言葉はすぐに遮られる。
『″鈴谷さん″には、関係ない話でしょう』
理穂の声。『それは・・・・・・』と、なおも言い募ろうとする鈴谷に、
『″アナタの奥さん″と、話さなきゃいけないことが、山ほどあるんでしょう?』
と、冷たく、つっけんどんに言い放った。やや、何とも言えない沈黙が流れた後、
『・・・・・・つまり、とにかく。″一般論″として、子供が出来るとなると、また話が違ってくる・・・・・・ということです』
と、鈴谷が気を取り直したかのように言葉を結ぶ。心なしか、先ほどより声の張りが弱くなったような、そんな印象を受けた。
茶番だと思いつつも、鈴谷と理穂との″関係″を何となく察する向井。この間、ハイツの前で立ち話をした光景が、何となく頭に浮かぶ。が、しかし--
「っ・・・・・・で?」
と、向井。「それで!?」と、目の前の切迫した状況にあえぎつつ、怒鳴る勢いで叫ぶ。
「コレ、っは・・・・・・っッ!この、っワケ分んねー″黒い影″のコレは、・・・・・・俺が、っ俺が受けるべき罰だって・・・・・・アンタ何とかしちゃくれねえ、ってこと、っ・・・・・・かよ!?」
『当然、でしょ』
答えは、すぐ目の前から返ってくる。
理穂の、声。目の前の、″黒い影″の顔らしき、から。
『散々、色々な人に迷惑をかけて』
グイと、影の右腕らしきで胸ぐらを押さえられて、
『自分の都合良く過ごしてきたアナタが』
影の左腕らしきで、喉元を圧迫されて、
『こういうときだけ助けて・・・・・・って?』
ジッ、と・・・・・・影の顔らしきに見据えられる。
理穂・・・・・・いやコレは、この″黒い影″・・・・・・が?
『面白い、ね。向井君?』
ぞわり、と向井は自分の背中の縮こまる感覚を味わう。目の前の、″理穂″ではなくこの、″黒い影″に・・・・・・確かに、わらわれた気がしたのだ。
「お前、っ・・・・・・!?」
ぎりぎりと、喉元を絞められていく。呼吸が苦しくなり、向井はますます恐慌状態に陥った。手を振り足を振り、ひたすら抵抗するが、″黒い影″の力強さの前にはあまりにも無力で--
『ふ、ふ、ふ』
いたぶられ、わらわれる。やはり、″コレ″は・・・・・・理穂でも、他の住人でもなく--
「ッっ・・・・・・っ」
やがて、 のこと。息が詰まり、意識がかすれそうになる。
寒い。
″黒い影″に触れられている胸や首の部分が、徐々に徐々に冷えていく。
寒い。
「助、け・・・・・・」
向井の声。手を伸ばし、何かにすがろうとする。しかし、彼を助ける何ものもここにはない。
「俺、は・・・・・・」
寒い、寒いっ。
俺は、こんな目に遭うべきじゃない。
そりゃ、『昔』は『やんちゃ』して、『好き勝手』してた時期も、あったかもしれない。
寒い。
でも、今は違うんだ。
そう・・・・・・俺は悪くない。もう俺は、『良い人』なんだ・・・・・・『良い人間』なんだよ。
『ふ・・・・・・』
と、声。向井の考えていることなど、お見通しだとばかりに。
″黒い影″の吐息には、はっきり嘲りの思いがこめられていた。
『・・・・・・そんなわけ、ないじゃない』
聞き覚えのある、女声。理穂の声にも聞こえたし、『今』の自分の『全て』・・・・・・小柴、彼女の声にも--
「ち、違・・・・・・っ!」
違う。俺は、少なくとも『彼女』には何も--
思考が、徐々にまとまりを無くしていく気がした。普段の自分らしくない弱気な言い訳が、頭の中を次々駆けめぐっていく。
俺が、悪いのか。
いや、俺は悪く・・・・・・。
いや、やっぱり--
『あらあら』
ふと、のこと。
意識の定かでなくなりつつある向井の耳に、二〇一号室の住人--三ツ木の声が、もしかしたら聞こえたかもしれない。
『--ちゃん。″今回″は、ほどほどに・・・・・・しておいてちょうだいねぇ?』
『・・・・・・はあ~い』
それに返事を返す、あどけない少女のような声音。向井の耳に聞こえているそれらは、しかし理解出来る種類のやり取りではなかった。
寒い寒い寒い寒い・・・・・・寒、い。
やがてのこと。
向井の意識は、そこで完全に途絶えてしまった。




