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第11話

「っ、あ・・・・・・っ!」


部屋の、石畳(いしだたみ)の玄関口に落ちたので、けっこう痛かった。


反射的に、打ちつけた右肩辺りを(かば)おうとして、いつの間にか身体が動かせるようになっていることに気づく。


「痛っ、て・・・・・・」


腕、肩、腰、あちこち労るようにさすりつつ、暗い部屋の中、向井はゆっくりその場から身を起こした。


「っ、わけ分からね・・・・・・!」


息を()き、遅ればせながら怒りと苛立(いらだ)ちと困惑が同時に出てくる。


一体、何だっていうんだ。


理穂や、自分の周りに集まった『裏野ハイツ』の面々の顔が浮かんできて、またさらに感情的になる。


「おい・・・・・・」


ゆっくり、向井はその場から立ち上がる。足も、何とか動く。今しがた閉じられた部屋の扉まで、向井は暗がりの中、手探りしつつ歩み寄っていく。


「開けろ」


扉に触れるところまでたどり着き、扉のドアノブを探る。それから、


「開けろっつってんだろ!!」


と、激昂(げっこう)し始めた。ドアノブをガチャつかせ、扉を押し開けようとする。


しかし、


「んで開かねーんだよ。オイ!?」


開かない。二〇二号室の扉は、向井が何をどうしても開かなかった。ドアノブは、回る。鍵も回る。なのにその扉は、向井が力の限り押しても引いても、びくともしない。(しま)いには、何度も何度も体当たりまでしたというのに。


「オイ、おいオイおいオイ・・・・・・っ」


さすがに扉がどうにもならないことを認めつつ、しかし相も変わらず混乱したまま、向井は部屋からどう出るべきかを思案し始める。


キッチンの、小窓。しかし、ここも開かない。ダイニングテーブル、いやイスを持ち上げて、それの脚の部分で小窓をぶち破ろうとする。やはり、上手くいかない。


そのまま玄関まで戻って、イスを使って扉をぶち破ろうとするが、これもダメ。


頭に血がのぼっているので、全て力任せだ。


「ち・・・・・・っ!!」


舌打ちし、イスを抱えたまま部屋を突っ切る。ベランダに出られる、ガラス扉。これまた力任せに、ガラス部分に向かってイスを叩きつけた。


ガチャン。


これも、無理だった。ガラスが割れない。とうとうキレてしまい、イスをその辺に放り落とした向井は、ほとんど奇声を上げその場に立ち尽くすしかなかった。


「わけ分かんねーよ・・・・・・本当」


呟き、クシャクシャ乱暴に頭を()く。少し落ち着いた頃合いに、あらためて室内を見渡してみた。


「ここは・・・・・・」


とりあえず、分かることから考えていく。


自分の部屋の隣、二〇二号室。誰が住んでるか・・・・・・分からない。自分が引っ越してきてから、ついぞ挨拶は出来ていないし、ハイツの住人から、何かしら事情を聞くこともなかった。


「っ、(あつ)・・・・・・」


閉めきりのその部屋は、蒸すような暑さがしている。ベトッと、シャツの(えり)が首辺りにまとわりつく。


とにかくここを出るのに何かしらしなければと、向井は部屋の辺りを手探りしようとした――


「っ・・・・・・?」


その手が・・・・・・はたと止まる。


不意のこと、だった。 向井はその部屋の暗がりの中に、()も知れない気配を感じる。首筋の辺りに嫌なものを感じ、身構えつつ周囲を見渡した。


「・・・・・・っ?」


自分の居る六畳間・・・・・・向こうのキッチン・・・・・・玄関に、六畳間からベランダに出るガラス扉・・・・・・あちこち見回すものの、不審なものは何も――


「っ・・・・・・っッ!?」


六畳間に向き直った、その瞬間・・・・・・。


ぞくり、と。


向井は心底、(きも)を抜かれる思いをする。


ふ、ふ、ふ。


静かに、自分の耳元にささやかれる甘い女声。何だと思って周囲を見渡すが、しかし何もない、誰もいない。


ふ、ふ、ふ。


再びのこと。「(なん)っ・・・・・・!?」と、やはりあちこちに目をやるしかない向井。気味の悪さをごまかすために、「ふざけんなよ、オイっ!?」と、怒鳴って虚勢(きょせい)を張る。


しかし――


ふ、ふ、ふ。


声は止まない。部屋の四方をくまなく伝うように、その女声がこだまする。


「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ・・・・・・」


再び情動的になってきた向井は、部屋から出ようとあれこれし始める。


ガチャリ、ガシャンと手当たり次第に物をつかんだり辺りにぶつけたりしてみるが、どうにもならない。


「う、あ・・・・・・っ!?」


ふと玄関の方に目をやり、仰天(ぎょうてん)する。


黒い--向井と等身大くらいの、ひとらしき姿形をした--影。驚きより、恐怖より、それらの何よりも本能の部分から、それが自分にとって最悪の脅威(きょうい)だと認識する。


そして。


″それ″が、ゆっくり(すべ)るようにこちらに近寄ってきて――


「よせ、よせ、よせ、よせ・・・・・・っ!!」


物を、つかむ。それを、黒い影に向かって投げつける。一つ投げたら、あとはもう無我夢中(むがむちゅう)だった。


置物、テレビのリモコン等々・・・・・・本棚の本をいくつか投げつけた辺りで、それが全く無意味な抵抗だと知る。


一切、″それ″に物が当たらない。


もう、ダメ・・・・・・だった。六畳間の(すみ)まで後ずさり、逃げ場をなくした向井。足が・・・・・・いつの間にか、その場にへたり込んでいる。そんな自分に、黒いひと型の影は、ゆっくり目の前まで迫ってきて――


む、か、い、く、ん。


不意の、ことだった。部屋の中に、自分の名前を呼ぶ声がこだまする。


む、か、い、く、ん。


また、だ。同じ女声。目の前の黒い影が、部屋の四方から自分の名前を呼んで・・・・・・。


もう、ダメだ・・・・・・っ。


極限まで恐怖に支配されつつある向井は、他になすすべもなく、ギュッときつく目を閉じた。そして――


ど う し て 。


目を閉じ、何もかもを諦めようとする。しかし、次に聞こえてきたのはそんなふうな呼びかけ。


ど う し て、ど う し て、ど う し て、ど う し て。


まるで、自問自答するかのような、しかしその声の主は向井に対して、確かにそう尋ねてくるのだった。


『どうして、さ。こうなっちゃったんだろう・・・・・・ね?』


と、目の前。今度は部屋の四方ではない。黒い影のどこかしらから、直接こちらに言葉が投げかけられる。


言われた言葉を、すぐには飲み込めず、しばらく立ちすくむしかなかった向井。どうして、ってそんなの・・・・・・。


「オレは、悪く・・・・・・」


悪くないと、そういう思いで呟く。


そうだ、俺が・・・・・・オレが一体何をした?


『嘘を()くなっ!!』


「悪くない」そう言おうとした、次の瞬間。今しがたの女声とは違う、甲高(かんだか)い声が部屋の四方にこだまする。


(にご)りのない、子供の・・・・・・。


『兄ちゃんに謝れっ!!』


山川の息子、タカシの声。向井にとっては、それは全く身に覚えのない言葉だったが・・・・・・。


『″ケンタ″はね、向井さん』


と、今度は男声。今の向井には、それが『裏野ハイツ』の住人、山川の父親の声だということが間もなく分かる。文字通り、寄ってたかって何なんだコイツらは。


『今でも、一人で外に出ることを怖がったりするんですよ。もう、十一歳にもなるというのに。光と音、それがすると、過剰(かじょう)に反応したりもします。夜寝てるときも、たまに夢に見るそうです。自分の部屋で、一人で寝るのは、あの子にはまだ先の話になるでしょう。未だに・・・・・・あの子は、″あの日″の記憶に怯えてるんですよ』


静かな口調で語られる、山川の言葉。「何の、話・・・・・・だ?」と、そう言い返した向井に山川は、


『・・・・・・やはり、思い出しませんか』


と分かったふうな、あきらめ口調で呟いた。


『仕方、ありませんね』


山川の言葉。すると、目の前の黒い影がゆっくりと近づいてきて――とっさのことで、向井は()けることすら忘れ――


「っッ・・・・・・っ!?」


向井に、ヌッと手の五指(ごし)らしきものを伸ばしてきた。


「あ・・・・・・っ!!」


その黒い手の五指が、向井の視界を(おお)う。すると不意に、


「熱っ・・・・・・っ!!」


と、その場から弾かれたように飛び退()く向井。顔を押さえ、庇うようにしながら、部屋の畳をのたうつように転げ回る。


「何・・・・・・っ!?」


戸惑い、恐る恐る部屋の辺りを見やろうとする。しかしまた、何かに弾かれたかのようにその場から飛び退いてしまう。


部屋の中は静かなはずなのに、しかし向井にとってはまさに一大事が起きているのだった。


パンッ。


右側から、破裂音。


パアンッ。


今度は、左側から。


音と、光・・・・・・。


向井の視聴覚は、今それらに翻弄(ほんろう)されているのだ。


(まぶ)し・・・・・・っ!?」


不規則に、視界のあちこちが明滅(めいめつ)する。それに加えて顔の肌を刺すような熱さまで感じるのだから、もうどうしようもなかった。


『怖い、ですか。向井さん・・・・・・?』


と、部屋に響く山川の声。無機質で、努めて冷静な壮年の声音だが、


『″ケンタ″は、もっと怖い思いをしたんですよ・・・・・・』


その奥底(おうてい)には、確かな敵意が秘められていた。


「あ・・・・・・っッ」


はあ、と、荒く息を()く向井。ようやく、音と光が()んだ。部屋は暗く、何事もない。向井一人が、ただ息を乱し苦しんでいる。


『思い、出しませんか・・・・・・?』


山川の言葉。向井にとっては、やはりわけの分からない問いかけなのだが、しかし思い出すかと聞かれて、息を吐きつつ考え込む。


『″花火″は、さすがにもうやらない年ごろになりましたものね?』


「あ・・・・・・っ」


ぞわり、とした感覚。向井の、昔の記憶が、糸を手繰(たぐ)るように徐々に戻ってくる。


自分の高校時代の記憶――二年生の夏頃、今よりずっと『自分らしく』過ごせていた、あの頃の――


「アンタら、まさか・・・・・・?」


『神奈川の○△では、お世話になりました』


山川の言葉。頭部を叩かれるような、ガツンとした衝撃が、向井の記憶を呼び起こした。

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