第10話
再び向井が目を覚ましたとき、部屋の明かりは消えていた。意識が戻っても真っ暗な視界に、しばらく困惑する。手元にはスマホもなく、何かしら灯りを得られない状態。
とにかく部屋に明かりを点けようと、向井は床から起き上がろうとした。
「・・・・・・っ?」
そこで、またもや困惑する。手足が、動かない。今は仰向けに部屋の天井を見上げている格好だったが、その状態から何をどうすることも。
出来ない・・・・・・いや、そんなバカなという思いで、右手なり左足なり背中なりに力を込めようとするが、身体は一切応えてくれない。
何なのだという焦りと苛立ちに駆られつつも、向井は力の限り身体を起こそうとした。
「起きた?」
不意の、ことだった。寝転がった自分の頭上から呼びかける声がして、向井は冗談抜きで死にそうなくらいに驚愕する。
同時に、自分以外にも複数ひとの気配がするという事実に、そのとき初めて気づいた。
「動かない方が良いよ」
怯えるしか出来ない向井に、その声の主がふた言目を続ける。見知らぬ者・・・・・・?いや、声には聞き覚えが・・・・・・?いや、そもそも何でこんな状態に・・・・・・?
考えられるのは、それくらいだった。
「まあ、″動けない″・・・・・・のよね?」
み言目。そこまで声を聞いた辺りで、向井は顔が見えないながらも、ようやく声の主に気づいた。
「理、穂・・・・・・か?お前・・・・・・?」
この間、銀座のカフェで会ってきた友人の名前を、半信半疑に呟く。呟きつつ、本人に違いないと確信する。しかし声の主はそれには応えず、「すぐに済むから」と、向井の側を離れて(暗がりに、そういう気配がした)いった。
「お酒は美味しかったですか?向井さん」
すると、またもや。自分の頭上から声がして、向井は驚愕する。自身の身体の右手側、壮年の男声。
「あ、なた・・・・・・は・・・・・・」
「やっぱり、日曜日は雨が降るでしょうね」
その言葉と声音に、つい最近の記憶が揺すぶられる。同じハイツの住人・・・・・・一〇一号室の鈴谷と、そんな会話をしたではないか。
「すみませんね。少し、お酒が『効きすぎた』かもしれません」
暗闇の中。右手側の鈴谷が、軽く手で酒を飲む仕草をしたらしいのが、何となく分かる。やっぱり、本人だった。
「まあ、すぐに済みますよ」
やはり、そんなことを言われる。「な、にが・・・・・・どう、な、って・・・・・・?」と、そう尋ねようとした向井に、今度は左手側から、またもや別の声がした。
「よくも兄ちゃんを・・・・・・っ!!」
「お前が、っお前がいなければ・・・・・・っ!!」
耳をつんざくような子供の声と、それと対称的に濁った中年男性の声。顔をしかめるような思いで(実際、自分の表情がどうなってるかは分からないが)、向井はそちらに動かせるだけの目線をやった。
「あん、たら・・・・・・?」
あなた達は、という意味の言葉。暗がりにも多少目が慣れてきたのか、そこにいるひと影の輪郭くらいは見えてきて、それが何となく認識出来るようになり始めていた。
中年の方は、一〇二号室の田野。子供の方は、一〇三号室の山川、その息子のタカシ。暗がりで二人の表情こそ見えないものの、今が穏当な状況じゃないことだけはよく分かる。
「なん、なんだ・・・・・・よ」
と、向井がそんなふうに呟くと、「それはこっちのセリフだ!!」と田野が言い、「絶対許さないからな!!」と子供のタカシが続ける。
何が何やらと向井が戸惑ううちに、「すぐに済ませてやる」やら「タダでは済まさないからな」などと口々に言われる。いい加減、誰かに何かしら説明してもらいたい気分だった。
「まあまあ、二人とも」
と、そこで。まるで向井の心中を慮ったようなタイミングで、右手側から鈴谷が口を挟む。
「向井さんも、だいぶ混乱されてますから」
と、田野やタカシをなだめるような口調で。そう言われて、二人は素直に口をつぐんだようだ。
「ビックリされているでしょう」
向井の方に顔を覗き込ませつつ、鈴谷が言う。
「そりゃあ、まあ・・・・・・」
と口ごもりつつ、向井はそちらにやはり目線だけをやる。手足は、やはり動かないままだった。
「すぐ、済みますからね」
やはり、同じ言葉を繰り返される。説明になってないと向井が口にする間もなく、
「鈴谷さん」
と、聞き慣れた女声がした。
「連れてきて」
女性・・・・・・友人の理穂。その呼び掛けに、向井の周りがゴソゴソし始める。
向井の身体が、ようやく動く。いや、違う・・・・・・右側と左側を支えられ、ゆっくり立たされていく。
薄暗い部屋の真ん中。足の裏に、畳の感触。そこから引きずられるように、部屋から玄関らしき辺りまで連れていかれる。
やはり。自分では身体が動かせなかった。
「足下、気をつけて下さいね」
向井に、というよりその場にいると思われる全員に向かって注意を促す鈴谷。その鈴谷が玄関の扉をガチャリと開け、向井の目にようやく認識出来る明かりが差した。
「っ・・・・・・」
夜の、薄ぼんやりした視界。ハイツの廊下。自室から外に、自力で動けない向井は身体の両側を支えられつつ引きずり出されていく。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
夜光に照らされた室外。一歩一歩、自分を引きずる鈴谷や田野、それに、そんな自分の前を先導するように行く理穂の後ろ姿も見える。
「あ」
廊下に出て、自室の二〇一号室から二・三号室の方に引きずられていく向井。隣の二〇二号室の前に、さらに複数のひと影があった。
「大家さん・・・・・・?」
『裏野ハイツ』の大家、小松川。普段見かける、ニコニコひとの良い表情でそこにいる。暗がりで見辛いのだが、その後ろにまた複数の誰かが立っていた。
「あら。向井さん」
と、いつも挨拶するのと同じように、こちらにひと声もかけてくる。「こんばんは」と。
それこそ穏やかな知人の様子に違いはないのだが、しかし今の向井には、それがかえって現状の異様さを際立たせているようで、ぞくりと背中に寒気がした。
どう考えても、やはり挨拶なんかしている場合じゃない。
「さあ、さ」
さあさあと、手招きなどしてくる大家。一歩、二歩と、身体の両側から引きずられていく向井。
『アレ』、なのだろうか・・・・・・。最後に飲んだ、缶ビール――『薬でも盛られた』のか――やはり、自力では動けない。
先日、買い物袋を提げた鈴谷とハイツの前で話したときの光景が、今さらながらにくっきり脳裏に浮かんでくる。
「どうぞ、こちらへ・・・・・・」
大家の手招きで、向井は二〇二号室の前まで連れてこられる。
一体これから、何がどうなるのか。自分の身体が自由にならない事実と相まって、向井は半ば発狂しそうな気分だった。
「向井君」
と、二〇二号室の扉前で立ち止まった理穂が、ゆっくりこちらを振り返ってくる。ジッと、こちらを見つめてくる。
「何で、こんなことになってるんだと思う?」
と、あらたまったようにそう尋ねてくる。
「は・・・・・・?」
当然、向井には分からない。
だって、そうだろう?自分をこんな状態にしたのはお前らじゃないか。一体、何がしたい。動けなくして、ボコボコに殴るのか。俺は何もしちゃいない、悪くない。文句があるなら、はっきり言えよ。俺が一体、何をしたっていうんだ。
不意に、怒りが湧いてくる。身体こそ動かなかったが、声は段々思うようになりつつあった。
ふざけるな、と向井の声がハイツの共用廊下に響き渡る。最初の「ふざけるな!」は、かすれ声になりつつ。しかし段々、その弱々しい啖呵にも威勢がついてくる。終いには「今さらじゃねーかよ!」と、目いっぱい怒鳴り散らした。
「もう終わっただろーが、俺らは。酒飲んで部屋行って、勢いでついヤッちまっただけだろ!?オメェには″アキラ″が居んだから、もうグチグチ蒸し返すなや!アイツにゃバレやしねーよ!マジ、バカみてーにお人好しなんだからよ!オレとは違ってな!!はぁ・・・・・・別にコッチも何も言いやしねーから!!どうでも良いし。おら、こう言やぁ満足か!?」
静かにこちらを見つめる理穂に、言いたい放題思いの丈をぶつける向井。
かつて東京にいた頃、彼女に対して犯した『後ろめたい過ち』。本当は、こんなふうに言いたいことではなかった。謝りたい、という気持ちもありつつ、しかしこれくらいは『よくあること』だろうと、開き直りたい気持ちもあった。
だから・・・・・・彼女から離れ埼玉くんだりまで引っ越し、夏が終わったらそのまま実家に帰るつもりでいたのに・・・・・・。
「っつか、あんとき会おうっつったのはそっちじゃねーか、バカ。で?顔見たらやっぱ許せなくなったってわけ?ってか、″アキラ″にバレたわけじゃねーんだろ?オレ誰からも何も聞いてねーし。あれだ、カネか?良いよ別に。お前が金輪際すっ込むなら、いくらでも・・・・・・」
「違う、から」
不意に、理穂が呟きを漏らす。小さく、しかし向井がグッと口をつぐむくらいには語気が強く。理穂の目には怒りと、向井に対する軽い失望の色が浮かんでいた。都合が悪くなると、いつも、すぐに、こういう顔をする。
これだから、″女″は・・・・・・。
「じゃ、何なん?」
こちらもまた冷たい口調で、向井は尋ねる。周りには複数の他人が呆れたような様子で立ってこちらを見つめているし、未だに自分の身体の自由は利かないし、何なんだこの状況は。
「もう、良い」
向井の問いかけに、拒絶のひと言を返し――これだから、″女″は・・・・・・――二〇二号室のドアノブに、そっと手をかける理穂。それからやおら、こちらを振り返って、
「鈴谷さん」
と、向井の右側を支える人物を見やり、
「皆さんも」
と、共用廊下に集った面々にも声をかけ、
「では、始めます」
そう言って・・・・・・ガチャリと、扉を開けていく。
ひゅー。
いつも、この部屋から吹き抜けている隙間風がするりと、向井の頬を撫でていった。
扉が開いた瞬間、まるで向井が二〇二号室に来たのを歓待するかのように。
ふわり、と彼の身体を包むように、柔らかい風が吹いた。
「もう、知らないから・・・・・・」
ひゅー。
部屋の扉に手をかけたまま、理穂がぼそりと呟く。いつの間にか向井から目を背けていて、どんな表情をしているのかは分からない。ただ、その声には努めて震えを抑え込むような、抑揚のようなものがあった。
「どうなっても・・・・・・」
その言葉を聞いた、次の瞬間。
「・・・・・・っ?」
不意のこと、だった。
風の鳴り音が止み、瞬間、自分の身体に、何とも奇妙な浮遊感が生じる。
「ん・・・・・・っ!?」
次の瞬間、その奇妙な浮遊感が姿形を変え、向井の身体に凶暴な牙を剥いてくる。背中から腹を、グイと引っ張られるような感覚。
向井の身体は、扉の開かれた二〇二号室の中へと吸い込まれるように引きずり込まれていった。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
聞こえたのは、セミの鳴き声。それが、扉の閉まるバタリという音で遮られ聞こえなくなる。
そして向井の身体は、部屋の床に叩きつけられた。




