学校まるごと転移したらカレーが出来上がった
僕は学校中から嫌がらせを受けている。
学校中というのは、つまり全校生徒だ。教師達は揃いも揃って僕に対する嫌がらせを見て見ぬふり。
この学校に僕という人間は存在しない。僕はただ、あいつらを愉しませるだけの玩具でしかない。
この学校は最悪だ。ここの奴らは人間じゃない。生徒も教師もクズばかりだ。
朝八時半。僕は学校に着く。今日も最悪な一日が始まる。
と、思っていたらホームルームの時に突然大きな揺れが教室を襲った。
「皆さん、落ち着いて机の下に――キャア!」
担任の女教師が冷静に指示を出そうとした瞬間、まばゆい光が窓の外から差し込んできた。
とても目を開けていられない。
僕は手探りで机の下に潜り込んだ。
揺れは収まらない。それどころか、勢いを増している。
誰かの悲鳴が聞こえる。
僕は必死で机の足にしがみついた。
『罪人に罰を。復讐者に力を』
どこからかそんな声が聞こえた。
しばらくして揺れはおさまった。光も止んでいる。
僕は机の下から這い出て、立ち上がり、そして固まった。
誰もいない。教室はもぬけの殻となっていた。さっきまで教室にいた全員が消えてしまっている。
まだ事態を飲み込めていない僕の耳に、教室の廊下側から困惑した声が飛び込んできた。
「おい! 何だよこれ!」
それは聞き覚えのある声だった。いつも僕をパシリに使っていた谷貝のものに違いなかった。パシリに出したくせに、僕の帰りが遅いと心配して様子を見に来るような奴だ。
「え……? ウソ。あたし、何で!? どうして!?」
今度は窓際から悲鳴が上がる。玉木だ。いつも僕のことを童貞と呼び小馬鹿にしてくる白ギャル。悔しいが顔は可愛い。胸もある。たまにウインクしてブラをチラリと見せてくれる。世話になる。
「な……こんな馬鹿なっ」
鳥谷だ。こいつには二重跳びの練習に付き合わされた。
「ハハハ……ハハハ……」
力なく笑う人参の声。こいつはよく分からない。そもそも名前が意味不明だ。どこかの国から亡命してきたとの噂がある。
「私……これって……」
福漬さんが戸惑っている。この地獄のような学校の唯一の良心。僕に普通に接してくれるのは彼女だけだ。
その他にもあちこちからクラスメイトの声が聞こえるが、姿は見えない。
一体どうなってるんだ?
「み、皆さん! 落ち着いて!」
担任の素粉先生が呼びかける。偽善を装って僕を陥れる最悪の女。一昨年教師になったばかりらしい。未婚だが、いいところのお嬢様で、許嫁がいるという話を聞いたことがある。
教室が静まり返る。僕はとりあえず自分の席に座った。どういう訳かクラスメイトの姿は見えないが、そこに存在はしているらしい。
「ひィ! そ、外がっ!」
一旦静まり返った教室だったが、その静寂は一分ももたないうちに打ち破られた。
声につられて窓の外に目をやると、そこには異様な光景が広がっていた。
紫色の空に、一面の雲。しかし雲は眼下に広がっている。つまり、この三階の教室よりも下の位置に雲がある。雲に遮られ、その下の様子は見ることが出来ない。ここは空の上なのだろうか? いや、そもそもここが地球なのかも怪しい。こんな不気味な空を、僕はテレビでもインターネットでも見たことがない。
『裁きを受けよ。異世界の罪人たちよ』
突然、教室のスピーカーから音声が流れ始めた。
『貴様たちは罪無き一人を虐げ続け、己の欲望を満たしてきた。よって罰を与える。今度は貴様たちが自らの身を捧げ、その一人が生きるための糧となれ。以上だ。それから保健の谷村先生は至急職員室に――』
なるほど。僕は理解した。
どうやらこの空間は僕の復讐のために用意されたものらしい。
しかし、どうやって? それに、クラスメイトたちはどこにいる?
「な、なんだよ今の放送」
「俺たち一体どうなっちまったんだ……」
「ね、ねぇ、一人を虐げてきたって、それって……」
クラス中の視線が僕に集まるのを感じた。やはりおかしい。声は聞こえる。視線も感じる。しかし姿が見えない。
「それでハジメだけ人間の姿なのか……」
呟くような谷貝の声。
僕は注意深く教室を見回した。すると、全ての机の上に何かが置かれていることに気がついた。
僕は立ち上がり、谷貝の席に近づいた。
「な、なんだよ。こっちに来るんじゃねえよ!」
谷貝の机の上にはじゃがいもがあった。そして、そのじゃがいもから谷貝の声がしている。
僕はじゃがいもを手にとった。
「離せ! このっ!」
「……本当に谷貝なのか?」
「ああ!? なんだその口のきき方は! いつも言ってるだろうが、俺のことは親しみを込めてタクヤくんと呼べと! てめえ調子に乗ってると――」
僕は喚き散らす谷貝を机の上に置いた。うるさい。
次に玉木の席に向かう。
「やっ。え。ちょっと。何。来ないで! あたしに触らないで!」
玉木の机の上には玉ねぎがあった。そして谷貝と同じように玉ねぎから玉木の声がする。
これが玉木なのか……。
僕は玉ねぎを手にとり、いろいろな角度から観察した。
「や、やめて。み、見ないでよ! や、ヤダ! どこ覗いてんのよこの童貞! 離してっ! 触り方が童貞臭いのよ!」
「ねぎ臭い君に言われたくない」
「くっ……ハジメのくせに! それでうまいこと言ったつもり!? 全ッ然うまくないんだからっ! あたし毎週笑点見てるんだからね! 今の全ッ然うまくないわよ!」
僕は玉木を無視し、他のクラスメイトの席も見て回った。
分かったことは、僕以外の人間が全員人間ではないものの姿でそこに存在しているという事実だった。
じゃがいもになった谷貝、玉ねぎになった玉木と同じように、鳥谷は鶏肉に、そして人参は人参になっていた。
「お、おいハジメ。まさか本当に俺たちに罰を与えたりしないよな?」
鍋になった渡辺が恐る恐る僕に訊く。僕は渡辺からは直接的な嫌がらせを受けていない。でも、僕がいじられている姿を見てニヤニヤ笑っていた。他のクラスメイトも同じだ。いや、この学校の人間は全員そうだ。皆同罪だ。誰も僕を助けてくれなかった。
だから、絶対に許さない。僕は決心して言い放った。
「僕、作ります」
「ハジメくん? つ、作るって、一体何を……?」
スプーンになった素粉先生が声を震わせる。
「おいしいカレー。作ります」
教室中から悲鳴が沸き起こった。
「カレーって。そんな。そんなことしないで! ハジメくん!」
手に持った渡辺の中で、福漬さんが抗議の声をあげる。福漬さんは福神漬けになってしまった。彼女は僕に対する嫌がらせに参加していない。でも、積極的に僕を救い出そうとしてくれなかったのは事実だ。だからこんな姿にされてしまったのだと思う。
「安心して。僕は福漬さんだけは食べないから。約束するよ」
僕は福漬さんに微笑みかける。彼女だけは復讐の対象外だ。僕に普通に接してくれた唯一の人間。だから、彼女には何もしない。
「ち、違うの! そういうことじゃないの! お願いハジメくん! 復讐なんて馬鹿なことはやめて!」
「ごめんね。それは出来ないよ。せっかく与えられたチャンスなんだ。僕はやる」
「そんな……。ハジメくん、前にお料理なんて一度もしたことないって言ってたよね。カレーの作り方、分かるの……?」
分からない。僕は自分でカレーすら作ったことがない。僕は目玉焼きしか作れない。でも、僕は作る。必ずカレーを作ってみせる。この食材共で。
僕は廊下を進み、調理室にやって来た。鍵は職員室から拝借した。
まず、ガスと水道が使えるかどうかを確認する。うん。問題ない。電気が通っているから、あんまり心配していなかったけど、やっぱり少し安心した。
適当な机の上に渡辺を置く。渡辺の中にはじゃがいも、人参、玉ねぎ、鶏肉、福神漬け、そしてスプーンが入っている。他のクラスメイトや生徒、教師たちは一旦置いてきた。ちょっと面倒くさいことになっているからだ。
「よし。じゃあ、ええと、まずは調理道具を揃えなきゃ」
渡辺の中で身を寄せ合って震えている食材共を尻目に、僕は調理室の棚から必要なものを集めた。
渡辺は鍋になったけど、その他のクラスメイトは調理道具にはなっていなかった。よく分からない。どうして渡辺だけ鍋なんだ。激しく疑問だったが僕はあまり考えないことにした。今はカレーに集中したい。
包丁、まな板を取り出して机の上に持ってくる。僕が準備を進めていると、渡辺の中にいる谷貝が嘆願してきた。
「お、お願いだハジメ。やめてくれ。た、頼む! 俺たちが悪かった! この通りだ! だからカレーは! カレーだけはやめてくれ!」
「駄目だ。許さない。僕は必ずカレーを作る。絶対に作る。もう一度言おう。僕は必ずカレーを作る。甘口で作ってみせる」
「ひいいいい!」
食材共が恐怖で震え上がる。ククク。いい光景だ。
「僕は残りの食材共を集めてくる。僕が戻ってくるまで、せいぜい今までの行いを後悔していろ」
僕は渡辺から谷貝たちを取り出し、再び渡辺を抱えて調理室を後にした。
これから残りのクラスメイト、いや、学校中の生徒、そして教師たちをかき集めなければならない。ものすごく面倒だ。しかし、僕はやる。おいしいカレーを作るためなら、僕はいかなる労力もいとわない。
やっかいなことに、谷貝たち以外の人間は全員米粒になっていた。一人の人間がたったの米粒一つだ。机の上にちょこんと乗っていた。声が聞こえなければ完全に見落としてたところだ。
一粒ずつ回収していくのは面倒なことこの上ないが、カレーにご飯は必須だ。僕は根気よく各教室を回り、全ての米粒を回収した。
「……足りないな」
ぎゃあぎゃあとやかましい渡辺の中の米粒たちを見下ろしながら、僕は少し不安になった。まだ炊いていなが、明らかにお米が足りない。一合どころか、お茶碗一杯分あるのかどうかも怪しい。普段何気なく食べているお茶碗一杯分には沢山のお米が入っているのだなあ、となんとなく感心した。
しかし幸いなことにスキンヘッドの校長がナンになっていたので、お腹が満たされないことはないだろう。僕は急いで調理室に戻った。
調理室に入ると、スプーンの素粉先生が僕を説得してきた。まだ諦めていないらしい。僕はスプーンを握り先生と向かい合った。
「ハジメくん、冷静になってお話しましょう? あなたはちょっと興奮しているだけだと思うの。だからまず落ち着いてほしいの。ね?」
「嫌です。先生だって僕が何をされているのか知っていたでしょう。担任のくせに僕を助けてくれなかった先生と話すことは何もありません」
「それは……私は、その……ずっと女子校で、今まで男の人と交流がなかったから、年頃の男の子たちがどうやって遊んでいるのか分からなかったの。だから」
「関係ありません。それに嫌がらせには女子も参加していました。あなたはただ見て見ぬふりをしていただけだ。言い訳しないでください」
「……そうね。ごめんなさいハジメくん。私、教師なのに……。本当にごめんなさい」
ぐにゃ。とスプーンが前方に折れ曲がった。どうやら頭を下げたつもりらしい。しかしその行動は僕の怒りを駆り立てた。
「あっ! 何してるんですか! これじゃあカレーが食べられないじゃないかっ! あなたはいつもいつもそうやって!」
「ち、違うのっ! これはっ! 私、そんなつもりじゃ!」
「もういいです! 先生はただ自分の生徒たちが調理されていく様子を見ていてください! そしてその後にあなたはその生徒たちを僕の口まで運ぶんです! クククク。最高の苦しみを与えてあげますよ」
「ハジメくん! 待って! 話を聞いて!」
僕はスプーンを遠くに放り投げまな板を自分の前に置く。
包丁を握る。
そして固まった。
これから何をすればいいんだ?
僕がじっと動かないためか、誰も声を発しない。静かに息を呑む気配だけが伝わってくる。今この調理室の中には学校中の人間がいるはずなのに。不思議だ。
「ハジメくん……やっぱり」
福漬さんが呟くように言う。僕を怖がるような、しかしどこか安心したような声だ。
「……福漬さん。福漬さんは」
「うん。もちろん知ってるよ」
「じゃあ」
「でも、今のハジメくんには教えられない」
「ど、どうして! 福漬さんだって知っているだろう! 僕が何をされてきたのか! だったらカレーの作り方を教えてくれてもいいじゃないか!」
「ごめんね。でも、やっぱりいけないことだと思うの。それに私、ハジメくんにそんなことをしてほしくない。だから教えてあげることは……その」
「……そうか。そうだよね。分かった。誰かを頼ろうとした僕が馬鹿だったよ」
「そ、それはっ! それは違うよ、ハジメくん! そうじゃないの! 私はっ!」
僕は机の上に転がるじゃがいもを手にとる。声にならない声をあげるじゃがいも。
僕はじゃがいもをまな板の上に置き、問答無用で両断した。
「ぎゃあああああああ!」
「あぁっ! そんな! 皮も剥かずにっ!」
部屋中にじゃがいもの悲鳴が轟く。それをきっかけに、今まで黙っていた食材共が一斉に騒ぎ始めた。渡辺の中から僕に罵詈雑言が浴びせられる。
「うるさい! 黙れ! このっ!」
僕は渡辺から釜に米粒を移し、適当に水を流し込むと、それを炊飯器に入れて蓋をした。
ピッ。
これで米が炊ける。炊飯器からの悲鳴と罵声は鳴り止まないが、全て無視だ。米粒なんかに構ってられるか。
僕はついでにナンもトースターの中に閉じ込めた。これで邪魔者はいなくなった。
包丁を握り直し、再びじゃがいもと向き合う。そうだ。確か、じゃがいもは芽を取り除かないと駄目だった気がする。
二つに割れたじゃがいもの片方を手に取り、包丁の切っ先を向ける。
「な、なにすんだ。やめろ! やめてくれえ! ――あぎゃあああああああ!」
包丁の先端でじゃがいもの芽をぐりぐりとほじくり返す。
「ハジメくん! そんな方法、危ないわ! 今すぐやめて!」
福漬さんが叫ぶ。
やり方が違うことは自分でも何となく分かっている。でも仕方がない。誰も教えてくれないんだ。だったら自分でやるしかないじゃないか。
芽を全て取り除いた後、僕はじゃがいもを洗った。傷が染みるのか、じゃがいもはうめき声を上げている。
さて、そうだな。考えてみれば福漬さんの言う通り、食材の皮は切る前に剥いた方がいい気がする。よし、じゃあ、まずはこいつらの皮を剥いていくことにしよう。
僕は皮剥き器を棚から持ってきて、じゃがいもの皮を剥いていった。しゅっ。しゅっ。しゅっ。黙々と手を動かす。ちょっと楽しい。僕はこういう単純作業が好きだ。
「うぅ、やめろぉ。やめてくれぇ」
じゃがいもは僕の手の中でなすがままだ。ククク。いい気味だ。
じゃがいもを剥き終わり、次に玉ねぎに手を伸ばす。
ヒィッ! と小さく悲鳴をあげる玉ねぎ。
僕はじゃがいもと同じように皮むき器を玉ねぎにあてた。すると、玉ねぎが慌てた様子で言ってきた。
「ち、違うでしょ! 玉ねぎは手で剥くんだよ! あたしママが料理してるとこ見たことあるから! だから、だから刃はやめてえっ!」
そうか。玉ねぎは手で剥くのか。
僕は皮剥き器を置き、手で玉ねぎを剥いていった。
ペリリリリ、と外側の茶色い皮を剥ぐと、真っ白な地肌が顔を出した。
「い、いやあ」
恥ずかしそうに声を出す玉ねぎ。そういえば、この玉ねぎは元は玉木だった。巨乳の白ギャル。顔も可愛い。たまにウインクしてブラをチラリと見せてれる。世話になる。
その玉木を僕は今ひん剥いている。そう考えると、僕の中に、復讐心とは違う熱の塊が湧き上がってくるのを感じた。
僕は更に玉ねぎの皮を剥いていった。
「ち、ちょっと! どこまで! やめっ!」
クククク。いいぞ。その慌てよう。もっと。もっとだ。さあ僕をもっと愉しませろ!
「どうだ。いつも馬鹿にしている僕に丸裸にされていく気分は」
「くっ! このっ! ちょーしに乗んな! 童貞のくせにっ! ……あっ。 だ、だめ! それ以上は! あぁっ! いやああああっ!」
僕は我を忘れて皮剥きに没頭した。結果的に玉ねぎの全ての皮を手で剥いた。まな板の上はとっ散らかった玉ねぎの皮と汁でぐちゃぐちゃになった。
「うぅ……酷い、酷いよ。あたし、初めてだったのに……」
玉ねぎは泣いていた。そして僕も泣いていた。もう涙が止まらなかった。目がしみてしみて仕方なかった。
水道で目を洗っていると、まだ鍋に火をかけていないことに気がついた。カレーは液体だ。たぶん、食材を煮込んで火を通さなけばならないだろう。早めに水を沸騰させておいた方がいい。
「ハジメくん」
渡辺に水を入れてコンロに乗せていると、福漬さんが僕の名前を呼んだ。普段の彼女からはとても想像出来ないような、冷たい声だった。
「私、ハジメくんのこと見損なったよ。いくら嫌がらせを受けていたからって、女の子にあんなことをするなんて。私、ハジメくんのことを軽蔑する」
福漬さんが淡々と言い放つ。僕は彼女の言葉に激しく動揺し、そしてそれ以上に苛ついた。僕は感情を爆発させて言い返した。
「どうしてさ! 僕はずっとやられっぱなしだったんだ! やり返して何が悪いんだ!」
「反撃出来ない相手に一方的にやり返すなんて、そんなのただの弱虫よ! 嫌がらせどころかいじめじゃない! 最低よ!」
「くっ……! か、勝手なことばかり言いやがって! 君は周りの人間が全員敵になったことがないからそんなことが言えるんだ! 僕は悪くない! 僕は絶対に悪くないっ!」
「最低!」
「うるさい!」
僕は鶏肉を掴みまな板の上に乱暴に乗せる。こいつは鳥谷だ。鳥谷には二重跳びの練習に付き合わされた。こいつにもやり返してやる!
「や、やめてくれハジメ。俺がどうかしてた。二重跳びくらい一人で練習すればよかったんだ。ただ、その、恥ずかしくて……。こ、今度は俺がお前の頼みに付き合うからよ! だから! な?」
「……知っているか、鳥谷」
「な、何をだ?」
「肉ってな、食う前に叩くと美味くなるらしいぜ」
僕はポケットから縄跳びを取り出した。鳥谷の縄跳びだ。米粒を回収する時教室から持ってきていた。
「ひいいい! やめてくれええ!」
僕はまな板を床に置き、縄跳びをムチのようにしならせ鶏肉をびしばし叩いた。
「このっ! このっ! 柔らかくなれ! 柔らかくなれ!」
ピシィン! ピシィィン! 鶏肉をしばく。縄跳びが当たるたびに鶏肉は悲鳴をあげる。
「ウゥッ! ウウゥッ! やめて! やめてくれハジメ! 俺が悪かったァ! アァッ! アアアァッ!」
「た、食べ物になんてことを……。人間のすることじゃないわ! 外道よっ! 鬼っ! 悪魔っ!」
「うるさいっ! 女は黙ってろ! 男のカレーに口を出すな!」
まな板を机の上に戻し、鶏肉を包丁でぶつ切りにしていく。くそっ! くそくそくそっ! なかなか切れない!
コンロの上の渡辺に火をかける。そういえばこいつはあまり喋らない。でもそんなことはどうでもいい。
じゃがいも、玉ねぎ、鶏肉を渡辺の中にどぼどぼ入れる。人参も皮を剥いて適当な大きさに切って入れる。全部煮る。
「あぁっ! もう無茶苦茶よ!」
福漬さんが喚くが無視だ。ぐだぐだ文句ばかり言って僕に一つもカレーの作り方を教えてくれない。最低の女だ。幻滅した。こんな人だとは思わなかった。
しばらくすると渡辺の中がぐつぐつ沸騰し出した。熱湯に晒された食材共がぎゃあぎゃあ助けを求めてくる。クククク。いいぞ。苦しめ。もっと苦しめ……。
やがて悲鳴がやんだ。渡辺に蓋をして近くの椅子に座る。部屋の中を静寂が包み込む。僕も福漬さんも一言も喋らない。
僕はたまにアクを取り除きながらその時を待つ。まだか。まだなのか。たまに渡辺から掬い上げた人参を齧る。半生だ。まだ火は十分に通っていない。
「……ハジメくん、残念だけど、カレーは完成しそうにないわね」
しばらくすると、福漬さんが皮肉な口調で切り出した。その声色はどこか勝ち誇っているようにも聞こえる。彼女の言葉を黙って聞き流す僕に福漬さんは続ける。
「なかったんでしょ? カレー粉。ここにないものね。どんなに材料が揃っていたとしても、料理初心者のハジメくんにはカレー粉がないとカレーを完成させることは不可能よ。ハジメくんは復讐を成し遂げられない。食材を切って煮て、それで終わり。中途半端ね。低俗な人間の最後なんてこんなものよ」
福漬さんの高笑いが耳に障る。不愉快だ。僕は苛立ちを抑えながら静かに口を開いた。
「最初に教室が光に包まれた時、声が聞こえただろ」
「……声?」
「こっちに来てから、スピーカーから聞こえてきたのと同じ声だ。その声が何て言っていたのか、君は覚えているか?」
福漬さんは黙り込む。思い出そうとしているよりは、僕が何のことを言っているのか分からないという沈黙だ。
僕は続ける。
「その声はこう言った。『罪人に罰を。復讐者に力を』。これの意味することが、君に分かるか」
「……そんな声、聞こえなかった。負け惜しみね。見苦しいわよ」
「君の言う通り、カレー粉はどこにもなかった。でも僕はカレーを作ることが出来る。何故なら、僕はこちらの世界に来て、ある力を手に入れたからだ。――それが、これだっ!」
僕は右手を一度ぎゅっと握りしめ、そして開いた。手のひらに紫色の魔法陣が浮かび上がり、光を放つ。
「きゃあ! 何! 何なの!」
光が収まり、魔法陣が消えた手のひらを僕は福漬さんの目の前に持っていった。
「……なっ! 何で!? どうして!?」
僕の手の中を見た福漬さんは激しく狼狽する。
「これが僕の能力『無限甘口地獄』だ」
僕の手のひらには、甘口のカレー粉が出現していた。
今の僕は甘口味のカレー粉なら無限に出すことが出来る。だから、カレー粉なんて最初から必要ないんだ。
「そ、そんな……っ」
信じられないといった声を上げる福漬さんを無視して、僕はカレー粉をどぼどぼ渡辺の中に入れた。うん。いい匂いだ。
そのまま渡辺をかき混ぜているうちに、炊飯器がピーピー鳴る。米が炊けた。僕はトースターでナンを焼き始める。
カレーにとろみが出てきたところでコンロの火をとめた。ご飯を皿に盛り、カレーをかける。
部屋の隅に転がっていたスプーン拾いあげる。折れ曲がったところを力技で元通りに直し、水道で洗う。
「先生、出番ですよ」
「……ハジメくん」
「安心してください。噛んだりしませんから。ただ、かなり舐めます」
「うぅ……私、生徒とそんなこと。私は教師なのに……」
クククク。罪悪感と背徳感の波に溺れるがいい。料理出来ない分、その心をねぶり続けてやる。
僕は福神漬けに手を伸ばした。僕に触れられた福漬さんが悲鳴をあげる。
「わ、私は食べないんじゃなかったの!」
「気が変わった。僕は君も食べる」
「自分で約束したことも守らないなんて! 最低! このクズ! 地獄に落ちろっ!」
喚き散らす福漬さんを皿の隅に盛る。
これで、ついに、カレーの完成だ!
「いただきます」
スプーンでカレーを掬い、口に運ぶ。
……うん。問題なく食べられる。味も普通のカレーだ。
「んむぅ。いやぁ。気持ちわるぃ」
スプーンから愉快な悲鳴が聞こえてくるが、僕は黙々とカレーを食べた。
時おり福漬さんもカリコリ食べる。味のアクセントだ。おいしい。彼女は最後まで僕を罵倒していた。だけど、食べ進めるうちにその声はしなくなった。
ご飯がなくなった後は焼きあがったナンでカレーをいただく。ナンもうまい。カレーはどんどん減っていく。
僕はあっという間にカレーを全て平らげた。残されたのはカレーまみれの皿と、スプーンと、渡辺だけだ。
「先生、意識はありますか」
僕は散々舐め回したスプーンに話しかけてみた。途中から先生の声はぱたりとやんだ。たぶん、気を失っているのだと思う。
渡辺は相変わらず黙っている。こいつはすでに鍋に徹している。見上げた根性だ。感心する。
僕はしばらくじっと座っていた。カレーを食べ、復讐を成し遂げた。僕は今心も体も満たされている……。
『異世界の復讐者よ』
前触れなく室内のスピーカーから声がかかる。僕は安堵した。正直なところ、これからどうなるのか少し不安だった。こいつに頼んで、元の世界にさっさと帰してもらおう。
『貴様は復讐を成した。後悔はしているか』
「……後悔? 後悔なんてしない。……ただ」
心は晴れた。腹も膨れた。僕は満たさている。
……でも、復讐はカレーしか生まない。その事実が、ただ途方もなく虚しかった。
『……そうか。それが分かれば十分だ。では復讐者よ、復讐の報いを受けよ』
「なっ! 報いだと!? どういうことだよ!」
『それが世の理だ。さらばだ。甘口の王よ』
「おい! 待て! ふざけるなっ! ――うッ。なんだ。腹が急に……っ! ううううううううっ! ヤバい、この痛みは……!」
下痢だ。
僕は思わずその場にうずくまった。だ、駄目だ! 動けない! た、頼むっ! 収まってくれ! 少しだけでいいんだ! 神様! うううううっ! ……あっ。あああああああああああああっ!
僕は意識を失った。
――おい。おいハジメ。起きろ。
誰かが僕の名前を呼んでいる。誰かが僕の体を揺さぶっている。
「ハジメ、起きろ」
目を開ける。見慣れた顔が映る。谷貝が僕の顔を覗き込んでいる。
「あービビった。死んでるのかと思った。童貞のまま死ななくてよかったね。あたしらに感謝してよね」
……これは、玉木の声か? 僕は体を起こし、辺りを見回した。
僕の近くには、谷貝、玉木、鳥谷、人参、それから福漬さんがいた。皆不安げな表情で僕を見つめている。
「……ここは? それに、どうして皆が」
「飲み物を買いに行ったお前がいつまで経っても戻って来ないからよ、教室に残ってた奴らで、お前を探してたんだ。お前こそ、どうして調理室なんかで倒れてたんだよ。滑って転んだのか?」
調理室? ……そうだ。思い出した。僕はこいつらに復讐して、それでカレーを……なのに、どうしてこいつら。
「ハァー。役に立たねえパシリだなぁ。ほら、手貸せ、起こしてやるからよ。一応後で病院行っとけよ。これからもパシって貰わねえと、俺が困るからな」
谷貝が僕に手を差し伸べる。僕はその手を取り、立ち上がると、至近距離から思い切り谷貝の腹を殴りつけた。不意打ちを食らい、前屈みになった谷貝の顔にもう一発叩き込む。
谷貝は後方に倒れ、鼻面を手で抑えながら僕を睨みつけた。
「な! 何しやがる!」
「谷貝、僕は今日限りでお前のパシリをやめる。今までの金は返さなくていい。その代わり、黙って僕に殴られろ」
それを聞いて、僕の隣に立っていた玉木がフンと鼻を鳴らした。
「童貞のくせに生意気じゃん。せっかくあたしらが見つけてあげたのに、感謝の仕方がそれ? ちょーしに乗んなっての。どうせボコられるくせに」
「黙ってろ処女の笑点マニアが。またひん剥いてひぐっひぐの汁まみれにするぞ」
はあ? という顔をする玉木を無視して、僕は鳥谷の方を向く。
「それから鳥谷、これからは一人で練習しろ」
「そ、そんなあ」
「てめえ! よくもやってくれたな! 覚悟は出来てんだろうなァッ!」
激高した谷貝が立ち上がる。僕は拳を握りしめた。もうカレー粉は出ない。谷貝は無力なじゃがいもではない。
「やめて二人共! 喧嘩なんて駄目だよ!」
福漬さんが僕と谷貝の間に割って入る。邪魔だ。福漬さんは邪魔。
僕は福漬さんを押しのけ、怒鳴る。
「うるさい! 女はすっこんでろっ! 男の喧嘩に口を出すな!」
僕は谷貝に殴り掛かった。谷貝も僕に掴み掛かってくる。
椅子が倒れ、人参が盾にされ、注意を引きたい福漬さんが鍋をカンカン鳴らしてやかましい。僕と谷貝の体格差は大きい。でも僕は絶対に引かなかった。何度も谷貝に飛び掛り、とりつき、噛みついて爪を食い込ませ髪を引っ張った。騒ぎを聞きつけた教師が現れるまで僕と谷貝の喧嘩は続いた。
それから僕は闘った。顔を合わせる度に谷貝と殴り合い、玉木とは罵り合った。僕と谷貝は何度か停学になった。それでも毎日鳥谷の練習に付き合った。人参は国へ帰った。福漬さんの僕に対する態度はどんどん悪くなっていった。素粉先生はあの後すぐに結婚した。
僕は荒れたが、そのおかげか、あからさまに僕に突っかかってくる奴は谷貝以外にいなくなった。そしていろいろなものを剥き合った結果、玉木は僕の彼女になった。僕はもう童貞ではない。世話になる。
「鳥谷、もう諦めよう」
放課後、学校の中庭で僕はため息を吐いた。あの奇妙な出来事から十ヶ月経ったが、今だに鳥谷は二重跳びが出来ない。
「そんな……。俺は……」
「二重跳びが出来なくたって、生きていけるさ」
「それはそうだけど……」
「……まあ、今日はもう切り上げよう。これから用事もあるし。明日からまた頑張ればいい」
「じゃあ、明日も付き合ってくれるのか!?」
「ああ」
「ありがとうハジメ!」
鳥谷が跳びあがる。縄跳びをビュンビュン回す。やかましい。
「おーい! ハジメー!」
取りあげた縄跳びで鳥谷の足元をびしばし叩いていると、渡辺が鍋を抱えて駆けてきた。その後ろには僕の彼女のカオリもいる。
「材料買ってきたぜ。こんなもんでいいかな?」
渡辺は鍋の中を僕に見せる。
「うん、十分じゃないか。それより、肝心なのはルーだ」
「ああ、でも、本当によかったのか?」
「いい。今日はそういう日だしな」
今夜は和解のカレーパーティーを開くことになっている。相手はもちろん谷貝だ。ついでに福漬さんも呼んだ。人参は来ない。先生はたぶん旦那にねぶられる。
このまま争いを続けると僕と谷貝は退学になる。そう警告を食らった。退学は避けたい。だからお互いに渋々だ。和解といっても停戦協定みたいなものだと思っている。何故カレーパーティーをしなくてはならないのか分からないが、カオリや鳥谷たちが裏でいろいろ手を回してくれた結果そうまとまったみたいだ。
パーティーは谷貝の家で行われる。食材や費用はこっち、場所は向こうが用意する。残りの福漬さんが合流次第、谷貝の家に向かう。何だか久しぶりに谷貝にパシられているような気がしないでもない。
「ハジメが甘口以外を食べるなんて、初めてじゃない? 甘口王だもんねー?」
カオリが茶化すように言う。
「今までだって食べようと思えば食べられたよ。ただ、その必要がなかったから食べなかっただけだ」
「ホントかなぁ?」
「本当だ」
「フーン。ま、信じてあげる」
微笑んだカオリがウインクをくれる。
中辛の日。今晩作られるカレーが、復讐以外のものから生まれるということが少し嬉しい。
「調理は僕に任せてくれ。完璧なカレーを作ってみせる」
「あー駄目駄目。ハジメは目玉焼き以外作れないんだから。あたしと福漬ちゃんで作るから、男共は大喜利でもしてて」
それからまた少しして福漬さんがやって来る。
「それじゃあ行こうか」
僕は念のためポケットに鳥谷の縄跳びを忍ばせる。
学校を出て住宅街を歩いていると、あちこちからおいしそうな匂いが漂ってくる。
焼き魚。
煮物。
みそ汁。
ハンバーグ。
ペペロンチーノ。
それから――
ああ。あの家今日はカレーだなあ。