プロローグ「邪神」
Nitoさんによるヒロイン・アルジャッヘ 無断掲載を禁ずる
まどろみから目覚めたとき、それの躰は、すでに二〇万体分の死骸を資源化することに成功していた。
多くの同胞、侵略体の中でも有数の武闘派であるそれにとって、多種多様な身体特性を持つ敵の肉体は豊富な資源であった。
優しい桃色の有機体に包まれ、腐敗を待つはずの死骸――原住民、エルフ、オークの死体だ――は侵略体の一部となる。
集音器官が捉えたのは、敵の接近を知らせる兆候。接地面の振動探査器官より数を推定――歩兵戦力一二万体、重度の魔術的加護を含む。
五〇対一〇〇個の視覚器官が、粘液の涙を分泌しながらぱっちりと見開かれる。
晴れ渡った空は青い。侵略体の主が語る故郷と同じ色。
その合間に、樹木のごとく林立する生態建材の群れは、屹立する男性器のようにも見えた。
直径一〇メートル、高さ二〇〇メートルにまで成長した有機体の森である。途方もない巨体の持ち主である侵略体も、この肉の樹海なら遮蔽物を得られる。
山々に囲まれたすり鉢状の地形、つまり盆地に根を張ったのはより深い地層に根を張るためだった――この一帯の上空を通らぬ限り、環境改造が敵に知れることはない。
平時の浸透には最適だが、戦闘には不向きな地形である。高所からいくらでもこちらの状態がわかる。砲撃手段があれば撃ち放題であろう。
尤もこの盆地の平地部分は、すでに支配し終えているし、前回の敵もすべて養分に出来た。
しかし今度の敵は手強いようである。
領土を蹂躙し、焼き払いながらこちらへ迫る影。
侵略体が侵攻中の領域、その現住生物たち。征服者に抗おうとする人型の生き物たちが、一二万の軍団となって攻め寄せていた。
眠りから覚めたばかりのそれにとって、地表部分の保護と戦闘の手間は、秤にかけるほどのものでもなかった。地下への浸透が終わっている以上、樹海はすぐ再生できる。
それよりも、敵の肉薄の方が危険だ。
兵装使用を許可。発電器官の生み出す電力を元手に、破滅的熱量を生み出す。
第一種環境焼却機能プラズマブレス。その放出の瞬間、おぞましい熱に晒された大気は膨張、雷鳴のごとき轟音を轟かせた。
魔術的制御によって、焔の吐息は最悪の光景をもたらした。
一〇〇万度のプラズマ流は有機体の木立をなぎ払い、肉の樹海へ分け入った軍勢を直撃。
それの放った一撃で、三〇〇〇人以上が蒸発し、二七〇〇〇人以上が消し炭となり、七〇〇〇〇人以上が重度の火傷を負って悲鳴をあげた。
間髪入れず第二射――回復魔術の使用を待たず、一〇万人を超える兵士が消し飛んだ。
大半の敵を焼き殺したものの、散開していた残り二万はそう楽ではなかった。すっかり見晴らしのよくなった焦土、加熱された大気、上昇気流によって巻き上げられる灰の山。
この地の自然環境の基準で言うなら、灼熱地獄といって差し支えあるまい。だが、残り二万の敵はそれに対応していた。
目視可能な距離に、敵の一群が躍り出てきた。賢明な判断である。肉の樹海は、それ自体が防衛機構として働くからだ。
この働き、触手による奇襲で二〇〇〇体、オーク兵が死んだ。
残り一万八〇〇〇体――殺傷力に満ちた樹海の攻撃を躱し、弾き、切り払う戦士の群れ。
耐熱防弾の甲冑で全身を覆い、呼吸器すらマスク上の装身具で防護した兵士たちが、時速四〇キロの速度でこちらの現在位置へ突っ込んでくる。
オークの装甲突撃軍団――精鋭中の精鋭だ。三二年前、それと同型の侵略体を中破状態へ追い込んだこともある。
――強敵と認識すべきだ。
よかろう、と侵略体は重い腰を上げた。
二〇本の主脚部がその巨体を地面から持ち上げ、四万本の多目的マニピュレータがわさわさと蠕動して不吉な風音を鳴らす。
こんもりと膨らんだ、入道雲めいた巨体の表面。そこから体毛のごとくみっしりと生えた、触手の群れである。
マニピュレータの対物攻撃形態を使用する。
徹甲針投射器の起動。その数、三〇門。
迫り出したのは、スズメバチの腹を思わせる滑らかな流線型。その先端、長さ七〇センチの超強化弾体は鉄串に似ていた。
音の速さの一〇倍で針が撃ち出される――侵略体内部に刻まれた自動儀式回路、エルフの疑似神経を剥ぎ取った魔術器官が唸りを上げる。
死体の山から質量を奪い取り、六万倍の複製体を生成。
魔術的行程を経た現象複写――針一本分の運動エネルギーが、一八〇万の複製体にも付与され、地上へ向けて豪雨のごとく降り注いだ。
凄まじい速度の針は、断熱圧縮によって空気をプラズマ化させ、白熱する炎の矢と化している。
破壊、死、冒涜、絶望。
祈りにも似た、屍山血河の厳かさ。
一万八〇〇〇弱の兵士が、構えていた合金の盾ごと串刺しになって倒れていく。オーク一体あたり、針が一〇〇本刺さる計算なのだ。
あとに残るのは、串刺しと言うよりも挽肉。
脳や内臓、筋肉や骨格の断片を体液と一緒に土へぶちまけ、原型のわからない肉塊がごろごろと地面へ横たわる。
だが、それでも生き残りはいた。侵略体の想定外、土着の魔術を用いた防御手段のせいである。
「……【恐怖の感情】!」
「【侮蔑と憎悪の表現】!」
数十人の生き残り。計算外の生存者、こちらに肉薄する歩兵の群れ。
侵略体は、残敵相当のためさらなる攻勢に移った――どこか楽しげに。
彼らは戦っていた。
祖父の祖父の代から、空の彼方より現れた狂気と冒涜の尖兵と戦っていた。
父は戦って死んだ。兄は戦って死んだ。母は我が子のため囮となって死んだ。
ならば、俺はこいつを殺そう。
我が誇りにかけて、散っていた幾千万の同胞のために死のう。
串刺しになった戦友たち、その重さに紛れながら敵を見る。二対四本の角、数知れぬ触手をうごめかせる、山羊に似た化け物がそこにいた。
城塞に匹敵するほどの巨体、比類なき邪悪な生態、吐息すらも命奪うため存在する殺戮の化身。
こやつを、この邪悪を、ここで仕留めねばなるまい。オークの勇者が、何層にも重なった仲間の死骸から躍り出る。
敵の反応。
邪神の触手から針の雨、第二射。
竜殺しの大太刀をすっぱ抜き、一閃した。理屈と道理をねじ曲げ、音の速さを凌ぐ殺意と衝撃波が防がれる。
ミスリル銀の煌めきが、勇者の命を救っていた。おそらくはエルフの中でも上級氏族のものしか持たぬ加護の一品。それを託された重みに心が震える。
種族協調。
邪神との戦争以前、相争うものたちには想像も付かなかった共同戦線である。しかしエルフの鍛えた鎧と言えど、この邪神の前では紙切れ同然だった。
元より無謀は承知、まして我らは時間稼ぎの捨て駒に過ぎぬ――それでも意地は見せねばなるまい、と勇者は唸る。
「【戦意の咆哮】!」
続く第三射も凌げた。後ろで仲間が倒れる音。
第四射、第五射、第六射。すべてを切り払い、その度に減っていく戦友の断末魔を耳にする。
ああ、貴様だけは殺す。
突進する。仲間の命で稼いだ一〇〇〇歩、エルフの加護で稼いだ距離一〇〇歩、徒のまま迫った距離としては上出来だった。
そうだ。俺に気を取られろ。そのほんのわずかな時間が貴様を滅ぼす!
ふいと気付けば、頭上に影。
思わず見上げる。まだまだ距離はあった。そのはずだった。邪神が、何本あるかもわからぬ足の一本を伸ばしていた。
まるで、大神を祭る大神殿の柱だった。オークの勇者が最後に見たものは、おのれの頭上を覆い尽くす巨獣の蹄。
痛みなき死の形――蛮勇の輩、オークすら恐れる虚無だ。
分子結合を破壊する超振動に触れた瞬間、その体組織すべてが塵となって霧散した。
最後の一人を踏み潰し終えたとき、侵略体はとある異常に気付いた。
雨雲。
先ほどまで快晴だったというのに、天候の変化が早すぎた。
残念ながらそれには、気象を探知するための機能はない。遠方の仲間と無線接続できればいいのだが、敵の魔術行使によって磁場が乱れ、長距離通信はあてに出来ない状況だった。
魔術的欺瞞に、それの感覚器が騙されていた。先ほどまで加えられていた地上軍からの魔術攻撃によって、目と耳が馬鹿になっていたせいである。
空気中の原子そのものに対する魔術干渉の見えざる糸――水滴が、大量の気化燃料へ変質していく。最も原始的な嗅覚によって攻撃に気付いたときには、すべてが手遅れだった。
盆地全体を包むように気化燃料が充満し、地表で燃えさかる炎に引火。
爆発。
ドーム状に広がった気化燃料は、即座に火炎と爆圧の檻となって侵略体を焼き焦がす。空気と気化燃料が混淆し、爆発的に燃焼する過程で生まれた圧力だ。
火炎の温度以上に破壊的なのは、この圧力と衝撃波である。生態建材の樹海が、爆風に屈してへし折れ、業火に包まれ倒れていく。
一二万の軍勢の死骸は残らず焼き尽くされ、跡形もなく吹き飛んだ。盆地の中央に座していた侵略体にとっても、その破壊力は無視できるものではない。
四万本の多目的マニピュレータが焼けただれ、軋みをあげながら千切れ飛ぶ。いくつもの感覚器が潰れ、循環液を蒸発させながら焼けただれた傷口に変わった。
恐ろしい【痛み】の連続だった。
蓄積されたダメージを伝える光速神経の信号が、身体構造の隅々にまで行き渡った。
手足の末端はおろか、本体の表皮にまで損傷はおよび、大半の体組織が使い物にならなくなった。
爆発が収まったとき、侵略体の周囲の景色は一変していた。残った眼で目視する。濃密な樹海は燃えかすの骨組みへ変わり果て、炭化した有機体と灰とガラスが転がるクレーターだけが残されていた。
もうもうと上がる爆煙は、おそらくキノコ雲の形をしているはずだった。破滅的な上昇気流に晒され、鈍りきった身体感覚に、躰のすべてを作り直す必要を知った。
代謝促進を最優先――地下に貯蔵した有機体からの収奪のため、巨体をどうっと横たえる。
思考する。
推測する。
分析する。
敵の攻撃を。
それの感覚器の索敵範囲外、おそらく八〇〇キロメートル以上先からの魔法的攻撃。敵の手並みは鮮やかだった。
天候操作によって生まれた雨雲の一粒一粒に対し、魔術的操作を加え、まったく組成の異なる化学物質へ置換してみせたのである。
複数の魔術を並立させ、相互干渉が起きない精密さで行使する。それがどれだけ高度な戦闘技術なのか、人為的戦闘兵器であるそれには、よく理解できた。
素晴らしい。
初めて、初めてだった。【面白い】と思った。
生まれた来たことに感謝してしまった。
雷鳴のような咆哮。
「――――ひぃいいいいいいいいやぁあああああぃぃぃいいひぃいいいおおおおおおおおぉぉおやぁああああうううううううううううぅぅ!!!」
ぶるぶると黒い体毛を揺さぶり、急ごしらえの発声器官が大気と分泌液の混淆物をまき散らす。
大気を振るわせる音の連なりは、初めてそれが発した感情表現だった。現住生物より摂取した心理エミュレータに基づく、コミュニケーションと言えるかもしれないもの。
歓喜に満ちた哄笑が、高さ一〇〇メートルにも及ぶ巨体から発せられたのである。
この敵は面白い。創意工夫に満ちている。
四六五億光年を超えよ、我がよろこび。
……………それは記録、記憶、追憶、回想。
膨大な量の殺意と死骸と叡智と鉄量に彩られた、古く愚かな物語である。
最早、記憶するものすら疎らな神話の時代、使命ありし日の栄光に過ぎない。
ゆえに断言しよう。
これより先には、恋情の物語しかないのだ。