自転車デート
もうあの頃のようには若くない。
高校生カップルが自転車に二人乗りをしてデートをしている様子を、車の運転席から眺めながら思った。信号待ちの交差点付近、彼らは何を話題にしているのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、カップルを眺めていると、交差点の交番付近で二人乗りを注意されたのだろう、警察官と話をしている彼氏の後ろで、彼女が自転車から降りた。信号が青になり、車を発進させなければならなくなったから、そのあとの様子は分からなかったが、二人を羨ましく思う自分が確かにいた。
家に帰りつき、小さい声でただいまと呟く。旦那はまだ帰ってきていない。
今の生活に何の不満もなかった。旦那は真面目で、仕事から真っ直ぐ家に帰ってくる。週のうち三日だけお酒を飲んで、二週間に一回は必ずわたしを抱く。好きなものを買うことに多少の遠慮はあるものの、寛大な旦那で習い事も買い物も比較的自由にさせてくれた。
これ以上の相手はわたしにはいない。
そう思う反面、酷く退屈だった。刺激的なことなど何一つわたしの日常にはなかった。子供でもできれば違うのかもしれないが、まだお互いに子供を望んではいなかった。
わたしはベッドに横になり、ぼんやりと天井を見上げた。
何もかもが刺激的だったあの頃。高校から大学にかけてのわたしは人生で一番輝いていた。高校時代は背伸びして車もちの彼氏じゃないと嫌だとか息巻いていた。そのせいでわたしはいわゆる制服デートや、自転車デートをしたことがない。車もちの彼氏をみんなに見せびらかすように、学校まで車で迎えに来てもらうようお願いしたこともあった。
大学時代には多くはないけれど気の許せる友人たちと朝までばか騒ぎをした。合コンにも積極的に参加して、携帯のアドレス帳はどんどん埋まっていった。名前しか知らない人と一夜を共にすることもあった。
決して特別ではない、けれど、退屈したことなどなかった。そんなことはあくまでも過去の話で、この安定した生活を望んだのは紛れもなく自分だというのに。後悔と呼ぶにはあまりに静かな、それでいてはっきりとしたしこりのようなもの。
「恵美、変わらないねー」
同窓会なんか来るんじゃなかった、と周りに悟られないように小さく溜め息をついた。変わらないね、という言葉があまりにもちぐはぐで。
わたしは変わった。安穏とした暮らしに身をおいたことで、容姿も随分変わってしまっていたのに、久しぶりに会った同級生たちはそんな言葉をただ繰り返していた。
高校を卒業して早何年経ったか。考えたくもない。若作りした同級生たちも随分と変わった。派手になった人もいれば、所帯染みた匂いがぷんぷんする人もいる。どちらにしろ変わってしまった。あの甘い刺激的な日々は帰ってこない。
あのいつの日か見た高校生カップルを羨んでここに来てみたものの、今となってはただのおじさんとおばさんの集まりだ。誰も自転車デートなんかしない。
「おー、久しぶり」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには時を止めたような顔があった。当時から大人びていて人気のあった彼は、あの頃より少しは大人になったものの、本当に変わらない、あの頃のままだ。
「前田くん、」
わたしが驚きながら名前を呼ぶと、彼ははにかんで、飲めよ、とわたしの持っていた空のグラスにワインを注いでくれた。高校時代、わたしは彼に告白されたことがある。と言っても、車もちの彼氏を所望していたわたしはあっさりと彼を振ってしまったのだけど。それが後悔に変わったときにはもう彼にはかわいい彼女がいた。
わたしの持っているグラスに、彼のグラスがあたる。乾杯、と控えめな声で彼は言った。グラスの重なる音がとても小気味良く聞こえた。
「恵美、老けたな」
からかうように悪戯っぽく笑った。普段大人びた彼のたまに見せるこの表情がわたしは好きだった。うるさい、とわたしは笑って、赤ワインを飲んだ。
何だか不思議な気分だった。あの頃の面影がこんなに残ったままで、こんな風にお酒を飲んでいる自分達が不思議に思えた。
「前田くんは変わらないね、」
わたしの言葉に、まあねと得意気に彼は笑った。結婚してねーもん、と言う言葉と共に、彼は赤ワインを飲み干した。
結婚したら変わるもの?そう聞こうとしてやめた。彼にそういう話を持ち出すのは何だか野暮な気がした。わたしが次の言葉を探している間に、彼は違う友人と話始めた。そっとその場を離れ、わたしは今の自分を思った。
変わっていく自分、その反面変わっていない自分。わたしという人格は誰が作ったのだろう、この人格が夢のようなものだったら?それを誰が否定できるというのだろう。馬鹿馬鹿しくなって、わたしはグラスの中の赤ワインを一気に飲み干した。
風に当たりたくて窓際に立った。夏の匂いがわたしの鼻をくすぐった。真夏だというのに、今日はやけに涼しい。そういえば、今年は冷夏になるってニュースで言っていたような気がする。
わたしは、あの高校生カップルたちを思い出していた。不思議とあの頃に戻りたいとは思わなくなっていた。今の旦那と自転車デートをしてもきっと楽しくなんかないだろう。今には今の楽しみがある。あの頃はただ酷く懐かしく、そして激しく美しい日々だったと思えた。
夏の夜風がわたしの頬を撫でていた。今の自分を受け入れてくれるように、優しく。
駄文失礼致しました。
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