第三話 初めての召喚術
部屋の掃除を始めてから、早数時間。日はもうすっかり傾きかけているが、部屋はまだ半分ほどしか綺麗になっていなかった。なにぶん、荷物が多過ぎるのだ。六畳一間のワンルームに対して、大きめの物置が一杯になるぐらいの量の物が詰め込まれている。旅人だと言うのに、何故これほど荷物が多いのか。きっとこの村に来てから、いろいろ服などを買い込んでいるに違いない。
「仕方ない、今日は切り上げ!」
俺は一人でそう宣言すると、ベッドの上にダイブした。一日中働いて疲れた体を、柔らかな羽毛が包み込む。その優しい感触に、五歳児の身体はたちまち睡魔に囚われた。考えてみれば、この年頃の子どもは昼寝をするのが普通だ。俺はたまらずウトウトと意識を遠のかせる。
「ふああ……ん?」
積雪のごとく降り積もった服の山に埋もれるようにして、本が床に置かれていた。そこら中に落ちていた雑誌風の薄い本とは異なり、ハードカバーのしっかりとした本である。ちょっとした辞書ほどの厚さがあり、装丁は深い闇色。背表紙の部分に金文字で『召喚術入門』と刻み込まれている。
「こ、これは……!」
俺はベッドからはね起きると、急いで服の山の中から本を引っ張り出した。そしてうっすらと付着した埃を払うと、一目散に表紙をめくる。するとそこには、まさに俺の期待した通りのことが書かれていた。
『本書はこれから召喚術を志す者、もしくはそれを指導する者のために捧げる入門書である。近年、研究の進展により召喚術はその複雑さを急速に増しつつあるが、本書はその奥深い召喚術の秘儀を体系的に取りまとめ、初心者にもわかりやすく――』
「おおっ!!!!」
思わず声が漏れた。これだ。これこそが、今の俺が必要としている物である。俺はたちまち頁にかじりつくと、アルファベットの筆記体をさらに崩したような文字を読み解いていく。この世界の文法と言うのは日本語に似た形式で、文字も表音文字だ。感覚的にはローマ字表記の物を読んでいるようであろうか。文字自体の複雑さゆえに書くことは難しいが、読むことは易い。ゆえに読み書きを軽く習ったばかりの俺でも、さして苦もなく読み勧めることができる。
夢中になって頁を繰っていると、ドアがトントンとノックされた。俺が慌てて視線を本から上げると、すでに窓の外は薄闇に包まれている。地平線が闇に沈んで、眼下の通りでは街灯が淡い光を投げかけていた。教会より響く物悲しい鐘の音。その回数は七回、午後七時を知らせていた。
「えーっと、ラルドだったっけ? 掃除終わった?」
「いや、まだです! ごめんなさい!」
「しょうがないわねえ。けどま、時間が遅くなるから今日はそれぐらいで帰りなさいな」
「はーい!」
レフィールさんの声に軽い調子で答えると、俺は本を服の下へと入れ込んだ。たぶん大丈夫だとは思うが、俺が勝手に読んで良い物だったのかどうかわからなかったからだ。こうして証拠を隠蔽すると、部屋のドアを開けて外へと飛び出す。
「明日も来ます!」
「はいはい、修行頑張るのよ」
お疲れさん、とばかりにレフィールさんは俺の肩をぽんぽんと叩いた。見上げてみれば、白い頬にはすでに赤みが差している。アルコールの匂いが微かに鼻をついた。こりゃ、昼間から結構飲んでいたようだ。まったく、とんでもない不良女である。
俺は彼女に軽く会釈をすると、足早に宿を後にした。家ではもうすでに、おいしく焼き上がったムニエルが俺の帰りを待っているはずだ――。
掃除がすべて終わるのに、結局、一週間近い時間がかかった。一つはレフィールさんが物を積極的に処分してくれなかったこと。そしてもう一つは、俺が作業中に本を読んでいたからである。自分の部屋のことだと言うのに、レフィールさんは掃除を完全に俺に任せきりだったため、思う存分本を読むことが出来たのだ。先ほど「一週間かかった」といったが、正確には「一週間かけた」と言う方が正しい。本を読破し内容を理解するのにそれだけ時間がかかってしまった。
こうして掃除を終えた俺は、正式にレフィールさんの弟子――またの名を小間使い――と認められた。とはいっても、召喚術を彼女直々に教えてもらえるなんてことはない。彼女が掃除の次の修行として提示してきたのは、何と畑仕事である。村の農家がお手伝いを募集していたのを、たまたま見つけてきたらしい。レフィールさん曰く「召喚士たるもの体力が重要」とのことだが――どう考えても給金目当てだ。俺はまだ五歳なので、給金はすべて師匠であるレフィールさんに支払われることになっているのだから。
「ふう、暑い……」
炎天下の畑。大地にまっすぐに造られたはずの畝が、少し曲がって見える。額に滴る汗をぬぐうと、俺は手にした雑草を背中の籠に詰めた。俺に与えられた仕事は草むしり。畑に生える雑草を片っ端から手作業で取り去ると言う、なかなかにハードな仕事だ。ただし子どもの俺に配慮したのか担当する範囲は狭く、さほど時間はかからないだろう。そして予想通り、昼過ぎには無事に仕事が終わった。
「さて、いよいよやるか」
畑の近くに聳える大木。俺は籠を地面に置くと、その太くひび割れた幹に身を預ける。塔のような大きさと高さを誇る木は、大地に傘を差したかのごとく巨大な影を造り出していた。薄闇の中を吹き抜ける風は涼しく、火照った身体に心地よい。俺は大きく息を吸い込むと、近くに落ちていた木の棒を使って地面に紋様を描き始める。一週間かけて学んだ召喚術の基礎を、いよいよ実践する時が来たのだ。
『召喚術入門』を読んでいくつかわかったことがあるのだが、まず、この世界の召喚術と言うのは地球のゲームなどに登場する召喚魔法などとは大きく異なる。召喚陣と呼ばれる陣を描き、己の魔力を対価として遠くにある生物や物体を呼び出す。ここまではゲームなどと同じ。だが、呼び出す場所が違う。この世界の召喚士は『自分の体の中』に物を呼び出すのだ。
そんなことをしたら死ぬのではないかと、未だに地球人の感覚が残る俺からしてみれば思うのだが――そうはならないらしい。本によれば、被召喚物と召喚者が存在レベルで融合するという結果が発生するそうだ。例えば、鉄を召喚すれば文字通り鋼鉄のような硬さを持つ人間が誕生するという寸法である。この現象をハルセルス王国という古代国家が膨大な年月をかけて研究し、人の手によって制御できるように完成させたのが召喚術らしい。
現在の召喚術は、ハルセルス滅亡後に生き残った聖女ラスキリアという人物が広めたものが基礎となっている。これには大きく分けて三種類あり、それぞれ元素召喚・武具召喚・幻獣召喚という。これは単に呼び出すものの種類の違いであり、元素は炎や水と言ったエレメントを、武具は剣や銃と言った物質を、幻獣はドラゴンやオーガなどと言った生物を扱う。どの召喚術を使えるかは完全に個人の適正であり、合わないものを使おうとすると召喚事故が発生して死ぬこともあるため注意が必要だ。
が、適正はある程度成長してみないことにはわからないらしい。子どものうちは肉体の状態が不安定なためだ。よって、身体が安定し始める十歳ぐらいまでの間は、ひたすら召喚術に必要な魔力を鍛えあげるのが正しい。
「出来た!」
何度も何度も指でなぞり、目に焼き付けてきた鍛練用の簡易召喚陣。六亡星を象った魔法陣のようなそれが、しっかりと地面に書き上がった。これを使って、ひたすら近くにある物をと呼び寄せると言うのがこの世界の魔力鍛錬である。最初のうちは目に見える範囲にある、小さなもの。慣れたら少し遠くにある大きなものを。こうやって、扱える魔力を徐々に徐々に増やしていくのだ。
陣の外側に手を置き、意識を集中させる。最初のターゲットは、陣の中心から二メートルほど離れたところにある親指の先ほどの小さな石だ。これを魔力を対価として空間を歪め、陣の中央まで移動させる。はっきりいって、しょぼいのだが――俺自身が使う初めての魔法だ。興奮しないわけがない。前世で本物の魔法使いを見て、どれだけ憧れた事か。その思いを、今ここに込める――!
「うおおッ!」
全身の血を掌に集中させ、押し出すような感覚だと本にはあった。俺は額に血管を浮かび上がらせながら、ひたすら手に神経を集中させる。押す、押す押す押す――自然と手に力が籠り、土が窪む。すると、うっ血した掌の血流が解放されるようにして、何かが外へと放出された。刹那、召喚陣全体が淡い光を帯び、視界の中央にとらえていた石の姿が消える。
パシュン――圧縮した空気を爆発させたような、独特の音。それが響くと同時に、消えたはずの石が陣の中央へと現れた。ジャガイモよろしくややゆがんだ形をした白く滑らかな石。間違いなく、先ほどまで俺が睨んでいた石である。成功したのだ、俺は。三世に渡って無縁だった魔法を、ようやく使用することが出来たのだ!
「やったーー!!!! ……あり?」
喜びの雄たけびを上げた途端、身体が一気に重くなった。全身に鉛の塊でも仕込まれたような感覚だ。体中の筋肉が弛緩してしまって、瞼をあけていることですら辛くてたまらない。俺は姿勢を保つことができなくなり、たちまちその場に倒れてしまう。ま、まさか……最初とはいえ、こんなしょぼい魔法一発で魔力が切れちまったのか!? 俺の心をたちまち疑問の叫びが満たした。だが、そんな俺の意識をすぐに睡魔が攫って行ってしまった――。