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かぐや  作者:
9/14

六(下)

 その人がもどかしげに御簾を押しのけ、はめ込まれた下の半蔀を掴んで身を乗り出そうとするのを、文緒は呆然と見ていた。思いつめた苦しげな表情で、こちらに手を伸ばす。月に照らされるその人の顔は、――とても美しかった。


 紅葉色の衣は、月明かりの下ではどこか褪せて見えた。小袖の上にその単衣をはおっただけのその姿は、頼りなげでやけに小さい。だがその人はなお、内側から輝くようだった。


 小ぶりの瓜実顔はみどりなす黒髪に縁取られ、頬と唇はみずみずしくふわりと紅い。顔立ちにはまだやさしい少女の風情を残しながらも、既に洗練された、匂い立つような色香があった。伸ばされた指先は小さく細工物のようで、触れていいものとは思われなかった。

 これほど美しい人を、文緒は見たことがなかった。


 だが確かに、幼い日の面影はあった。

 月の下で笑う遠い日の幼子が、今まさに十年の時を超えて、姫君に重なった。そのことに文緒は息をのんだ。堰き止められていた年月がどっと押し寄せ、足元が揺らぐようだった。

 「雲居の方」様だ――。誰に聞かずとも、文緒は雷に打たれたようにそうと知った。



 それは瞬きの間であったが、永遠のようにも思われた。長い一瞬が過ぎ去った後、文緒ははっと我に返り、すぐにその場に膝をついた。

 姫ならば、顔を見て良い相手ではない。文緒は低く頭を垂れた。

「文緒……」

 雲居の方の、押し殺した囁き声がした。

「そこにいるのは、文緒ね?お願い、もしそうなら、何か言って……」

 懇願するような声に、文緒は唇を噛んだ。



 文緒が顔を見て良い相手ではない。話しかけて良い相手ではない。

 自分にそう言い聞かせ、ぐっと押さえつけていなければ、すぐにでも立ち上がってしまいそうだった。真っすぐに顔を見て、確かに自分だと、呼び声に答えたかった。


 呼び声に答えて、そうして自分も、名前を呼び返したかった。


 湧き上がる望みは息がつまるほど激しく、文緒自身が驚くほどだった。すべてを水泡に帰してもいいから、今ここでかの人にこたえたいと、胸の中で暴れるものがいる。

 地についた手が震えた。これほど何かを切望する熱が、自分にまだあったことに文緒は驚いた。

 淡々と期待を殺し、心を無にして過ごす日々の中で、それは失われたのだと思っていた。



「――……月を見ようと思ったの」

 雲居の方はぽつりと、言葉を落とした。その声は布越しのように、ぼうっとくぐもって震えている。泣いているのかと、文緒の胸はまたざわついた。

「蔀を開けて、一人にしてと言って……。お母様は、いい顔をしなかったけれど」

 でも、と姫は続けた。

「あなたに会えるなんて。……こんなことが、あるのね」


 本当に、と文緒は心の中だけで頷いた。

 会うことはないと思っていた人だ。望みなど持ちようもなく、遥か天上の月のように、住む世界が違うのだと思っていた。

 これほど近くにいるということさえ、忘れていた。

「どれほど会いたいと思っていたか……。お願い文緒、声を聞かせて」

 重ねて願う声に、文緒の心は揺れた。


 こたえてしまおうか、と迷う自分がいる。

 「雲居の方」と口を聞けば、ここにはいられない。それはずっと昔にした契約だった。

 けれどもう、この屋敷に居続けることに何の意味があるのだろう。疎まれ憎まれ、空虚さに心を侵され、何が得られるのだろう。

 約束を果たすことができなくなるけれど、この夜に、この方に会うことができただけで、もう十分だという気がした。今までの日々の中で、文緒はこの方に何もして差し上げられなかった。そばにいたいとこの屋敷に執着したのは、ただの独りよがりだ。

 そんなことを続けるより、今ここで、彼女にこたえることの方が、ずっと大切ではないのか。


 けれど文緒は、顔を上げることができなかった。

 ぐっと、砂を掴む。迷う心とは裏腹に、何か大きなものに頭を押さえつけられているかのようだった。

 彼女は「雲居の方」様だ。踏み越えることのできない隔てが、文緒と彼女にはあった。

 手を繋ぎ、隣で歩いた幼い日は幻のように遠い。今や二人の道は大きく分かれ、まさしく天と地ほどに隔たった。


 雲居の方はその美しさが天下に鳴り響き、やんごとない方々からの愛を乞う文が、日ごと降るように舞い込んでいるという。方や文緒は、吹けば飛ぶような身の上だ。比べようもない、厳然たる差が、二人の間には横たわっていた。

 文緒が不用意に近づくことで、彼女の何かが傷つき、損なわれでもしたら。そんな恐れが浮かんで、言葉を返すことができなかった。

 矛盾する心に引き裂かれてしまいそうだった。

 呼び返す彼女の名は、もう喉元までこみ上げてきているというのに。



「……私が誰か、わからない?文緒、あなたは――」

 姫はそこで、息をのむように言葉を切った。そして、一層鋭く声をひそめる。

「誰か来るわ。……もう、行かなくては」

 文緒は弾かれたように顔を上げた。


 この思いがけない邂逅は、あっけなく終わろうとしていた。葛藤は煙のように消え去り、苦い後悔がどっと襲った。

 またとない機会を、文緒は失うのだ。何もできず、ただ迷っただけで。彼女の姿を、もう二度と見られないかもしれないのに。

 誰かが来てしまうなら、もう文緒が口を開くこともできない。この場を見咎められては、文緒だけではなく彼女にも害が及んでしまうだろう。――主家の姫と下人など、知りあうはずのない二人なのだ。



「文緒、もし、私の名を覚えているのなら――」

 雲居の方は声をくぐもらせ、早口で言った。

「満月の夜に、『私の生まれた場所』に来て。……待っているから」

 祈るような響きを落とし、姫は御簾の向こうへと姿を消した。微かな衣擦れの音がして、気配が去った。


 文緒はしばらく跪いたまま息をひそめ、じっとその場に留まった。

 人の近づく気配がしないかと探ったが、声も足音も聞こえなかった。十分に時間がたってから、文緒は立ち上がった。

 開かれた半蔀に、かの人はいない。文緒は力なく顔を伏せた。


 誰もいないこの屋敷の片隅に、ただ立ちつくす。つい今しがたの出来事なのに、もはや夢か幻かと疑ってしまうほどだった。

 懐かしさも慕わしさも、燃えるように抱いた望みも、姫君が去った今は、泡のように消えていた。けぶるような尾花の穂を揺らす風が、胸の熱を冷ましていった。


 目を閉じて、瞼に残った姫の面影を追う。

 息をのむほど美しくなっていたのに、変わっていないのだと思った。芳しい香りも滑らかな絹の衣も、幼い頃にはなかったけれど、それらは付属品にすぎなかった。彼女の美しさは、そんなものではない。文緒はそれを知っていた。


 ――満月の夜に、「私の生まれた場所」に。

 文緒は目を開き、僅かに欠けた十三夜を仰いだ。


 その場所の心当たりは、一つしかなかった。


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