五
雨垂れが軒を打つ微かな音が聞こえる。
文緒は目を閉じて、高い熱に夢と現の境をふらふらと彷徨いながら、それに耳を傾けていた。
厨に近い、薪と藁が山と積んである小屋に、文緒は寝かされていた。
藁に埋もれるようにしてうつ伏せ、破れた薄い小袖を衾がわりに被っていた。地から這い上る肌寒さは身に堪えたが、それでも雨を防ぐ屋根と、冷気の広がらない小屋の狭さがありがたかった。
鞭打たれた背はまだ熱を持ち、それは体全体に飛び火して文緒の意識を混濁させている。手当ては滲んだ血を拭った程度で十分ではなく、どうにか自力で巻いた布も、億劫で取り換えていない。背が燃えるように痛いので仰向けになることができず、身動きすることすら辛かった。
覚めているのか眠っているのか、もはや自分でもわからなかった。厨番だろうか、この小屋にも誰かが出入りしていていたようだったが、記憶は曖昧でぶつぶつと途切れていた。
高い熱で朦朧とする感覚は、文緒にとってひどく懐かしいものだった。体が重く、思い通りにならない無力感は、幼い頃によく味わっていたものだ。
母のひんやりした手が額を撫でた気がした。かと思えばその感触はすぐに遠くなり、暗闇に消える。弟が心配して文緒の顔を覗きこんでいる。それはすぐに、共に山道を彷徨ったあの子の顔になり、最後には怒りに歪んだ佐貫の顔になった。
「ここから出て行け、疫病神め」佐貫が文緒をずるずる引っ張り、屋敷から追い出そうとする。文緒はその手を振り払おうとしたが、できなかった。手を引く男は、母に頼まれて、文緒を山に捨てに行くのだ。仕方ないことだ。珍しいことでもなかった。もう一方の手には、僅かな米の入った袋。「怨むなよ」と言った彼も、飢えていた。
暗い山道は恐ろしかった。ただ、あの子の手の温かさだけが救いだった。怖いことのないように、二人でお伽噺の中で遊ぶのだ。あの子が目を輝かせてくれるのが嬉しい。「でも、もういいの。何もいらないよ」どうして泣くのかわからない。月には、何の悲しみもないはずなのに。
「――おい、生きているか」
いくつかの断片的な夢を見ていた文緒は、その声と共に揺り起こされた。
ぼんやりと目を開けると、こちらを覗きこんでいる黒い影が目に入った。視界は薄暗い。目が霞んでいるのか夕刻だからなのか分からず、文緒は数度瞬きをした。
傍らにいる人物の顔は見えない。だが、その声には覚えがあった。
「男鹿……?」
「お、生きておるようだな」
男鹿は笑ったようだった。文緒は痛む背を庇いながら、どうにか身を起こした。
いくらか気分がましになっていることに気づいて、額を押さえて息をはく。汗で着物がはりつき、それが不快だった。
「寝ておっても良いぞ。様子見ついでに飯を持って来てやっただけだ」
男鹿は無造作に、文緒の横に胡坐をかいて座った。ほれ、と竹の皮にくるまれた握り飯を差し出す。文緒は礼を言って受け取ったが、まだ食べる気にはならず、そのまま膝の上に置いた。
「中納言殿に無礼をはたらいた罰としては、まぁ、それで済んでよかったな」
軽く言われて、文緒はちらりと男鹿に目をやった。
夕闇の薄暗さにも大分目が慣れてきた。少し目をこらせば、近くにいる男鹿の表情も見える。男鹿はにやにやと笑い、問うように首を傾けた。
「百叩きの上、放り出されるのかと思ったが。不思議だなぁ」
「……」
文緒は黙ったままでいた。正直なところ、追い出されなかったのは文緒にとっても意外なことだった。
中納言を騙した罰として、文緒は鞭で血が滲むほど背を打ちつけられた。おかげで背の皮は裂け、腫れ上がっている。だが、それだけだった。
罰としてはひどく中途半端で、軽いといってよかった。佐貫はあれほど追い出すと息巻いていたのだが、どういうわけかそうはならなかった。騙りの汚名はそのままで、傷の手当てをされたわけでもない。それなのに、積極的に叩き出されはしなかった。後はどこへなりとも行けというように、ここに放置されている。
佐貫の情けであるはずがない。では、何故なのか。文緒にとっても、それが不思議だった。
「――寝込んでおっても、誰の見舞いもないとはな。気の毒なことだ」
薪小屋をぐるりと見回して、男鹿はふんと鼻で笑った。
「お前、それほど嫌われているのに、ここから出て行かんのは何故だ?」
顎の髭を撫でながら、男鹿が訊く。単純に、面白がっているような声音だった。
「叩き出されなかったのも不思議だが、お前が逃げ出さないのも同じくらい不思議だ。……わしならこんな目にあえば、この屋敷などすぐに出て行くが。他に雇い入れてくれる屋敷など、いくらでもあろうに」
やはり変わり者だと言われているようで、文緒はふいと顔をそむけた。
追い出されないのは、文緒にとって僥倖だった。だがそれと、文緒が出て行かない理由は別だ。
文緒が自分からここを出て行くことはあり得ない。何をしても、岩にかじりついてでもこの屋敷から離れない。文緒はそう決めている。
そしてその理由を、男鹿に語ろうとは思わない。
「……外では何か、変わりはないか」
答えるかわりに、文緒はぽつりとそう問い返した。男鹿は虚をつかれたように、きょとんとして数度瞬いた。
「……あ、ああ、そうだな。お前が騙くらかしたとかいう中納言殿だが、高い所から落ちて大怪我をしたらしいぞ。何でも、燕の巣にある子安貝を探していたとか」
馬鹿馬鹿しい、と男鹿は鼻を鳴らした。
文緒や男鹿でさえも、「燕の子安貝」などありはしないとわかるのだ。それなのに、教養ある貴人がわからないとは、何ともおかしな話だった。――だがその高雅な目を曇らせ、露の幻を追わせるのが、「雲居の方」の美しさなのかもしれなかった。一目見てしまえば、世の男は正気ではいられないのだろう。
あるいはそれが、「恋」なのかもしれない。
「中納言殿は寝ついてしまい、竹姫様との縁談も流れてしまったそうだ。……まぁ、こんな難題をふっかけられる時点で、望みのない縁談だったのだろうが」
ぼんやりとつい考えこんでいた文緒は、その言葉で引き戻された。
「……そうか」
文緒は膝の握り飯に目を落とした。喜ぶな、と自分に言い聞かせたが、胸にほっと安堵が広がるのを止めようがなかった。
「そんな目にあったというのに、忠義者だな。屋敷のことが気になるのか」
やれやれ、と男鹿は呆れたように肩をすくめた。
本当に忠義だろうか、と文緒は思う。
たった今、姫様の縁談が流れたことを聞いて、安堵したのではないのか。主の不幸を喜んだのではないか。それを果たして、忠義と呼べるのだろうか。
本当の忠義者というのは、もしかしたら、文緒より佐貫のことなのかもしれない。ふとそう思った。佐貫が文緒を追い出そうとするのは、個人的な好悪もあるだろうが、第一は主人のためだ。主人が文緒を忌み嫌うのに、倣っているのだ。
そんな思いに捕らわれながら、文緒はぼんやりと答えた。
「……屋敷を警護し、姫様を守るのが私の役目だ。御身に変わりがないか、不埒者が近づきなどしてないか、気にかけて当たり前だろう」
そう言って、文緒は握り飯を一口頬張った。熱のせいで味などせず、噛むのにやたら力が必要だったが、体を戻すためには食べなければならない。文緒は二口、三口と続けて齧りついた。
「……なるほど」
膝に頬杖をついた男鹿が、妙にしみじみと言った。
「少し、合点がいった気がするぞ。お前の忠義は、この屋敷に向かっているのではない。――『雲居の方』様に向かっているのだな」
ぐっと、飯が喉に詰まりかけた。文緒は咳きこみながら、顔を上げた。
「それで、ここから離れられないのか」
「……」
口を押さえて、文緒は咳で答えを誤魔化した。男鹿がまた、傍らからひょいと竹筒を差し出す。有り難く受け取って、喉に冷たい水を流し込んだ。
「……見たことがあるのか、『雲居の方』を」
男鹿が静かに問いかける。文緒はすぐに「いや」と首を振った。
「まさか。姫様は、住む世界が違う」
天女のように美しい姫。遥か遠い「雲居の方」だ。文緒の手が届くはずもないし、垣間見られるわけもない。
まさに月のようだと、文緒は思った。美しさも、その遠さも。
男鹿は意外そうに、「へぇ?」と眉を上げた。
「てっきり、何かの弾みに姫様を見たのかと思った。それで姫の美しさに取り憑かれて、忠誠を捧げているのだと」
「違う」
文緒はまた首を振った。だが男鹿は納得いかなさそうに、ふむと顎を撫でた。
「それ以外、理由が思いつかんのだが。――お前が、『雲居の方』に恋しているのだという以外に、理由があるのか?」
「――恋では、ないだろう」
文緒は目を伏せた。
「恋」とはおそらく、阿部大臣や石上中納言のようなことをいうのだ。美しい天上の月を追い求め、供物を捧げ、手を伸ばす。だとすれば、文緒の中にあるのは恋ではなかった。
文緒は美しい「雲居の方」を見たことはない。捧げられる供物もない。かの人を、追い求めようなどとは思わない。
ただ、なるべく近くがいいと思って、せめて守る役目でありたいと思って、ここにいるだけだ。
きっと、ただ独りよがりなだけだろう。
「わからんな。恋ではないなら、忠義を捧げて何になる?」
その問いに、文緒は答えようと唇を動かし、――そのまま言葉を失った。
答えなかったのではない、答えられなかったのだ。胸の内に、答えはなかった。そこはぽっかりと空白だった。
文緒がここにいるのは、約束だからだ。それは揺らがない。
けれどそれは一体、何のために、誰のためになっているのだろう。文緒は自問し、瞳を揺らがせた。何のためになるのかなど、考えたこともなかった。
ここに居続けることの意味を、考えなくなってどれくらい経つのだろう。
「……まぁ、お前の勝手だろうが」
男鹿はそう言うと、膝を払って立ちあがった。伸びをするように軽く腕を伸ばし、何気ない口調で言う。
「恋ならば、やめておけと言っただろう。お前が言った通り、住む世界が違うのだ」
声は軽いのに、その言葉は何故かひどく真剣に響いた。不思議に思って、文緒は顔を上げた。
暗がりに沈んで、男鹿の顔は窺い知れない。だが少なくとも、笑ってはいないと思った。
「――身分違いの恋など、目も当てられない」
男鹿が去って、文緒はただ一人暗い小屋に残された。
体はだるく休息を求めていたが、文緒はしばらく身を起こしたままでいた。じっと身じろぎもせず、男鹿の残した問いを考えていた。