四(下)
「燕の子安貝」などありはしない。だがその言葉を、文緒は知っていた。――正確には、その謎かけを知っていた。
「『燕の子安貝』は、どこにあるか?」
捨てられ、山の中を放浪していたいつかの夜に、文緒はその話をしたことがあった。
「……子安貝って何?」
共にすごしていた子どもは、眉をきゅっと寄せて首を傾げた。
海を知らぬ文緒は、本物の子安貝を見たことなどない。この子も同じなのだろう。文緒もどんな物なのか上手く思い描けず、母からの受け売りを、見てきたように語ることしかできなかった。
「卵みたいな丸い貝で、珍しい宝物の一つだよ。あと、子宝のお守りなんだって」
「『燕の』ってことは、燕の巣にあるんじゃないの?卵みたいに、燕が産むんでしょう」
くるりと目を回して、その子は不思議そうに言った。考え込むその仕草は、やはり幼い弟にそっくりだ。文緒は懐かしくて口元を緩めた。そうして微笑もうとすると、二人で話す時以外あまり動かさない頬の肉が、引き攣れてぴきりと痛んだ。
夜にお伽噺をすることは、文緒とその子の決まりごとになっていた。
日のある明るいうちは、ほとんど黙りこくって山道を歩く。ひもじさは草の茎を噛んで誤魔化し、喉の渇きは岩窪にたまった雨水をすすってしのいだ。ふらつく足で少しずつ進み、夜は疲れ果てて、木のうろや岩かげにうずくまって眠った。その眠りに落ちる僅かな間で、身を寄せ合ってお伽噺を語るのだ。
文緒は首を振って、その子が出した答えを否定した。
「悪し。燕は子安貝なんか産まないよ」
「わかってるよ。でも、『燕の子安貝』って言うから」
その子は不満そうに唇を尖らせた。
そう、文緒の言うことは矛盾している。だがそこが、謎かけなのだ。
「答えはなあに?早く教えてよ、お兄ちゃん」
文緒の汚れた衣の端を引っ張って、子どもはせがんだ。
数日一緒に過ごして、この子がはきはきした子なのだということを、文緒は知った。
素直で率直な子だ。特別わがままでも堪え性がないわけでもないが、この子は自分が何をしたいかちゃんとわかっていて、それをはっきり文緒に伝える。自分の望みに疎くて、口の重い文緒にとっては、とてもうらやましい性質だった。
疲れたら休みたいと言い、眠たくなればお伽噺の途中でもすこんと寝てしまう。自分にはないその素直さに文緒は戸惑ったが、同時に小気味良くもあった。
だがこの子は、「家に帰りたい、お母さんに会いたい」とは、もう二度と言わなかった。
「燕の巣を探しても、子安貝はない。つまり、無駄ってことだ」
答えを話しながら、文緒は密かに久しぶりの優越感を味わった。謎かけの答えを知る者だけが味わえる、ささやかな優越感だ。
「『燕の子安貝』なんてない。探しても無駄だ。つまり――『かひなし』。わかる?」
子どもはきょとんとしたが、ややあって答えを理解したのか、「なあんだ」と眉を緩ませた。
「『燕の子安貝』なんて、ないんだ。つまんない」
ふてくされたように言うので、文緒は少し慌てた。この謎かけはおもしろくなかっただろうか。
「まぁでも、誰も探したことはないから。本当にないかどうかはわからないよ」
「じゃあもしかしたら、『かひあり』かも?」
その子がおもしろそうに微笑んだので、文緒もほっとした。
「うん。そうだったらおもしろいね」
◆◆◆
「――『燕の子安貝』は、ありません」
長く迷った末に、文緒はそう言った。
「……私は、そうとしか存じ上げません」
文緒は深々と平伏した。目を閉じて、沙汰を待つ。文緒が言えるのはこれだけだった。
案の定、頭上からは怒りに裏返った声が飛んできた。
「佐貫!やはりこやつは宝のことなど、知らぬのではないか!」
「この者に縄をかけよ。虚言によって中納言様を惑わせた罰じゃ」
佐貫は手を打ち、大声で命じた。
すぐさま脇から侍らが駆け寄ってきて、文緒を地面に引き倒し、頭を押さえつける。あまりにも素早く、文緒が何かをする隙もなかった。
やはりこれは最初から、準備されていたことなのだ。
固い地面に強く押しつけられ、身動きはおろか息さえできなかった。文緒は苦しさに呻きながら、かろうじて顔を動かし、息を吸おうとした。
視線を僅かに上げれば、佐貫の姿が見える。簀子に立ち、文緒を見下ろしている。
嘘ではない、と言うこともできた。これは謎かけなのだから、「燕の子安貝」はない、「かひなし」で正解なのだ。
だが、どうしてもそこまで教える気にはならなかった。自分を見下ろし、笑う佐貫に、答えを教えてやるのは嫌だった。
淡い優越感などありはしない。それはただの、文緒の意地だった。
「柱に括りつけ、竹の鞭で打て。その後のことは、追って沙汰しよう」
そう命じてから、佐貫は階をゆっくり下りて、地べたに倒れ伏す文緒の前に立った。
屈みこみ、文緒の髪をむんずとつかむ。無理やり頭を持ち上げられる痛みで、文緒はまた呻いた。
「――今度こそこの屋敷から追い出してやる。汚らわしい下郎め」
低い、文緒だけに聞こえるような、押し殺された声だった。
「お前は疫病神だ。いるだけでお館様のお心を悩ませ、煩わせる」
ひたりと、視線が合わさる。佐貫の眼差しはじっとりと暗かった。
「大方、お館様を騙してこの屋敷に入ったのだろう?疎まれるわが身を省みて、疾く去るがいい」
佐貫は文緒の頭を地に叩きつけるように手をはなした。頭を打った衝撃で目に火花が散る。だが文緒は瞬いてそれを払うと、佐貫を睨みつけた。
腹の底に火がついたかのような怒りが、かっとこみ上げた。
「……違う」
くいしばった歯の隙間から、文緒はそう言った。
主人を騙してこの屋敷にいるのではない。文緒がここにいるのはそんな理由ではない。
どれだけ疎まれ、憎まれたとしても、文緒はここから絶対に去らない。
佐貫の憎しみのこもった目つきに、文緒も同じだけ怒りをこめて睨み返した。
何も知らないくせにと、吐き捨ててやりたかった。――だがそれは、許されないことだ。
先に視線を別の方へ向けたのは佐貫だった。立ち上がり、何事もなかったように「連れて行け」と命じる。腕を後ろへねじり上げられ、引きずられるように文緒は運ばれた。
厨の脇へ引っ張り込まれて見えなくなるまで、文緒はずっと佐貫を睨み続けた。
【蛇足】「かひなし」の掛詞…「貝なし」と「甲斐なし(無駄だ・取るに足らない)」