三(下)
風か獣か、近くの茂みががさりと音を立てて揺れた。二人はびくりと身を竦ませて、ついに足をとめた。
恐怖を抑え込んでいた脆い蓋が外れて、文緒の背中にどっと冷たい汗が流れた。
月の光は木々の梢に遮られて、すがるにはあまりにか細い。眼前にぽかりと口を開けて待ち構えている深い闇に、ここは人のいて良い場所ではないのだと、文緒はまざまざと悟った。
繋いだ手からかたかたと震えが伝わって、文緒ははっとして隣に立つ子どもを見た。
暗闇に魅入られたように目を見開いて、その子は歯の根も合わぬほど震えていた。これほど恐怖に追い詰められた人を、文緒は見たことがなかった。
「お母さん――!」
その子は小さく、悲鳴のように呟いた。
文緒は打たれたように、立ちすくんだ。それは、文緒自身の叫びでもあった。
お母さん――。
本当はそう言って、大声で泣きたかった。どうして捨てるんだと母をなじって、いい子でいるからと謝って、家に帰りたかった。
捨てられたことを受け止められず、心が麻痺してぼんやりしてしまっていたけれど、そうすればよかったのだ。仕方がないなどと思わずに、泣きわめいて、母と一緒にいたいと言えばよかった。
この子のように。
けれど、もう遅い。ここで泣いても、怒っても、絶対に母には届かない。
文緒は震える子どもを抱き寄せた。
なぐさめも、安心させられる言葉も言えない文緒の、それが精一杯だった。
この子がかわいそうだ。そしてこの子どもは、自分自身だった。
文緒はかばうようにその子を抱きしめて、ゆっくりとその場に座り込んだ。
文緒とその子のどちらが震えているのか、もうわからなかった。心の臓が早鐘を打つ。文緒は固く目をつむった。目を閉じた暗さの方が、まだ恐ろしくない気がした。
怖い。怖い。
「……皮衣があったら、あったかいだろうなぁ」
震えた声は、恐怖を誤魔化し切れてはいなかった。きっと鼓動の音も、その子に伝わってしまっているだろう。だが文緒は無理にでも明るい声を出そうとした。
「こんな山でも、きっと寒くない。それに珍しい宝物だから、皆が欲しがって……きっと、腹いっぱいになるくらいの食べ物と換えられる。そうしたら……」
そうしたら、家に帰れる。
そう続けることはできなかったが、文緒は腕の中で震えるこの子が、少しでも楽しいことを考えればいいと思った。闇にのまれる恐怖ではなく、楽しいお伽噺の中にいたかった。
文緒もこうして、温かい母の腕の中でお伽噺を聞いていた。母の語るようにはいかなかったが、文緒はそれを思い出しながら、語り続けた。
「珍しい宝物は、他にもたくさんある。しろがねこがね、紅さんご。どんなものかよく知らないけど、すごくきれいなんだって。海の中の竜宮や、偉い仙人さまのお屋敷を飾っているんだ」
一度も見たことはないけれど、文緒はまぶたの裏に、きらきらした宝物を思い浮かべた。思い描くことは簡単だ。――方法は、お伽噺の夜に、母から教わった。
「しろがねは晴れた朝の雪みたいで、こがねは輝く満月みたいなんだって」
暗い山の中に、母はいない。火鼠の皮衣も、珍しい宝物もない。
ここにいるのは、自分と、小さなこの子だけだった。
月明かりさえ、頼りにならない。暗闇の恐怖を紛らわせてくれるものは、物語しかなかった。
「仙人さまのいる蓬莱には玉の枝があって、それは根がしろがね、茎はこがねでできてるんだ。白玉の実がなっていて、とてもきれいで……」
「……白玉って、食べられる?」
腕の中の子は、おずおずと文緒を見上げて、小さな声で聞いた。
いつしか、震えはおさまっていた。二人ともまだ鼓動は早く、体は緊張で強張っていたが、文緒は少し笑った。上手くお伽噺に誘い込むことができたようだ。
「知らない。でも木の実なら、食べられるんじゃない?」
文緒が答えると、その子は少しだけ肩の力を緩めた。
暗いのでよくわからないが、どうやら笑ったようだった。
「……おいしいのかな。甘いといいな」
ぐう、とどちらかの腹が鳴った。文緒はこっそりと唾を飲み込んだ。
食べ物を思わせる話は、やめた方がいいかもしれない。ひもじさには慣れてはいたが、空腹を思い出すと、どうしても気が沈んでしまう。
他の話にしよう。不思議な物語は、たくさんあるのだ。
「――あのね、昔、泉で水浴びをしていた天女さまがいてね……」
月が傾き、その子が疲れて眠りに落ちるまで、文緒は語り続けた。身を寄せ合って、少しでも寒くないように、おそろしい夜を過ごした。
そして、この子と最期まで歩き続けようと決めた。
足が動くかぎり歩こう。いつか疲れ果てて倒れるまで、二人でいよう。
自分もこの子も、泣かないように。さみしくないように。恐怖と悲しみに押しつぶされないように。
白玉は真珠のことです。食べられないですね…