二
夜半、警護を一時交代し、男鹿と文緒は雑舎に戻った。
侍らが入る雑舎は屋敷の北東にある、まだ真新しい小屋だ。ここに十人ほどの侍が詰め、寝起きしている。中に入ると、小さな燭台で灯りがとられ、すでに何人かの侍がくつろいでいた。
戸口のすぐ脇に棚が置かれ、その上の大きな土器には、厨から運ばれた強飯の握り飯がいくつか用意されている。同じく短い休憩に入った侍らが、板張りの間に座り、黙々とそれを食べていた。
握り飯を手にとって、文緒は座る場所を探してぐるりと周りを見回した。――そして、僅かに目を瞠った。
土間を上がってすぐのところに、珍しい人物がいたからだ。
「――これは、佐貫殿」
文緒より先にその人物に気づいた男鹿は、さっと礼をして、不真面目な顔を器用に隠した。文緒も遅れて頭を下げる。
大層不機嫌な顔をした家人の佐貫が、苛立たしげに足を踏み変えながら立っていた。
誰の目にも、家人の虫の居所が悪いことは明らかだった。おかげで握り飯を頬張る侍たちは皆神妙な顔をしていて、明るく冗談を言う者などいなかった。
ここの侍たちは、一息入れる時には下世話な噂話などをして笑い合うのが常だ。文緒は別段それを聞きたいとは思わないが、この舎がしいんと重く静まり返っているのは、何か居心地悪く感じられた。
文緒はそっと背をかがめて移動し、目立たない土間に面した部屋の隅に座った。目をつけられ、難癖をつけられてはたまらない。下人の頃からずっと、この家人が苦手だった。
だが男鹿はへらへらと笑い、あの独特の気安さで佐貫に声をかけた。
「佐貫殿、このようなむさ苦しい所まで足をお運び頂いて、かたじけのうございます」
ぺこりとこだわりなく頭を下げてから、男鹿は窺うように首を傾けた。
「ですが……何ぞ、ございましたか?」
なぜこの家人が、侍の雑舎にいるのか?この場の誰もが疑問に思っていて聞けなかったことを、男鹿はいとも容易く、さらりと尋ねた。なるほどあの馴れ馴れしさは、人の懐に飛び込む時には大した武器になるのだと、文緒は感心する思いだった。自分には逆立ちしても真似できないことだ。
「ふん、用などないわ。……手がすいたのでな、お前たちの監督もわしの仕事だ」
佐貫は憎々しげに吐き捨てた。男鹿が気の抜けたような声で返す。
「はぁ、お手がすいて……」
男鹿はとぼけたが、「手がすいた」とはつまり、客人――阿部の大臣があまりに早く帰ったせいだろうと、文緒でさえも予想がついた。佐貫は親指の爪でも噛みそうな勢いで、苛々と言った。
「まったく、このごろの竹姫様のなさりようは、常軌を逸している。阿部様に向かってあのような態度をおとりになるとは、ひどいお叱りを受けてもおかしくないぞ」
誰かに向かって言ったのではない、独り言めいた愚痴だったので、侍たちは誰もそれに応えなかった。よほど腹にすえかね、不満だったのだろう、佐貫はぶつぶつと小言を続けた。
「今度は『火鼠の皮衣』だ。わしは見たことも聞いたこともないぞ、そんなもの。どこにあるとも知れぬ『火鼠の皮衣』を持って来いとは、縁談をお受けする気がないと言っているようなものだ……」
聞くともなく佐貫の独り言を聞いていた文緒は、思わず口元を緩ませた。
ひどく、懐かしいものを聞いたからだ。「火鼠の皮衣」とは、もう何年ぶりに聞いただろうか。思いがけず旧友に会った思いで、文緒の胸の奥がふと温かくなった。
「――何を笑っている?」
険呑な声が飛んできて、文緒ははっとして顔を上げた。離れた所からどう目ざとく見つけたのだろうか、佐貫が腕を組み、じろりと厳しい目つきで文緒を睨んでいた。
文緒はすぐに顔を伏せ、他意のないことを示した。だが、佐貫は床板を踏みならして文緒の目の前に来るや、もう一度問うた。
「何を笑っておるのかと、聞いたのだ。え?」
「……いえ、笑ったわけではありません」
平伏し、文緒は小さく答えた。それは本心からであった。
佐貫を笑ったわけではない。ただ懐かしく思っただけだ。だが佐貫は唐突に、文緒の肩を蹴り上げた。
「――賤しい下郎が、馬鹿にしおって!」
蹴り飛ばされた勢いで、文緒は背中から床にどうと転がった。叩きつけられるようにひどく背と肩を打ったが、とっさに手をついて、土間に転げ落ちるのを避ける。
だが手の中の握り飯は投げ出され、ごろりと土間を転がった。
文緒は思わずあ、と小さく声を上げて、土まみれになって転がる握り飯を目で追った。
「ここに『置いてもらっている』恩を忘れてはいやしないだろうな。お前など、いつ放り出してやってもよいものを!」
佐貫はもう一度おまけとばかりに、文緒の肩を蹴飛ばした。痛みで少し息がつまったが、文緒はすぐに姿勢を立て直して、平伏した。目を閉じて、佐貫の怒りが解けるのを待つ。嵐をやり過ごすには、黙ってじっとしているのが一番良いのだと、文緒は知っていた。
佐貫は面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「姫様の話を笑った罪は重いぞ。――覚えておれ」
唾を吐きかけるようにそう言い、佐貫は乱暴な足取りで舎を出て行った。
佐貫の足音が去り、文緒はゆっくりと顔を上げた。周りの侍が、はっとしたように素早く顔をそむける。家人の怒りにふれた文緒に声をかける者も、助け起こそうとする者もいなかった。
じんと痛む肩のあたりを押さえながら、文緒は土間に降りた。握り飯は土にまみれ、台無しになっていた。だが、大事な夜食である。今でさえ空腹なのに、これを失えば明日の朝には目を回すはめになってしまうだろう。文緒はそっと、崩れた強飯を拾い集め始めた。
ふと顔を上げた時、にやにやと笑う男鹿と目が合った。
――疎まれている。この家に。
ほうら見ろ、と言われたような気がして、文緒は目をそらした。疎まれ、嫌われていると、誰より文緒自身がよく知っている。だがそれを、他人に面白がられたくはなかった。
土間に跪いたまま、文緒は飯の塊を大きく頬張った。じゃりじゃりと、砂を噛む感触を、無理やり飲み下す。食べなければならない。食べなければ、勤めを果たすことができない。勤めを果たさなければ、この家にいられない。
文緒は、放り出されるわけにはいかないのだ。