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かぐや  作者:
13/14

 十年前の夜、月の光を浴びて輝く彼女を見ていたのは、文緒だけではなかった。



 あの夜、文緒が知ったばかりの名を口にするより前に、二人の背後でがさりと足音がした。

 二人ははっと弾かれたように振り返った。疲弊し擦り切れた警戒心が、ぴりりとまた頭をもたげる。文緒はかばうように彼女を自分の方へ引き寄せ、目を眇めてじっと暗闇を透かし見ようとした。

 山の獣だろうか。それとも――。文緒は、彼女を抱く手にぐっと力をこめた。

 この子を、最期まで、守るのだ。



 暗がりからよろよろと出てきたのは――白い髭を生やした初老の男だった。

 予想もしない闖入者に、文緒はぽかんと口を開けた。驚きのあまり力が抜け、ふらりと眩暈がした。

 こんな山の中に、人がいるなどとは思っていなかった。その男は、久しぶりに見る「大人」だった。それどころか、久しぶりに見る彼女以外の「人」だった。

 一瞬文緒は、幻だろうかと疑った。それほどに信じられなかった。


 だが、男は幻ではなかった。

 籠を背負い、鎌を手にした男は、ぽかんと口を開いて立ち竦んでいた。驚きに見開かれた目は、彼女一人にひたりと定まっている。傍らの文緒になど、気づいてもいないかのようだった。

「何と、美しい――」

 男は陶然と呟いた。


 この人も、あの瞬間を見たのだ。文緒はすぐにわかった。この子が月の下で、生まれ変わったように輝く美しさを得た瞬間を。

 男はごくりと唾を飲み込んだ。

「……竹の中に、天女がいらっしゃるとは」

 ――そして魅入られたのだ、この子に。

 天女を帰したくないと、羽衣を奪ったお伽噺の男のように。


 驚きと感嘆に満ちた男の目が、異様な熱を帯びるのはすぐだった。




 私の家に来ないかと、男は言った。

 家に来て、養女にならないか――。突然の申し出に彼女は戸惑い、怖がって文緒の腕にすがりついた。

「あの人、なんだか怖いよ。文緒、逃げよう――」

 けれど文緒は、彼女を抱きしめ返すことも忘れ、呆然と男を見上げていた。

 衝撃だったのだ。男がこの時に、ここに来たことが。


 月の使者だ、と思った。


 月の使者が、彼女を迎えに来たのだ。

 奇跡だった。死ぬべき定めから彼女を救うため、月がこの男を遣わしたのだ。文緒は強くそう思った。

 何も見えない暗闇に一条の光がさし、道が示された。文緒はそれをはっきりと見た。

 彼女は、月の宮に招かれたのだ。



「――あの人の家に、行かなきゃ」

 文緒は、袖をひっぱる彼女の手を、そっと外した。そうして正面に向き合った。

 手を離され、逃げようという言葉を柔らかに拒まれた彼女は、衝撃を受けたように瞳を揺らがせた。不安げに眉を寄せる彼女に、文緒は安心させるように微笑んだ。

「もう、暗い山道を歩かなくてもよくなるよ。……それに、あの人が君のお父さんになってくれるんだって」

「――そんなの」

 彼女は勢い込んで息を吸い、唇を震わせ言葉を詰まらせた。


 胸に溜めこまれていた思いがあふれ、狭い喉につかえているのが見えるかのようだった。泣きだしそうな顔で、彼女は言った。

「私にはお父さんもお母さんもいるよ。……でも、私はいらない子になったんだ」

 彼女は強くかぶりを振った。

「もういいの。いらない子だから、お父さんもお母さんも、いなくていい」

「……どうして?」

 今まで共に歩んできた文緒には、その言葉は真とは思えなかった。

 この子は、泣いていたはずだ。父と母を呼んで。必死に、助けを求めていたはずだ。


 けれど彼女は、むずかるように首を振り続けた。

「だって私が子どもじゃない方が、お父さんとお母さんにとって嬉しいことなんだ。――だから私、だれの子どもにもならない」

 ぽろぽろと玉のような涙を落して、それに、と彼女は言った。

「……私も、だれからも『いらない』と言われないなら、その方がいい」


 悲鳴のような訴えだった。

 親に捨てられたことは、彼女の心を打ちのめし、深く抉ったのだ。その悲しみが、怒りが、文緒には痛いほどわかった。

 その痛みは、文緒にもある。深く突き刺さった悲しみで、絶えず血を流し続けている傷が、文緒にもある。

 だからこそ、彼女の不安を取り除くために笑ってみせた。

「大丈夫だよ。……今度は、望まれて迎えられるんだから」


 彼女は祝福と共に迎え入れられるのだ。月の使者に見出されたのだから。

 もう二度と暗い山に捨てられることはない。悲しい思いをすることはない。そのはずだと、文緒は思った。



 彼女は顔を覆い、すすり泣き始めた。文緒は彼女の顔を下から覗きこんだ。

 跪いて、その手を取る。

 どうか泣きやんでほしかった。今からする約束を、どうか信じてほしかった。


 望まれたのは、彼女一人だ。文緒こそが「いらない子」なのだ。それはよくわかっていた。

 けれどこの子が不安だと言うのなら、力になりたいと思った。

「――もし怖いなら、一緒にいるから。ずっと、見ていてあげる。一人じゃないよ。」



 鼻をすすり、彼女は濡れた目を乱暴に拭った。

 こんなにかわいいのに、つい先程まで天女のような美しさでいたのに、やっぱりべそをかいた弟の仕草そっくりだった。文緒は思わず、喉の奥で笑った。

 なんて懐かしく、愛おしいのだろう。


「……文緒は、一緒にいてくれるの?」

「うん」

「本当に?」

 目元を赤く染めて、彼女は疑わしそうに聞いた。

 文緒はもう一度、心をこめてうんと頷いた。

「約束しただろ。月の宮に、一緒に行くって。だから、そうするよ」

「――わかった」

 彼女はこくりと頷いて、やっと花のような笑顔を見せた。

「約束だよ」


 そうして、彼女は「竹姫」になった。




 そして文緒は男に願い出て、その家の下人になった。

 望まれたのでない文緒が男の家に行くためには、それしかなかった。少しでも彼女の近くにいたかった。一緒にいると、約束したのだ。孤独に怯える子どものために、何としてもその約束を守りたかった。


 けれど男は――家の主人は、最初から文緒を疎んじた。

 主は竹姫を実の子であるとして、過ぎるほどかしずき愛情を傾けた。そしてその美しさを誇り、広く世間に喧伝した。だから、竹姫が実の子ではないと知る文緒が目障りだったのだ。


 文緒は輝く無欠の宝玉についた、たった一つの小さな疵だった。美しく咲き誇る花にぶらさがる、疎ましい小さな虫だった。主は文緒をそのように見なし、忌み嫌った。

 主は文緒を家に置くことを渋っていた。文緒が下人として働くのを許す代わりに、主は条件をつけた。


 竹姫の知己であると言ってはならない。

 そして、二度と竹姫に近づいてはならない――。


 会うことも、言葉を交わすことも許さない。もし破れば、屋敷から叩き出す。主人はそう言い放った。

 文緒はそれを了承した。どう思われようと、近くにいることができれば良かったのだ。

 

 だから主には、置いてくれてありがとうございますと、頭を下げた。そうやって平伏し、顔色を隠すことを覚えた。文緒の下仕えは、そこから始まった。

 姫への思いは胸の底へしまいこみ、誰からも見えないようにした。


 この誓約を、姫は知らない。


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