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かぐや  作者:
12/14

 屋敷はなだらかな山を背に建っている。屋敷の者がただ北の山と呼ぶだけの、名もない丘陵だ。その一角は竹林となっていて、屋敷の主人の所有する土地であった。

 竹林は自然に繁っているものではなく、きちんと管理されていた。太く良い竹だけを残して間引きをするので、竹林の中はよく日が差し込み、風がすずしく吹き通る。青々と高く伸びた竹はよくしなり、また色つやも良く、細工物に大変すぐれていた。

 主人自慢の竹林だ。「竹姫」の名前も、ここからきていた。


 もともと主人は、竹細工を売って身を立てた人だった。

 今でこそ蔵が建つほどの財があり、屋敷は貴人のそれと肩を並べるほど広い敷地をもっている。だがそれは、ここ十数年ほどの短い間に主が勝ち取ったものだった。それまでには、長く苦労の時代があったという。

 若い頃の主は市に出向いて、地べたに敷いた筵に、自らつくった籠やびくを並べていた。声を張り上げ、道行く人々にそれらを売るのだ。その時代を知る者は、今では主自身と、長年連れ添った妻の二人しかいない。

 そのせいか、主の竹に対する思い入れは並々ならぬものがあった。だからこの広い屋敷を造る時にも、よい竹のとれる竹林に近い、ここを選んだのだった。




 文緒はその竹林に一人、立っていた。

 警護の任の最中、こっそりと持ち場を離れて屋敷を抜け出したのだ。抜け出すのは、拍子抜けするほど簡単だった。

 相変わらず、文緒の周りには誰もいなかった。おまけに雇われ侍たちがまだ知らないような小さな潜門を、文緒はよく知っている。誰にも見咎められることはなかった。

 身の回りのものは、昨夜のうちに整理をつけてあった。ずっしりと肩に乗っていた重石がとれたような、どこかおぼつかない身軽さで、文緒はここにやって来た。



 小高い場所にある竹林からは、屋敷を見下ろすことができた。母屋の甍が満月に照らされ、鈍く光っている。東西の門近くには今夜も篝火が焚かれ、夜通しの番をする侍たちの影が動いているのが見えた。

 明るい火の傍にいる侍からは、こちらの竹林は暗闇に沈んでよく見えないはずだ。それでも文緒は用心して、竹の影に隠れるように身を寄せて、屋敷を見下ろしていた。


 少し離れた位置からこうして見渡すと、屋敷の佇まいはどこかよそよそしく感じられた。これまで長い間、あそこで働いてきたはずなのに、その実感は湧かなかった。まるで知らない場所のような気さえした。

 整った白砂の庭も、立派な門構えにも、慣れた親しみを感じることはなかった。何の感慨も湧かないことに、文緒はむしろ戸惑った。


 ――けれどそれは、文緒の心が既に、ここから離れている証しなのかもしれなかった。


 一晩、文緒は眠らず考えた。悩み惑い、考えに考えて、そして腹を決めた。

 昨晩とは違う、不思議と落ち着いた気持ちで、文緒はじっと待っていた。


 ……待ち人は、本当に来るだろうか。それは賭けでもあった。




「文緒――!」

 落ち葉を踏む軽い足音と共に、息をのむような声がした。文緒はゆっくりと、声のした方を振り返った。


 おぼつかなげな足取りで、細い道を上ってくる人影があった。

 こざっぱりとした簡素な小袖に湯巻をつけ、まとめ髪を布でくるんだその人は、一見すると風呂焚きの下女のように見えた。


 けれど近づけば、見紛いようもなかった。

 身に纏うものが変わっても、彼女の美しさは変わらない。自ずから光り輝くような、その麗しさ。――確かに、「雲居の方」だ。


 水をたたえ潤んだ瞳さえ見て取れる、その近さに文緒は息をのんだ。吸い寄せられるように見つめてしまうのを、止められなかった。夢なのかもしれないと、彼女が目の前にいることをまだ信じられなかった。



「文緒、本当に、来てくれたのね」

 息を弾ませ、姫は感極まったように口元を押さえた。文緒も同じ思いだった。

 ――本当に、彼女は来たのだ。

 それだけでもう、すべてがいいと思えた。文緒の中で、最後の心が定まった。

 万感の思いを込めて、深々と頭を下げる。

「……お久しゅうございます」

 そのまま、顔を上げることができなかった。交わしたいと思っていた言葉はどうしてかかき消えて、頭の中には何も残らなかった。

 再び会う時を、あれほど思い描いていたのに。


 姫は躊躇いがちに問いかけた。

「――鞭打たれて、寝込んでいたと聞いたけれど……」

 文緒は静かに頭を上げ、頷いた。

「もう平気です。……私のことを、お聞き及びだったのですね」

「ええ。あなたの話はいつも、人づてに聞いていたの」

 姫はふと寂しげに微笑んだ。

「会えないのなら、せめて様子を聞きたいと……。あの屋敷の中にも、私のために動いてくれる者がいるから」


 これも、と姫は麻の袖を撫でた。

「着物を用意して、密かに門を抜ける手助けをしてくれて……。この十年をかけて、私には支えてくれる人ができたわ」

 だから今までやってこれたのだと、姫は言った。



 しばし、二人の間にぽつんと沈黙が落ちた。

 互いに、この屋敷で過ごした日々を思った。幼子が大人になるほどの長い、しかし刹那に過ぎたような年月を。


 二人を取り巻く全てが変わり、道は分かれ、遠く隔てられた。もう会うことはないと諦めていた。けれどこの夜に、顔を見て、触れあうことのできる距離にいる、その不思議を思った。

 今日まで、姫がどう生きてきたのかを、文緒は曖昧に想像することしかできない。どんな道を歩んで、この人になったのだろう。文緒はその年月の欠片が見えないかと、じっと姫の顔を見つめた。


「――私も、貴女のことは、できる限り聞き集めておりました」

 文緒は少し躊躇ったが、続けた。

「……大臣様や中納言様との、ご婚儀のお噂なども」


 姫はさっと顔を曇らせた。

「……なんてひどい女だと、思ったでしょう」

 うつむいて、姫は胸元できゅっと手を握りしめた。

「難題を押し付けて、尊い身分の方々を惑わせて。――でも、誰のものにもなりたくなかった。今まで、流されるように身を任せて生きてきたけれど、それだけはどうしても嫌だったの」

 あなたには聞かれたくない話だったけれど、と姫は力なく微笑んだ。

「私の望みはただ一つ。――いつかまた、あなたに会うことだった」


 文緒、と名を呼んで、姫はそっと手を伸ばした。桜色の小貝のような爪のついた、その細い指先を、文緒はただ見つめた。

 望めば簡単に、その手に触れることができるのだ。今、それほど近くにいる。

 ――ぴくりと指が動いたが、結局文緒は手を伸ばすことはなく、また頭を垂れた。


 手を取ってしまったら、別れを告げるのを躊躇ってしまう。


「私も、姫様にお目にかかれてよかった。――最後に」



 迷いが生まれるより先に、文緒はきっぱりと告げた。

「私は今日より、この屋敷を去ります」

 姫が驚きに息をのんだ気配がした。文緒は目を閉じ、じっと返される言葉を待った。


 約束したのにと、なじられるだろうか。けれど、もう決めたことだった。

 姫に一目お会いして、そして去ろうと。


 すう、と気を落ち着かせるように深く息をついてから、姫は静かに問いかけた。

「……どうしてか、聞いても良い?」

 文緒はゆっくりと顔を上げた。けれど目は伏せたままで、答える。

「それが、お館様との誓約なのです」



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