七(下)
その子は安心したように、目を閉じた。うつむく青白い顔には、疲れが色濃く影を落としている。終わりの時は近いのだと、文緒は思った。
すぐ近くの地面の窪みに、小さな水たまりができていた。暗がりに沈んでいて見えにくかったが、水面がちらりと光の粒を映したので、それに気づくことができた。文緒は軋む体を起こし、その水たまりに近づいた。
これが、文緒がこの子にしてやれる、最後のことになるだろう。
文緒は黒く沈む水を、両の掌でそっとすくった。
水たまりは小さく、文緒の手では多くをすくい上げることはできなかった。こぼさないように注意を払いながら、ゆっくり、膝を摺るようにして子どもの傍へと戻る。
――月の光が真っすぐ降りそそぐ下に、手を差し伸べた。
「ほら、見て」
囁くと、その子は目を開け、ぼんやりと不思議そうな顔をした。
「なぁに?」
文緒はその子に捧げるように、手を持ち上げた。
文緒の掌の中の水に、粒のような月が映っている。揺らめきながらも、確かに丸い形が見て取れた。それを覗きこんで、子どもは驚いたように息をのんだ。
「わぁ――」
手の中に小さな蛍を閉じ込めたかのようだった。遥かな月の宮が今、文緒の手の中に浮かんでいた。
文緒は笑って、手をその子の口元に近づけた。
「月をあげる。――黄金の宮へ、迷うことなく行けますように」
言葉には、心からの祈りを込めた。そっと手を傾けて、月を浮かべた水をその子の口に注ぐ。
黄金の宮は砕けて光の雫となり、子どもの中へと落ちていった。
唇を湿らす程度しかない水を、じっと味わうように子どもは目を閉じ、天を仰いだ。
月明かりを浴びて、小さな顔と細い首筋が、白く輝いていた。水がその喉を下り、体を廻って隅々まで行き渡るのが、文緒には目に見えるかのようだった。深く息をするごとに、その子の何かが急速に変わっていくのを感じた。
睫毛が震えて、子どもの目がそっと開く。黒く丸い瞳が、うっとりと細められた。――今度は文緒が、息をのむ番だった。
「――ありがとう」
月を手に入れた子どもは、ふらつきながらも立ち上がった。
そんな力が、どこに残っていたのだろう。呆然と見上げる文緒に向かって、その子は大輪の花のように笑いかけた。
「月は甘いのね。今まで飲んだどんな水より、おいしかった」
たった一口の水で、子どもの顔を暗く覆っていた死気が吹き飛んだかのようだった。痩せこけたはずの頬はみずみずしく輝き、泥に汚れた髪は今や、黒く濡れたようなつやをもっていた。月の光が見せる錯覚なのだろうか、文緒は目を疑い、まじまじと見つめた。
白い光を領巾のように身にまとい、その子は堂々と立っていた。まるで今、月から降り立った天女のようだ。月の光を従えて、輝くように美しい。
――天女。そう、女の子だ。文緒は衝撃を受けて目を瞠った。
驚くほどかわいらしい女の子だと、初めて気がついた。まだ幼い童女だが、磨けばいずれ玉のごとく光る美しい乙女となるだろう。そう思わせる萌芽があった。
今まで共に過ごしていたのに、どうして気づかずにいられたのだろう。信じられない思いだった。
子どもの顔には確かに、貧しさで染み付いた翳りがあった。それは、文緒には馴染みの翳りだった。自分も兄弟も、飢えた人々の誰もがもっていた翳りだ。日の下ではそれは誤魔化しようもなく顕わで、だから文緒は、弟のようだと思ったのだった。
けれど夜の闇が翳りを溶かし、月の光が泥の汚れを濯いだ今、この子の美しさを隠そうとするものはなかった。萎れた花が水を得てふっくらと花弁を開く、それよりも速く劇的な変化を、文緒は目の当たりにしたのだ。
今までに語ったどのお伽噺よりも、驚くべき夢のような出来事だった。
「今なら、月の宮へも行けそうな気がする。不思議だね、なぜだかそれくらい、元気が出てきたの」
その子ははにかむように笑った。
きっと錯覚だ。まもなく力尽きる体が、儚い幻を見せているのだ。
けれど、彼女に満ちる生気は嘘ではなかった。弱り衰えた少女は死に、そしてまた生まれ直したかのごとく、別人のような輝きを手に入れていた。
「――ねぇ、お兄ちゃん。名前を教えて」
にっこり笑い、その子は文緒に手を差し伸べた。
光の下のその手を、文緒は呆然と見つめた。
名前――。そうだ、文緒とこの子はこれまで、互いの名も知らず歩んできた。文緒は初めて、そのことに気づいた。
これほど近くにいて、弟のように思っていたのに、名すら呼んだことがなかったのだ。今まで、そのことに何の疑問も抱かなかった。互いしかいない、ひたすら暗い山道を行く日々の中では、名前など必要なかった。文緒は尋ねようとさえ思わなかった。
空つばをのみ、文緒は答えた。
「……文緒」
緊張で声はかすれた。恐る恐る伸ばした手を、その子はすくい上げるように取った。
「お兄ちゃん、文緒っていうんだね」
嬉しそうに声を弾ませ、少女はぎゅっと文緒の手を握った。
「ありがとう文緒。お話をしてくれたことも、月を溶かした水をくれたことも。今まで文緒と一緒だったから、怖くなかったよ」
文緒はぽかんとしたまま、彼女を仰ぎ見た。
「わたしの名前は――」
文緒は彼女の名を知った。その後長く胸中で呼び続けることになる、その名を。
そして、月からの使者が来た。