七(上)
この話には、一部「野ざらしの死体」に関する描写があります。
該当箇所は、◆に挟まれた部分です。
ご不快に思われる方は、大変申し訳ありませんが、該当箇所を読み飛ばす等のご対策をお願いいたします。
この件に関しては、4月14日の活動報告に記してあります。
幼い文緒とその子がついに力尽きて動けなくなったのは、どこかの竹林の中だった。
足は文字通り棒きれのようになり、もう歩く気力も失せていた。体は疲れ果て、力が入らない。空腹で頭がぼんやりと霞み、全てを億劫に感じた。
二人は肩をくっつけて寄り添い、青々と伸びる竹にもたれていた。遥かな空には満月が雲間からのっそりと顔を出し、竹の葉をかきわけて白い光が降り注ぐ。文緒とその子は言葉もなく、それを仰ぎ見ていた。
◆
夜の闇と月明かりは、文緒たちの黒く汚れた手足を上手く隠し、洗い流したように白く見せていた。だがやせ細った腕が本当に骨のように見えて、文緒はぼんやりと、同じだと思った。
住んでいた家の近くの河原にも、たくさんの骨が転がっていた。今の自分は、あの人たちと変わらないのだと思った。彼らも長い間雨風にさらされて、白い骨になったのだ。それは文緒のよく知る光景だった。
昔、まだ兄弟が生きていた頃には、その光景はとても恐ろしかった。白い骨と、まだ骨になっていない人々が転がる河原を見て、文緒は恐ろしくて飛ぶように家に逃げ帰ったのだ。そして母の袖にすがりついて、震えていた。母に背を撫でてもらって、怖いことは何もないのだと思えるまで。
けれど今は全て遠く、現実感がなかった。今や自分も、彼らと同じようになるのだと、淡々と思うだけだった。もはや逃げ帰る家も、すがる袖もないのだ。
◆
肩にかかる子どもの重みは、羽のように軽いものだった。その子は文緒の肩に額を預け、目を閉じていた。
眠っているのかもしれない。いや、もしかして――。文緒はそっと、その子のこけた頬にへばりついた髪をかき上げてやった。そして、青白く見える顔をじっと注視した。
口元が動いて、薄い胸が僅かに上下する。――まだ、生きている。文緒はほっと息をはいた。傍らの温かさには、まだ、命があるのだ。
けれど、この夜は明けないだろう。
文緒はうっすらと、それを予感した。自分もこの子も、朝日を見ることはない。じきに、小さなともし火は吹き消えるだろう。力の入らない体が、そう告げていた。
けれど、文緒には不思議だった。
暗闇も死も恐ろしいはずだ。それなのに、恐怖はなかった。恐ろしさは、肩に寄りかかる温かさが吸い取っているかのようだった。寂しさも悲しみもなかった。
すごい、と文緒は思った。この子が怖い思いをしないように、文緒はお伽噺を語っていたけれど、いつの間にか慰められているのは文緒の方だったのだ。恐怖も寂しさもないのは、この子のおかげだった。
黄泉路へと旅立とうとするこの時に、一人ではないことが、ただ嬉しくほっと安心することだった。文緒はくたりと垂らされたその子の手を取り、感謝をこめてそっと握った。
子どもは瞼を震わせ、ゆっくりと目を開けた。
起こしてしまったかと、文緒は少し申し訳なく思った。その子はぼんやりと文緒の顔を見て、それから空を仰いだ。竹の葉の間からこぼれる月明かりが頬にさし、その子は眩しそうに目を細めた。
「……お月さま、まあるいね」
ぽつりともれた言葉に誘われるように、文緒も天を見上げた。
「……本当だ」
遥か遠くにかかる月なのに、やけに大きく見えた。うさぎの影の模様も、くっきりと見える。……あれをうさぎなのだと教えてくれたのも、母だった。
「ねぇ、お月さまのお話、もう一回して」
天を仰ぐ子は、文緒の手を小さな力で握り返してねだった。
月の話、と文緒は頭の中を探った。そういえば前に一つ、話したことがあった。
「――黄金の月の宮の話?」
「うん」
その子はこくりと頷いた。本当は、話すことも億劫だったけれど、文緒は乾いた唇を舐めて話し始めた。
お伽噺もきっと、これが最後なんだろう。そう思えば、惜しむことはなかった。
「……月には、まばゆく輝く大きな宮があって、満月の日には、そこで宴が開かれる。きれいな天女さまがひらひら舞って、笛と太鼓が賑やかに鳴るんだ。甘い果物と、お酒と、ごちそうがたくさん並んで……」
今、あそこでその宴が開かれているのだろうかと、文緒は黄金の月をじっと見つめた。
「そうして宴も終わる頃、月に住む仙人さまと天女さまは光の雲に乗って、下界に下りてくる」
その光の雲からは、艶やかな楽の音が鳴り響き、芳しい香りがするのだという。宴に飽いた月の人々は、下界を眺め遊ぶのだ。天上人にとっては輝かない黒い土も、黄金でできていない木々も、珍しくおもしろいのだろうか。
――そして月の住人は、下界で見つけた佳人を、宴に招待する。
「よほど素晴らしい人でなきゃ、宴には招かれないんだ。……詩歌や管弦の才ある人とか、姿の美しい人とか。だから招かれるのは、すごく名誉なことだ」
けれど月は、地上とは違う。
「気をつけなければいけないのは、一度月に行ってしまえば、なかなか帰ってこれないこと。時の流れも違うから、注意しなくちゃいけない。地上に戻って来たときに、知り合いが誰もいないことになるから」
静かに文緒の話を聞いていた子どもは、少し首を傾けた。
「……お兄ちゃん、月に行きたいと思う?」
急に問われて、文緒は言葉に詰まった。
そんなこと、考えたこともなかった。
「――わからない」
文緒は素直に答えた。そして逆に、問い返す。
「……月に、行きたいの?」
「うん」
その子はすぐに頷いた。迷いのない、真っすぐな答えだった。
「そんなにいいところなら、行ってみたい。……簡単に戻って来れなくても、いいから」
遠くへ思いを馳せるような口調だった。この子にも戻ることのできる場所はないのだと、文緒は思い知らされた。
進む先も戻る場所もない、二人が在ることを許されるのは、今この竹林だけだった。
輝く月の宮の下、そこに行くことを夢見て、二人は淡く微笑み合った。その子は無邪気に言う。
「一緒に行こうね」
「……うん」
文緒は小さく頷いた。
この子のようにひたむきに、月へ行きたいと思っているわけではなかった。でも、ついて来てほしいと言うのなら、共に行こう。
文緒を少しでも必要としてくれるのはきっと、この世でこの子だけなのだ。