月神様のお気に入り
最初に玄関の扉を見たのは、ジグルドが拾ってきた一匹目の猫アンディだった。
次に二匹目の猫シナモンが扉を見た。
それから三匹目の猫クリステルが扉に視線をあてた。
小さな屋敷にはジグルドの拾ってきた十匹の猫がいた。十匹とも黒猫である。その十匹の猫の全てが扉をジッと見つめていた。
3年前、冬の残り香を含んだような冷たい風が吹く早春に婚約者のジグルドがリリージュの元へ忍びこんできた。平らな外の石壁をナイフを使って登ってきたのだ。
「ごめん。外壁をちょっと抉っちゃった」
ヒョイと窓を乗り越えてくるジグルドに、リリージュがびっくりして目を見開く。
「リリージュ、僕たち結婚したからこの屋敷を出よう。持っていきたいものはある?」
いきなり結婚しようではなく結婚した、と言うジグルドにリリージュは困惑して首を傾げた。
「結婚?」
「そうだ、リリージュと僕は結婚した。前に結婚式ごっこしたことがあっただろう。アレは本物の申請書だったから、それを出したんだ。新しい家は買ってある。小さい家だけど治安のいい場所だから安心してくれ。小さな庭もある、猫たちもいっしょだ」
ジグルドはエルヴァス侯爵家の三男で17歳。
王宮近衛隊の騎士で、拾った黒猫とともに侯爵家の屋敷で暮らしていた。黒猫は一部の人間から不吉とか縁起が悪いと恐れられて迫害対象であった。なので猫好きのジグルドは、捨てられた黒猫を発見しては保護していたのだ。
ジグルドとリリージュは幼い頃から婚約を結んでおり、ラオン伯爵家の一人娘であるリリージュの婿になる予定であった。しかしリリージュの母親が亡くなり、状況が変わってしまった。ラオン伯爵が愛人と再婚したのである。
愛人には男児がいた。ラオン伯爵の息子である。
結婚により男児はラオン伯爵の正統な子息となり、これによりラオン伯爵家の継承権はリリージュから異母弟に移動したのだった。ロマリア王国では女性よりも男性に家の継承の優位性があったからである。
そのためリリージュとジグルドの婚約は解消寸前となってしまった。
ラオン伯爵家ではもう婿の必要性がなく、エルヴァス侯爵家では婿入りの約束での契約だったことから婚約の継続の意味はない。かといってリリージュをエルヴァスに嫁入りさせる利点が政治的にも経済的にも双方の家にはなかった。
故にラオン伯爵家とエルヴァス侯爵家では婚約解消の方向に話が進んでいた。どれほど愛しあっていたとしても、そこにリリージュとジグルドの意思は関係なかった。家の問題であり貴族の政略として、婚約の処理が進行していた。
だがジグルドは納得できなかった。
家がジグルドの意思を黙殺するならば、ジグルドも家を不要とするだけである。
心からリリージュを愛していたのだ。リリージュと絶対に結婚をしたかったのである。
ましてや婚約解消後にリリージュは、悪評が立っている父親よりも年上の子爵の後妻として商取引を有利にするために、ラオン伯爵によって売られるみたいな結婚が決定しているのだ。リリージュの不幸な結婚をジグルドは許すことができなかった。
愛を優先するジグルドは貴族としては失格だ。
だから侯爵子息としての恩恵は捨てるつもりであったし、平民になる覚悟もあった。
この時、ロマリア王国は隣国と戦争中であった。
近衛騎士隊所属のジグルドには出征の命令はなかったが、ジグルドは戦線へ自ら志願をした。戦場へ赴く騎士には騎士爵が授けられたからだ。
騎士爵は栄誉制度における称号で保持は一代限り、政治的な特権もない。明確な爵位ではなく栄誉称号である。しかし騎士爵となれば、ジグルドはエルヴァス侯爵家の戸籍から離れて独立した家長となれた。つまり、家族に対する統率権や支配権を所有する父親のエルヴァス侯爵の影響下から自由になったジグルドは、自分の意思での結婚が法的に可能となるのである。
しかも、戦場へ赴く騎士や兵士には暗黙の了解で結婚認定が平常時に比べてとてもユルかった。
書類提出だけで即時に許可がおり、ジグルドの場合はラオン伯爵家とエルヴァス侯爵家の邪魔が入ることのない好都合な強みとなったのである。後継でなかったからこその思い切った行動であった。
結婚に至るまでの経緯を説明されて、リリージュは真っ青になった。
「そんな……! 戦地に行かれるなんて……」
「リリージュとの結婚のためでもあるけれど、それだけじゃない。仲間が戦場で戦っているのに、僕は安全な王都にいるのが辛かった。高位貴族で、近衛隊だから。王族の警護も重要な仕事だ。でも僕は国民を守るために戦いたい。リリージュとの駆け落ちも考えたけれども、僕は仲間も国民も見捨てられないんだ」
真剣な口調なジグルドに、リリージュは何も言えなかった。リリージュも貴族の娘である。民を守る義務と責任の教育を受けてきたのだ。
「それよりも勝手に結婚の届け出をして、ごめんよ。ラオン伯爵と父上のエルヴァス侯爵の目があるから内密に行動したんだ。リリージュの了承の確認をしなかったこと、悪かった……」
深く頭をさげるジグルド。
あわててリリージュは言った。
「だって私たち、婚約を解消するからと会うことを禁じられていたのですもの。しかたないことです」
「リリージュ、怒っていない?」
「むしろジグルド様と結婚できて嬉しいです。貧乏になっても苦労とは思いません」
ホッとジグルドが息を吐く。
「じゃあ、ラオン伯爵に見つからないうちにちゃっちゃっと屋敷を脱出しよう。執事とメイド長は買収しているから外に使用人はいないよ」
持参したロープを窓から垂らす。ジグルドは布と紐でリリージュを巧みに背中に縛って、3階にある部屋から足を踏み出した。
リリージュは怖くはなかった。
ぎゅっとジグルドの背中にしがみつく。
心残りなぞない。父親のラオン伯爵は母親を裏切っていた。ずっとリリージュのことを道具のように扱ってきた。ある意味、ラオン伯爵は貴族らしい貴族だ。踏みつけている足の下を見ないのである。
そうして母親の形見だけを持った15歳のリリージュを、ジグルドはラオン伯爵家からこっそりと攫うようにして連れ出したのだった。
「ここが僕たちの家だよ!」
古びた家だった。平民の家としては大きく、貴族の屋敷としてはかなり小さい。壁には触手のような蔦が這い、屋根には草が生えて春を待つ花の蕾がチラホラと揺れていた。庭も然り。果樹の木があり、草萌えの若草が大繁殖して庭一面を覆っている。
よくいえば、わさわさと繁った緑と調和した家であった。
ぽかんとリリージュが雛鳥みたいに口を開ける。
使用人に傅かれて育った伯爵家の令嬢であるリリージュにとっては別世界のような家であった。
それでもリリージュは夢のように嬉しかった。
リリージュとジグルドの家である。
「ありがとうございます、ジグルド様……」
リリージュの次の婚約を阻止するためにどれほどジグルドが奔走したのか、想像ができたリリージュは胸がいっぱいとなる。涙腺がゆるむ。
「凄く、凄く、嬉しいです」
ぽろりとまろやかな頬に涙が伝った。
ジグルドがリリージュを抱きしめる。指先で優しく涙を拭った。
「生活も心配ないからね。騎士の給料を友人の商会に投資して増やしたんだ、……戦争のせいで急激に利益が。慎ましくすれば生涯暮らせる資産となったから。財産も家もリリージュの名義にしてある。一人暮らしは危険だから、母親の祖父であるマグネス公爵に後見を頼んであるし、通いの使用人も公爵家から紹介してもらって不便のないようにしてあるよ」
「ジグルド様……」
「僕、明日には出陣なんだ。困ったことがあればマグネス公爵家に言うんだよ。ラオン伯爵家もエルヴァス侯爵家もマグネス公爵家には逆らえないから。実はエルヴァス侯爵家の母が密かに味方になってくれているんだ。隠れて色々と手配をしてくれている。母の存在は秘密にしていた方が、ラオン伯爵家とエルヴァス侯爵家を欺けるからね」
腹黒く笑うジグルドにつられてリリージュも微笑む。ジグルドに全信頼を置いている、そんな笑顔。
きゅうぅぅん、とジグルドは胸をおさえた。激情と愛おしさで心臓が脈打つ。
僕の花嫁が世界一可愛い! と。
可愛い、可愛い、と口の中で飴玉のように言葉をコロコロ転がす。リリージュにはカッコイイ婚約者と思われていたいので一生懸命に表情を引き締めたが、ジグルドの目尻はデレッと下がってしまっていた。
「さぁ、どうぞ」
ジグルドが玄関の扉を開くと、一斉に宝石のような目に見つめられた。サファイア、エメラルド、トパーズ、シトリン、アレキサンドライト、光を反射して煌めく猫の目。
ニャア、と鳴声で歓迎の挨拶をしてくれる猫もいる。ジグルドの婚約者として頻繁に会っていたため、どの猫ともリリージュは顔馴染みであった。
「本当はリリージュをもっと早く迎えに行きたかったんだけど、引っ越しをしたら猫たちにストレスがかかって。この家に慣れるために時間をかけていたら、ギリギリになってしまったんだ。ごめんよ」
「いいえ、猫が優先なのは当たり前です。アンディやシナモンは私と婚約する前からジグルド様の猫だったのです。大切にすることは当然です」
リリージュはしゃがんで、寄ってきた猫たちを撫でる。
「これからよろしくね。アンディ、シナモン、クリステル、マデイラ、リイル、ライラ、ギルバート、セリーヌ、ユリリア、トミー」
ニャア、と猫たちが機嫌よく返事をする。
その夜は時間を惜しむように、リリージュとジグルドはおしゃべりをした。
家のベランダのカウチに並んで座り、空高い月を仰ぐ。天空の星の動きさえ聴こえてくるような静寂の夜。清々しく優美な月光が、リリージュとジグルドを包むように優しく照らしてくれていた。
「帰ってきたら結婚式をあげようね」
「はい、ジグルド様。私、ウェディングドレスに刺繍をします。ベールにも。ジグルド様の髪と同じ色の銀の糸で」
「手紙を書くよ。たくさん」
「私もたくさん手紙を書きます」
「今夜みたいに月を見上げるよ、リリージュも月を仰いでくれる?」
「毎夜、月を見ます。違う場所にいても、いっしょに同じ月を見たいです」
「うん、いっしょに見ようね。そうだ、歌も歌ってくれるかい?」
「歌を?」
「僕はリリージュの歌が好きなんだ。届かなくとも幻聴が聴こえるかも知れない」
「約束します。歌を歌います、ジグルド様を想って必ず毎晩」
手を握るだけの、清らかな月の夜。
それ以上のことをジグルドは望まなかった。
万が一、子どもを身籠れば苦労するのはリリージュだと理解していたからだ。
寄り添うリリージュとジグルドの周りを猫たちが囲んで、とろりとした体温で柔らかく温かなぬくもりを分けてくれたのだった。
次の夜からリリージュは、欠かすことなく月に向かって歌を捧げた。側には猫たちがいた。夜の眷属のごとき黒い色を纏った猫たちは、闇にとけるように無重力の色彩で音もなく動く。
リリージュは知らないが、猫たちは家の戦力であった。
一人暮らしのリリージュを狙う不埒な企みを持つ者は、闇と同化した猫たちの鋭い爪によって撃退されていたのだ。黒い蝶のごとくヒラリと飛んで、黒い鳥のごとく速く、残虐に。ちっこい暗殺者みたいに、ニャアと。
音を最小限に抑えた歩き方で。
スリリと甘く、猫たちはリリージュの歌を楽しみにして身を寄せる。
リリージュの声は澄んでいるが、歌手になれるほどに歌は上手くない。
だが、純粋な愛があった。
一途に乞い願う心があった。
真摯な祈りの想いがあったのだ。
だから。
「……歌が聴こえる……」
月夜の国境沿いの戦場で、ジグルドは耳をすました。ジグルドだけではない。一人、二人、百人、千人、一万人、騎士たちも兵士たちも医師たちも雑役夫たちも戦場にいるロマリア王国側の全ての人間に歌が届いた。
大気を揺らして、風に乗り。
細く。
高く。
月光をそのまま音にして、歌声として降らせたような。
神秘的で。
魅惑的に。
天上の鐘のごとく戦場に響いた。
すると傷を負い、苦痛に呻いていた者たちがハッとして叫んだ。
「痛くない! 歌を聞くと痛みが消えた!」
「俺もだ!」
「この歌の効果なのか!?」
瀕死の者には安らかな眠りに導いた。
「ああ……。もう痛くない」
「家族の姿が見える……。笑っている、俺は家族を守れた……」
あるいは戦場で猛り狂った精神を、削られて挫けそうな気力を、崩れる寸前の心を健やかに癒やした。
「なんだか心が落ち着く……」
「凄く楽になった……」
「疲れが和らぐ……」
ジグルドには歌声が、リリージュのものだとわかっていた。
何故リリージュの歌声が戦場に届くのか理由は不明だが、ジグルドは現実を直視する性格だった。
ゆえに誰にも教えなかった。
毎夜響く歌声は、ロマリア王国側の人間の渇望となっていたからだ。餓え渇いた人間が水を求めるように。人間の腐敗臭と金属の軋む音、血が命の滴となって零れ落ちる戦場で百と千の夜を重ねて。強く、強く、求め、焦がれ、支えとなっていたのである。
「夜になれば痛みが消える、頑張れ」
「早く夜になれ、怪我人も病人も痛みがなくなれば眠れる。回復の助けとなる」
「俺の精霊、歌を聞かせてくれ。そうすれば明日も戦える」
「違う、聖女だ」
「戦場で挫けない勇気をくれる天使だよ」
不思議な歌声は王宮へも報告が届けられ、わざわざ第二王子が派遣されて戦場の指揮官となっているほどに重視されていた。
ジグルドが歌声の正体を明かしてしまえば、王都で一人で暮らすリリージュの危険に繋がる可能性があったのである。
用心して、ジグルドは手紙を一度しか書かなかった。
『最初で最後の手紙だ。返事もいらない。愛している、家で待っていてくれ』
手紙には検閲がある。沈黙は、遠く離れた戦場にいるジグルドがリリージュを守る唯一の術であったのだ。
くわえてジグルドは戦場で武功を重ね、その名声を利用してリリージュの境遇を秘密裏に社交界に流し、エルヴァス侯爵とラオン伯爵の立ち位置を微妙にさせていた。下手にリリージュに干渉すれば、家門に傷がつくように謀略したのだ。
「やぁ、ジグルド」
近づいてきた第二王子に、ジグルドは騎士の礼を執る。
「今日の鬼神のごとき働き、見事であった。褒美をやろうと思ってね」
「いえ、殿下には王都の社交界に流す噂の協力をしていただきました。もう褒美は十分にございます」
「欲のない奴だな。若いのに冷静沈着だし、皆が聖女のことで騒いでいても理性的だし。もっと人生を楽しんで弾けろ」
「弾けていますよ。僕は妻と誘拐婚に等しい結婚をしたくらいですから」
ジグルドは戦場でリリージュの名前を呼んだことすらない。月夜の歌声に魅せられている者は多いのだ。念には念を入れるほどの警戒心を解くことはなかった。
「そうだった、新婚だったな。おまえも皆も家族が待っている。我らは聖女の恩恵によって士気は高く、死亡率は低くなった。絶対に勝つぞ」
「はい、殿下。王国に勝利を」
最後まで聖女という言葉には反応せず、王国の騎士として忠誠を誓う礼を執ったジグルドは表情を隠すみたいに再び頭を垂れたのであった。
一方、王都でのリリージュの昼間は忙しかった。
通いの使用人から料理や洗濯や掃除を習い、セッセと働いた。特に猛威をふるう庭の雑草相手に戦い続ける。悪戦苦闘してドンドンと雑草を引き抜く。屋根の花々と壁の蔦は気に入っていたのでそのままだが、庭は各種の虫の生誕場所となっていたので半泣き顔になっても手を抜かなかった。
「アンディ、蛇をやっつけて」
「ライラとマデイラは蝉をお願い」
「皆、虫を残らず退治して。私、虫はダメなの、苦手なの」
ニャア、と猫たちもキビキビ働く。ちょこっと遊びつつ、美味しくいただきながら猫たちによって虫も蜥蜴も蛇も鼠も撲滅されていった。
リリージュと猫たちの努力の成果で、庭は日々変わっていく。
「ジグルド様が手紙はダメというのは、きっと事情があるのよ。でも家で待っていてくれ、って。だから家も庭もピカピカにしてジグルド様を驚かせるの」
目標に邁進して、リリージュは労働を厭わない。貴族の令嬢であったのに、あっという間に働き者の手となった。太陽に焼けた小麦色の肌となる。
「私とジグルド様の家だもの。雑草なんかに負けないわ」
ニャア、と猫たちが同意する。
「あなたたちの家でもあるものね。猫草を植えて、花も植えて、綺麗に整えましょうね」
季節が巡り、光の色と角度が変化する。
春の柔らかな光から夏のギラギラと鋭い光へ。グラデーションしつつ秋の透明感のある光となり、冴え冴えとした冷たい冬の光となり、循環してまた春の華やかな色となる。
リリージュが丹精を込めた庭も、春の花々が溢れ咲き、夏の風が吹きわたり、秋の葉が鮮やかに色づき、冬の氷の花が煌めき、また春の花の色に染まった。
そして3年。
戦争はロマリア王国が勝利しての終結となった。
その日はロマリア軍の凱旋パレードだった。
総指揮官である第二王子を先頭に騎士たちと兵士たちが行進する。壮麗で勇ましいパレードであった。
両脇では人々が地鳴りのような歓声を上げ、花びらを撒く。
その中にリリージュの姿もあった。
麦わら帽子に質素なワンピース、庭で咲いた花を透き通るみたいな紅茶色の髪に挿していた。
勝利を称える大歓声である。
普通ならばリリージュの声は、人々の大声にかき消されるはずだった。
なのに。
何故か。
リリージュの澄んだ声が響いたのである。
「おかえりなさいませ」
バッと第二王子が振り返った。
騎士たちも兵士たちも声の方向に顔を向ける。
運のいいことにリリージュは群衆の後方にいた。
視線の集中に恐怖したリリージュは、狼狽えて急いで逃げ出す。前列の誰かを見たのかも、と考えたものの直感が警鐘を鳴らしたのだ。
王子たちはパレードの列を乱すわけにはいかず、リリージュを即座に追うことができない。
たちまちリリージュは、人波のうねりに吸い込まれるように消え去ったのであった。
逃げ帰ったリリージュは家で息をひそめた。震えて、猫たちを抱きしめる。
リリージュは知らない。自分が戦場で何と呼ばれていたのか、を。
だが貫くような視線に危機を感じたのだ。
そして、それは正解であった。素早く逃げたのでリリージュの顔は見られなかった。麦わら帽子も顔を隠す役割をした。間一髪でリリージュは、聖女と祭りあげられる未来を回避したのである。
やがて真昼の明るい日差しが西の地平に傾き、影絵のような夕闇になる頃。
一匹、二匹、三匹、十匹の猫が玄関の扉に視線をあてた。
ゆっくりと扉が開く。
「ただいま」
リリージュと十匹の猫たちが、ジグルドに飛びついた。受けとめても、鍛えた騎士のジグルドは揺るぎもしない。全身べったりと隙間なく、リリージュと黒猫まみれになったジグルドは幸福そうに笑った。
ニャア、猫たちが幸せそうに鳴く。
リリージュも幸せを滲ませて笑う。
「おかえりなさい、ジグルド様」
「にゃん、にゃん、にゃん、にゃん、にゃん、にゃん、にゃん、にゃん、にゃん、にゃん」
庭にも屋根にも花々が咲き溢れている美しい花飾りの小さな屋敷は、幸福な笑い声に満たされたのであった。
『初々しい新婚さんだったからね。歌も好みに合ったし、黒猫も可愛かった。ふふ、ほんの少しだけ力をかしてあげたのさ』
リリージュの歌声には癒やす力はありません。
月が力をのせたので、強い作用がおきました。
でもジグルド一人に歌を届ける精密なコントロールが面倒だったので、あの集団の中にいる、とロマリア軍全体に歌が響くこととなりました。
読んでいただき、ありがとうございました。
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