怯える日々から卒業を
タオルケットを卒業させられた日から、卒業という言葉が嫌いになった。
赤ちゃんの時から使っていた、それじゃなきゃ眠れなかった私のタオルケット。真っ白なタオルケットの端っこに赤い蝶が描かれていて、私はいつもそれを撫でながら眠っていた。
大好きだったタオルケット。それなのにお母さんは私が止めるのも聞かずに、簡単に捨ててしまった。
もう赤ちゃんじゃないんだから、タオルケットは卒業しなきゃ。お母さんは笑ってそう言った。
お別れも言えず無理やり「卒業」させられたのはタオルケットだけではない。その歳で使うには幼いとお母さんが少しでも思ったものはすぐに捨てられてしまう。
お母さんに悪気はないのだ。悪気がないからこそ私が泣こうが喚こうが悪いことをしたとは思わない。子どもの成長のためには仕方ないと割り切っている。私がどれだけ、どれだけ悲しんだかも知らず。
だからいつしか私はお母さんに大切なものを見せないように、教えないようになった。
知らないものを「卒業」させることはできないから。
小指の爪に塗ったマニキュアを落とし忘れていると気がついたのは、朝のホームルームが始まる前だった。
気づいた瞬間に白いマニキュアと同じように血の気が引くのが分かった。
どうしよう、ということだけが頭を占めた。気づかれないだろうか、今日一日。手を握っていれば、大丈夫だろうか。いやでも、今日は体育がある。バドミントンのラケットを振らなければならないし、体育教師はかなり厳しい。気づかれないのは無理だろう、どうしよう。
うちの学校はすごく校則に厳しいわけではないけど、特別緩いわけでもないから、マニキュアを塗っているとバレたらどの教師でもそれなりの説教くらいはあるはずだ。
それだけならいい、それだけなら。怒られるだけなら謝ればいい。でももし、もしも家に連絡があってお母さんに知られてしまったらどうしよう。
また「卒業」させられてしまうかもしれない。そう思ったら大人しく座っていることなどできなかった。
水で擦るくらいでは落ちないと頭ではわかっているのに何もしないではいられなくて、トイレに向かおうと足早に教室を出た。
早く早くと気持ちが急いでいたせいか、廊下で人にぶつかりそうになってしまった。慌てて一歩下がりながら頭を下げる。
「ご、ごめん」
ぶつかりそうになったのはクラスメイトの佐久間くんだった。
怖い先輩じゃなかったことに少しほっとする。佐久間くんとはあまり話したことはないけど、よく挨拶してくれるし、いつもにこにこと笑っている穏やかそうな人だから。
「それ」
急いでいるから、と横を通り抜けようとしたその時、佐久間くんは真っ直ぐに私の手を指差した。
「落とし忘れ?」
マニキュアを塗った指のことを指しているのだと、すぐには気づかなかった。
数秒遅れてから、パッと手を隠す。ほんの一瞬だったはずなのに、小指一本爪一つのことなのに、どうして気づいたのだろう。
「ちょっと待ってて」
私の混乱など気にも留めず、佐久間くんはそう言い残して教室に入ってしまった。
これは、私はどうすれば……と迷っている間にも佐久間くんはすぐに教室から出てきた。
「はい、除光液。すぐ落とせばホームルームには間に合うと思うよ」
佐久間くんはそう言って私の手に滑り込ませてきた。
咄嗟に返事ができなくて、中途半端に口を開けて佐久間くんを見上げてしまう。
あ、とようやく声が出た時、佐久間くんは小さく笑った。
「なんでこんなの持ってるの? って言いたい?」
「え?」
「違った?」
諦めたみたいに笑うんだな、と何故か思った。どうしてこんな風に笑うのだろう。いつもの柔らかな笑い方とは違う。
そして言われてみて初めて、確かになんで持っているんだろうと思った。たまたま持っていた、という種類のものではないだろう。でもそれを問い正したいわけじゃない。
「え、あ、いや……お、お礼を、言いたかった、だけで」
もごもごと口にすると、佐久間くんはなんだそんなこと、と言いたげに軽く首を振った。
「ああ、いいよ、そんなの。俺もたまに塗るから、持ってただけ。落とし忘れると困るよね。気持ちわかるから渡した、それだけだよ。ま、あんまり言いふらしてほしくはないけど」
「い、言わないよ」
「そう。ありがとう」
じゃあ、と言って佐久間くんは教室に入ってしまった。
私は少しの間ぼうっとして、それから急がないと、と慌ててトイレに向かった。
マニキュアは問題なく落とすことができて、ホームルームにも間に合ったけど、その日のうちに佐久間くんに除光液を返すことはできなかった。
家に着き、お母さんがまだ帰ってないのを確認してから自分の部屋の押し入れを開ける。
見つからないようにと奥に仕舞い込んだ箱の中のマニキュアの瓶を取り出し、私は息を吐いた。
たまたま出掛けた先の店で見つけた、光に透かして揺らすときらきらと真珠みたいに輝くこのマニキュア。
これが目に入った瞬間、私は驚くくらいに惹きつけられた。そしてすぐにこの瓶を手に取ってしまって、どうしても手放すことができなかった。
大切なものはお母さんに知らせないためには、そもそも作らないのが一番いい。こんな風に素敵なものに飛びついて、そして捨てられたことが何度あっただろう、わかってる。買わない方がいいってわかってた。それでも手放せなかった。
結局、私はそれを買ってこっそり家に持って帰り、時々部屋の中で爪に塗っては眺め、すぐに落としている。昨日はうっかり忘れてしまったけど。
「気をつけないと……」
お母さんに見つかってしまったら、と思うと反射的に怖くなってしまう。
学校につけて行ってしまったということは朝もつけたままだったということだ。気づかれなかったのは運が良かった。
お母さんは私がマニキュアを塗っていることなんて何も知らない。絶対に気づかれたくないと思っている。
ぎゅ、と瓶を手のひらで包み込みながら思う。だからこそ、佐久間くんが除光液を貸してくれて本当に助かった。
「ちゃんとお礼、言わなきゃ」
何故か私の方がお礼を言われてしまったのだから、返す時にはちゃんと言わないと、と私は自分に言い聞かせた。
言いふらしてほしくない、と佐久間くんは言っていた。だからきっとマニキュアのことはクラスメイトや友達に知られたくないのだろう。それなら除光液を教室で返すわけにはいかない。
佐久間くんはいつも友達と一緒にいる。クラスの中でも賑やかなグループの一人なので、声を掛けるのも簡単ではない。
どうしよう、と悩んでいる間に一日が終わってしまい、次の日はもっと真剣に声を掛けるタイミングを見計らった。
移動教室の間、たまたま佐久間くんが一人になったのを見つけた。
「佐久間くん」
私は心底ほっとしながら背中に向かって声をかけた。あ、田城さん。と振り返ってくれたから、私はいつでも返せるようにポケットに入れていた除光液を取り出す。
「これ、ありがとう」
佐久間くんはちょっと驚いたような顔をした後に、首を振りながら微笑んでくれた。
「ああ、よかったのに」
「ううん、本当に、助かったから。ありがとう。あ、えっとこれ、よかったら」
なにかお礼がしたくて、でもあんまりかしこまったものにしたら余計に気を遣わせるかと思って、結局私が最近よく食べているいちごミルクの飴を渡すことにした。
この飴も前に食べて気に入ってからこっそり買って食べている、お母さんの知らない私の好きなものの一つだ。多分見つかったら、そんな子どもっぽいもの、と言われてしまうから。
「あ、美味しそう。ありがとう」
嬉しそうに受け取ってくれて安心する。でもそこで終わってしまうと思った。
私があと数秒黙っていたらきっと佐久間くんは「じゃあ」と言って友達の輪に戻ってしまう。
お礼も言えたし、除光液も返せた。終わったって問題ないはずなのに、何故だかそれを惜しいと思った。
「佐久間くんは、どんなマニキュアするの」
どうしてまだ話をしていたいと思ったのかわからない。わからないのに、口が先に動いていた。この人をここに繋ぎ止めるために。
佐久間くんは少しの間私の顔を見ていた。気まずく思ってもおかしくないのに、何故か私は言わなきゃよかったとは思わなかった。ただ見つめ返すことになんの躊躇いもなかった。
佐久間くんは周りを確認する素振りを見せてから廊下の隅に寄り、無言でスマホを操作し始めた。
「こーいうの」
そう言って見せてくれた写真に一瞬息が止まった。
「かわいい……」
淡い白に近いピンクが先端に向かって濃いピンクのグラデーションになっていて、キラリと光るストーンが置いてある。とても綺麗だった。
「え、す、すごいね。自分でするんだよね?」
「うん、好きなんだ。あ、この飴の色だな」
くる、と手の中の飴を回しながら佐久間くんは笑った。確かによく似ている、と嬉しくなって頷く。
「田城さんのこの前してたのも、綺麗だった」
私は何故か泣きそうになった。泣きそうになった自分に笑ったから泣かなかったけど。
「うん、すきなの」
好きなものを好きだとこんなにはっきり言ったのはいつ以来だろう。お母さんに隠すようになってから、私は友達にも素直に好きなものを好きだと言えなくなっていたように思う。
いつも曖昧な返事や曖昧な微笑み。そればかりだった。なのにこんなにすんなり言葉が溢れる。
「あれ、すごく好きなの。好きだから、明日学校ってわかってたのに、つい塗っちゃったの」
「はは、わかる。やっちゃうよな」
わかるわかる、と佐久間くんは頷いて、他の写真も見せてくれた。
「これは姉ちゃんの爪、借りてしたやつ」
「わ、すごい」
「あんまさせてくれないんだけどね。練習に他人の手が借りたいんだけどなぁ」
すいすいとスクロールを繰り返す佐久間くんの横顔を見上げる。
私の視線に気づいたのか佐久間くんはこちらを見て、少しだけ眉を下げた。
「ネイリストになりたいんだ」
秘密ね、と冗談ぽく佐久間くんは言ったけど、冗談じゃないとわかる目をしていた。
「友達に頼めばいいじゃんって姉ちゃんは簡単に言うけどさぁ、まあなんか、ちょっと、頼みにくいんだよなぁ」
友達にも言えないという気持ちは私にもよくわかった。仲の良い友達にはなんの秘密もないことが良い、という風潮にも私はよく困らされていたから、言ってみれば、なんて軽々しく言えるはずもない。
そして佐久間くんの言葉が本気だということもわかったから、私は今度もやっぱりちゃんと考える前に口を開いていた。
「練習、私、じゃだめ、かな」
佐久間くんは驚いて目を丸くして、でもすぐにパッと破顔した。
佐久間くんはいつも友達に囲まれて楽しそうにしている。でもこんな笑顔は初めて見るかもしれない。
「あ、あの、でも、してすぐ落としてもらう、とかになると思う。その、ほら、学校もある、し」
「それは全然。俺もすぐ落とすし。金曜の夜にしても日曜の夜には取らなきゃ」
よかった、と安堵する。自分から練習台を申し出ておいて、すぐ落としたいなんて、嫌な気分にさせるかと思ったから。
「俺はめちゃくちゃ嬉しいけど……いいの?」
「え?」
「や、だって、あー……学校じゃ厳しいし、ほら、家……とか、あー、どっか、カラオケ、はだめかな、匂いとか」
私に気を遣ってくれているのだと気づいて、そんなのいいよと首を振る。
「家、で大丈夫だよ。あ、うちはむ……難しいから、佐久間くんの家にお邪魔することになっちゃうけど」
それでもいいなら、と私が言うと「いやまじでありがたいから」と佐久間くんが屈託なく笑ってくれた。
日曜日、佐久間くんの家に行こうと、少し気に入っている服を着て、家を出ようとしたその時だった。
「沙織」
お母さんに声を掛けられて、嫌な予感がした。体が少し強張る。別に怒っている声でもなんでもないのに、ただ怖いと思う。これは刷り込みだ。
なに、と頑張って普通の顔をして振り返る。お母さんはいつも通り優しい顔で私の格好を上から下までじっくりと見ていた。背中にじわりと汗をかく。
「その服、いつから着てる?」
「……あー、長いかも」
「やっぱり? そういえばって思ったのよ。そろそろ沙織にはちょっと幼いかもね」
もう高校生なんだから、とお母さんが優しい笑みと共に言う。
「……そうだね、今度捨てとく」
「もうちょっと大人っぽいの、今度買いに行こうか。そういうのが好きな年頃でしょ?」
「うん」
私は上手く笑えているだろうか。まだこの服が着たい、と駄々をこねる子どものようになっていないだろうか。上手くお母さんを騙せているだろうか。
いってきます、と敢えて大きな声で言って家を出る。お母さんが見てないと確信するまで歩いてから深く深く息を吐いた。
教えてもらった住所をアプリに入れ、佐久間くんの家に辿り着いた。
初めての家って緊張するな、と思いながらインターホンを押すと佐久間くんはすぐに出てきてくれた。
本当に来てくれた、と嬉しそうな顔をしてくれる。
「上がって上がって」
お邪魔します、と頭を下げて佐久間くんに促されるままに階段を上がろうとした時、リビングと思わしき部屋から女の人が出てきた。
私たちより年上に見える、佐久間くんによく似た目をしていたその人に私は慌てて会釈をする。きっと佐久間くんのお姉さんだろう。
「あ、練習台になってくれるって子? うちの弟がわがまま言ってごめんねー」
「い、いえ」
「姉ちゃん、やめろって」
佐久間くんがお姉さんに向けて顔を顰めながら、上がっていいよと私に優しく言ってくれる。
お邪魔してます、ともう一度頭を下げてから二階に上がらせてもらう。
佐久間くんの部屋は私の部屋と違ってベッドや勉強机が置いてあって、真ん中に置かれたテーブルには既にネイル道具と思われるものが並べられていた。どうやら準備万端みたい。
佐久間くんが少し遅れてジュースの入ったペットボトルとコップを持って部屋に入ってくる。
カーペットの上に座らせてもらうと、佐久間くんは楽しそうな様子で尋ねてきた。
「さっそくなんだけど、どんなのがいいとかある?」
「え、あ、お任せで……」
「おっけー」
おずおず、と指を多少広げて両手を差し出すと、クッションのようなものを下に置いてくれた。
こんなものが……そういえば、私はあのマニキュアを綺麗だと思って購入して使ってはいるけど、正しい使い方とか全然知らないな。
「爪のケアからしていきますねー」
「わ、ネイリストっぽい……あ、や、行ったことないんだけど」
「はは、わかる。ていうか、実は俺も。行ったことないんだよね、行きたいけど。一人じゃ、ちょっと……」
佐久間くんに最初に除光液を貸してもらった時、佐久間くんは言いふらしてほしくないと言っていた。
それはつまり、身近な人もきっと佐久間くんがネイリストになりたいと思っていることを知らないのだ。知られたくないのかもしれない。
だからきっと学校で仲良くしている友達のことも誘えないのだろう。
「いつも一緒にいる友達には言ってないんだ」
ほら、やっぱりそうだ。何を言っていいかわからなくて黙ってしまう。
佐久間くんが私の爪にオイルを塗るために下を向きながら話す。
「昔さ、友達と遊んでる時にすっごい可愛い消しゴム売っててこれ好きだな欲しいって友達に言ったら、男なのにこんな可愛いの変って言われて……それからなんとなく、家族以外にこういう趣味のこととか話せなくてさ」
「……うん」
「田城さんがそういうの、言わないでくれて安心した。気にしてないフリしてたけど、心のどっかでずっと怯えてたから。俺、怖がりなんだ」
すごいな、と素直に思った。この人はそんな風に怯えていても、私を助けてくれたのか。私が誰かに言うかもしれないのに。嫌な思いをするかもしれないと思いながらも、この人は手を差し伸べてくれた。
私にできるだろうか。自分が大切にしているものをお母さんに気づかれてしまうかもと思いながら、誰かを助けることなんて。
「誰かに言わないでいてくれたのも、なんていうか、ありがたい。あ、別に言いふらすって思ってたわけじゃなくて、なんていうか」
「ううん、大丈夫」
佐久間くんはほっとしたように表情を緩めた。私までほっとする顔だった。
それから佐久間くんは肩の力が抜けたように、今度あるテストの話や体育祭の準備の話で笑わせてくれた。その間も手が止まらないのだからすごい。
棚に並べてある道具の説明も面白いし、びっくりするくらい種類のあるマニキュアの便も眺めているだけで楽しい。
時間をかけて私の爪が彩られる。青に近い紺色に金色のラメが散りばめられていて、指ごとに少しずつ色合いが違う。
「綺麗……写真撮ってもいい?」
「もちろん。あ、俺もいい?」
「うん」
二人で写真を撮り合い、顔を見合わせて少し笑った。温くなったジュースを飲んでほっと息を吐く。
「田城さんの服に合わせてみた。素敵だなーって思って」
確かに私が着ている服は紺色のワンピースだ。白い襟は星の形を模してある。捨てようと決めたこの服がその言葉で惜しくなった。
「私も、気に入ってたの」
そうだ、本当は気に入ってた。何年も着るくらいには。たまに取り出して汚したくないから今日はやめようかと真剣に考えるくらいには。
そして今日、本当に楽しみにしていたから着てきた。捨てたくなんてなかった。捨てたくなんてない。そんな簡単なことも私は言えなかった。
「ネイルサロン、私も行ってみたいな」
いつもなら言えないことも、佐久間くん相手なら言えた。
「一緒に行ってくれるってこと?」
「うん、行きたい」
「まじ? 俺が行きたいところ、何箇所か見繕ってるんだけど、見る?」
嬉しそうに見せてくれるスマホを覗き込む。ここ素敵、このデザインいいね、なんて言い合っているうちに時間は瞬く間に過ぎて、私は初めて門限ギリギリの時間に帰宅した。
佐久間くんと一緒に電車に乗ってネイルサロンに向かうのは夏休みになってしまった。
早く行きたいという気持ちはあったのだけどそれなりの金額を使うことがわかっていたので、お互いお金を貯めてからにしようということになったのだ。
特に佐久間くんは道具を集めるので毎月かなりお金を使っているらしい。
私は多分高校生の平均的なお小遣いは貰っているのだけど、母に怪しまれないよう普段から適度に母の思う『高校生らしい』ものに使ってしまっているのであまり貯金がなかったのだ。
二人で電車に揺られている間、佐久間くんは珍しく口数が少なくて、緊張しているんだろうとわかった。私もつられて少し緊張した。
貯めたお小遣いを持って私たちはお店に飛び込み、ドキドキしながらネイルをしてもらった。
その時、佐久間くんが何を思っていたかは知らない。でも私たちの爪が見違えるほど綺麗になった後、彼は確かに何か吹っ切れたような顔をしていた。
「プロすげー」
電車に乗っている間も佐久間くんはよく自分の爪を眺めていた。私と自分のものに目を落としたが、すぐに佐久間くんのものに目をやってしまっていた。
いつもの駅で降り、少し歩いたその時だった。
「由隆?」
佐久間くんの名前が呼ばれ、パッと振り返ると、いつも佐久間くんが一緒にいる人たちが四人いた。そういえば、遊びに誘われたけど断ったと佐久間くんが言っていた。
「由隆じゃん。あ、田城さんも。どしたの?」
「え、あ……」
「二人、仲良かったんだ? 知らなかったー。二人で遊びに行ってたの?」
佐久間くんはひたすら黙っていて、私は何か言おうとしたけど上手くいかなかった。
無意識だろうか、佐久間くんが手を動かした。きっと隠そうとしたのだと私は思った。でもそれはすぐに見破られる。
「由隆、それ」
ほんの少しの揶揄が混じった、低い声が佐久間くんを問い詰めた。
その瞬間、私は佐久間くんがどれだけ動揺しているか、手に取るようにわかった。だから今度は私が助けなければと思った。
私が、と口を開こうとした。私が佐久間くんに頼んで、塗らせてもらっただけ。遊びみたいなものだから。そう言おうとした。そうすればきっと笑ってこの場は収められるから。
だけど、佐久間くんは怯えの滲む顔のまま笑って、手を前に出した。
「俺、好きなんだ。ネイルするの」
瞬間、空気が固まるのがわかった。数秒経ってから内田くんが小さく笑う。
「えー、まじ?」
これはよくない、よくない雰囲気だ、なにか、何か言わないと、と私が思って、でも何にもできないでいるうちに、吉野さんがくるりとそちらを向いて、不機嫌そうに眉を寄せた。
「別にいいじゃん、由隆がなにしてようとさぁ。その言い方、ちょっとやな感じだよ?」
「や、別に馬鹿にしてねーって。ただ、由隆のキャラじゃなくね? って」
「龍弥さぁ、アイドルのミカちゃんがかわいい顔してサイコホラー映画笑いながら見てるのギャップあって好きって言ってたじゃん。ていうかキャラって何? 由隆に失礼でしょ」
思ってもみなかった展開に私は戸惑う。多分佐久間くんもそうだろう。
「いやいや、そんなマジな話じゃなくて。ほら、俺ら男だし。結菜たちがするのはいいよ? 女子だもん。でも男がさー」
「性別関係なくない? そういうの古いよ。龍弥、古くさいのは嫌いっていつも言ってんのに?」
「……古いとかも違くない? 昔なら良くて、今なら言っちゃだめなの? ずっとだめじゃん? ていうか、友達が好きって言ってるもの、そんな簡単に否定していいの?」
教室でもいつも興味が無さそうな顔で頷いているのかいないのかもよくわからない冴島さんが唐突にそう言った。
「あたしたちって、由隆の友達じゃないの? なんで由隆無視して話進めてんの?」
しばらくまた沈黙が訪れて、あのさー、とちょっと呑気に聞こえる声で鈴木くんが口を開いた。
「俺もマニキュア塗ったことあるんだけど。好きなバンドがやってんの見て真似した。百均で買ったやつだけど」
全然上手くいかなかったなー、となんてことなさそうに言って佐久間くんに笑いかける。
「めっちゃ綺麗じゃん、それ」
その称賛はこの場で一番綺麗に響いた。佐久間くんが笑う。今度は怯えはなかった。
「いいだろ」
田城さんに付き合ってもらってサロン行ってきてー、といつも通りの声で言う。この人はすごい、と私は何度目かのことを思った。
本当はわかっていた。お母さんにあのマニキュアがバレても平気なことくらい。
お母さんが私のものを勝手に捨てたのはせいぜい中学一年生の頃までで、最近は捨ててないということ。私が先回りして手放しているから捨てられてないだけかもしれないが、少なくともお母さんの手で無理やりは捨てられてない。
それにきっとマニキュアを塗ってるとバレても怒られたりなんかしないし、捨てられることもきっとない。だって私は高校生だから。むしろ年相応だと満足してくれるかもしれない。そういうことに気を遣えるようになったのね、お母さん嬉しい。と笑う顔が目に浮かぶ。わかってる、ちゃんとわかってる。
でもそれが嫌だった。だって高校生ならいい、ということは大人になったらダメということかもしれない。こんな子どもっぽいこと、といつか言われる日が来るのかもしれない。今日良いと言われても、未来で否定されるのなら、それは今日を否定されたのと何が違うのだろう。そう考えると打ち明ける気にはとてもなれない。いつかお母さんに嗜められる日が来ると思うと、怖くて仕方ないから。怯える自分を止められなかった。
私は一生、好きなものを好きと言えないままなのだろうか。誰にも隠してこっそりしなければ好きなものを身に纏うこともできないのか。
そう思っていた。だから私は佐久間くんがどれだけ勇気を振り絞ってみんなに打ち明けたか、わかるのだ。
二人で道を歩きながら思う。本当にすごい、と。あれから少し話をして、みんなからの私の呼ばれ方が田城さんからさおりっちに変わった頃に別れた。
佐久間くんはとても晴々とした顔をしていた。
「俺、卒業したら、ネイルサロンで働く」
は、と息を呑んだ。卒業という言葉をこんなに晴れやかな気持ちで聞いたのが初めてで。
そうか、こんな風に響くものなのか。小学校中学校と卒業の時期になってその言葉を聞くたびにお腹の奥がゾゾッとする、あの感覚をよく覚えている。でも多分もうそんな風にはならない。
私はこの先も佐久間くんのこの『卒業』という声を覚えておきたい。
「高校の間に資格取らなきゃなー」
ありがとう、と言いたかった。何に? 全部に。私を助けてくれた時から、今日のことまで全部、ぜんぶ。
「田城さん、それ、落としてから帰る?」
「ううん」
私は結局、佐久間くんを助けられなかった。助けなんて必要とせず、佐久間くんは自分で自分を守った。
「今日は落とさなくて、いいの」
だから私も私を守りたい。素敵だと思ったそばから捨てて、嘘の笑みで誤魔化したくない。
「そっか、夏休みだもんな」
「うん」
佐久間くんがそれ以上詮索しないのがありがたかった。
手のひらを開いて光に透かす。きらきらと輝くそれをずっと眺めてられると思った。
怯えてばかりの私から卒業したい。好きなものを好きと言いたい。いつか否定される日が来てもじゃあ辞めるなんて言いたくない。私は私を否定したくないから。
だから、このままの、好きなものを身に纏った私で家に帰るのだ。
私は今日、怯える日々から卒業する。
読んでくださってありがとうございます。
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