第一巻 第一部:渡航
読者へ 本書を読む前に、、、
本書は架空の歴史を扱う小説である。登場する国名・人名・出来事はすべて著者の創作であり、実在の歴史上の人物・国家とは無関係である。ただし時代背景として、三世紀の東アジア情勢(三国時代・邪馬台国論争)を参照している。尚、この小説では、邪馬台国近畿説を採用している。
以上に、本書を読むうえで必要な語句を簡単に説明する。
[主要人物]
李宗 本書の主人公。建業生まれ。李広の末裔を自称するが、その真偽は不明。身長八尺(現代換算で百八十センチ超)の大柄な体格と、漢人離れした濃い顔立ちを持つ。兵法の才能に秀でるが、出自は詐欺師。倭国に渡り、東海帝国の建国者となる。
陳璧 李宗の腹心・元商人で、若い頃に倭国を訪れた経験を持つ。倭語の通訳として李宗に随行し、その後生涯にわたる側近となる。狡知に長けるが、李宗への忠誠心は本物。
天草 九州・熊本南部出身の倭人。農民上がりで、李宗の部下の中で最も信頼された将。寡黙で忠実。李宗の方針に時として異を唱えるが、最終的には従い続ける。
卑弥呼 邪馬台国連合の女王。老齢ながら鋭い判断力を持ち、李宗の才能を見抜いた最初の人物。本書では史実の卑弥呼をモデルとするが、細部は創作である。
台余 卑弥呼の姪。後に連合の女王となる。聡明で直截な性格。李宗と婚姻し、帝国の精神的基盤を作った人物として後世に語り継がれる。
火麻呂 九州南部・熊襲の首長。李宗と「南の盟約」を結ぶ。山の民の誇りを保ちながら帝国と共存した稀有な人物。
孫武 連合の元隊長。漢人の血を引くとされる。李宗の組織改革で隊長職を外されるが、「連絡将校」として帝国の外交基盤を支える。
[用語・地名]
邪馬台国 三世紀の倭国(日本列島)に存在したとされる国。女王・卑弥呼が治め、中国の魏に使者を送った記録が残る(魏志倭人伝)。本書ではこの連合国家を物語の出発点とする。
狗奴国 邪馬台国の南に位置する敵対勢力一覧。魏志倭人伝に名が見える。本書では連合の主要な軍事的脅威として登場する。
十進法編成 匈奴など遊牧民族が用いた軍事組織の方法。十人を一組年、十組で百人隊、十の百人帯で千人隊と積み上げる。命令の末端への伝達が早く、大軍の統制に優れる。李宗がこの方法を倭国の兵に適用したことが、東海軍の強さの源となる。
新建業 李宗が上陸地点(現・佐賀県付近)に与えた地名。故郷・建業(現・南京付近)になぞらえた命名。漢化政策の拠点となる。
紫州 李宗が九州を平定した後に名付けた統治領域の名称。李宗はここで「紫州王」を自称し、事実上の独立勢力として動き始める。
明都 李宗が大和(現・奈良盆地)に遷都した際に与えた地名。後の東海帝国の首都となる。
南の盟約 李宗と熊襲の首長・火麻呂の間で結ばれた合意。「山と風習と言葉の保全」と引き換えに、熊襲が軍事力を提供するという内容。
第一部 渡航
建業より海の果てへ
建業の牢は、夏に死ぬ場所だった。
石と泥で固めた壁が昼の熱を吸い込み、夕刻になると壁そのものが炉のように熱を吐き出す。
風は入らない。臭いは逃げない。糞尿と黴と腐った藁と、人間が長く閉じ込められた場所だけが持つあの澱んだ臭気が、壁に染みついて離れない。
夏の盛りには、その臭いが熱と混ざり合って、粘土のような重さで空間に満ちていた。
男は壁に背をもたせかけ、膝を立てて目を閉じていた。
暑い。臭い。足の指の間が蒸れている。
隣で眠っている男の鼾が、規則正しく繰り返されている。その鼾を聞き続けていると、むしろ眠気が来る。
こういう状況に慣れてしまう自分を、男は不思議に思うことがある。
どんな環境にも、驚くほど早く慣れてしまう
建業で物心ついた頃から、父親に「お前はすぐに慣れすぎる、それは人間として何か欠けている証だ」と言われ続けた。
父親は代々続く教師の家系の末裔で、倫理と礼節を何よりも重んじた。祖父も曾祖父も
教師だった。その血が、なぜかこの男には別の形で現れた。教えることへの関心ではなく、
学ぶことへの貪欲さとして。ただし、学ぶ対象が人の道ではなく、人の弱さだった。
人の弱さを学べば、その弱さをどう突くかが自然にわかる。それが詐欺師の才というものだ。
もっとも、男自身は自分が詐欺師だとは思っていなかった。ただ手持ちの材料を最大限に活かしてきただけだ。
手持ちの材料の中で最も使いやすかったのが、顔だった。
漢人にしては珍しい、目鼻立ちの濃い顔だ。鼻が高く、目が深く、顎の線が強い。建業の生まれだが、どう見ても中原の漢人には見えない。匈奴の血でも入っているのか、と言わることが多かった。
これを使った。
李広といえば漢の英雄、飛将軍と呼ばれた男だ。前漢の時代に匈奴と死闘を繰り広げ、
「李広来たる」と言われただけで匈奴が退いたという伝説を持つ。その子孫の多くが後に匈奴に降り、大陸各地に散らばった。
だから匈奴の血が混じったような濃い顔をした男が「李広の末裔」を名乗っても、あながち嘘とは断言できない。断言できないことが、詐欺師にとっては最も使いやすい材料だ。
身長も役に立った。八尺近い体躯は、人を威圧する。大きい男は、それだけで何か持っているように見える。
実際に何も持っていなくても。
加えて、男には本物の才があった。
兵法の才だ。
どこで覚えたのかは自分でもよくわからない。父親の書棚に古い兵法書があったことは覚えている。
それを読んだことも覚えている。しかし書物から学んだというより、何かが頭の中に最初からある感じがした。
戦場を俯瞰する目。地形を読む感覚。人間の群れがどこで崩れるかを嗅ぎ取る鼻。
特に、匈奴の十進法 十人を一組とし、組を重ねて百、千、万と積み上げる編制の論理
が頭の中に入っていた。これは書物には詳しく書かれていなかった。誰かから聞いたのか、あるいは生まれついて知っていたのか。
この才を最初に使ったのは、二十代の半ば、荊州北部の戦線だった。
男は当時、戦場近くに流れ着いた食い詰め者の集まりに混じっていた。傭兵と呼ぶには粗末すぎる連中で、戦が終われば略奪を働き、追われれば山に逃げ込む、そういう者たちだ。
食事は毎日、冷えた粟粥だった。水が半分で、具が何もない粟粥。木の椀の底に泥の色をした粥が張り付いていて、それを指でこそいで食べた。
隣に座っていたのは、賈という男だった。歳は三十過ぎ、片耳が欠けていた。戦で落としたのか、罰として切られたのか、聞いたことはなかった。
「これを毎日食うのか」と男は椀を見ながら言った。
「食えるだけましだ」と賈は言った。「先月は三日、何も食わなかった」
「なぜここにいる」
「行く場所がないからだ。お前は」
「同じだ」
賈はそれ以上何も言わなかった。粥を音を立てて啜った。男も啜った。不味かった。しかし不思議と、隣に人間がいることで、不味さが少し和らいだ。
それが、戦場で人間の隣にいることの意味を最初に理解した瞬間だった。不味い食事を一緒に食う者は、戦場で隣に立つ者になる。その単純な事実を、男は粥の椀の底から学んだ。
賈はその後の小競り合いで死んだ。矢が首に当たった。一瞬だった。倒れる間もなく、地面に崩れた。
男はその場で三秒ほど、賈の体を見た。それから走った。感傷は後で来た。戦場では感傷より足が先に動かなければ、自分も同じように倒れる。
建業でこの才を使おうとしたことがある。
二十代の頃、呉の軍に売り込みに行った。しかし詐欺師の触れ込みの一部だと思われた。
誰も信じなかった。
そして今、男は牢の中にいる。
二十代に売り込みに行った時の相手の一人に、後で骨牌の話を吹き込んだ。それが詐欺だと訴えられた。冤罪ではない。確かに吹き込んだ。しかしあの男があれほど簡単に乗ってくるとは思っていなかった。乗ってくる者が悪いとは言わないが、もう少し疑うべきだった。
男は目を閉じたまま、肩をわずかに動かした。
慣れるのは得意だが、諦めるのは苦手だ。これが父親から受け継いだ唯一の気質かもしれない。教師は諦めない。教え続ける。自分は、何かを諦めない。
何を、とはまだわからなかったが。
牢番が鉄格子を蹴る音がした。
鉄と石がぶつかる音は、牢の中では妙に響く。隅々まで届く。反響するのか、それとも沈黙が深すぎて小さな音が大きく聞こえるのか。
「おい。李達とかいう男、いるか」
男は目を開けた。李達。ここではそう名乗っていた。
「いる」
牢番の顔は逆光で見えなかった。声に緊張がなかった。処刑ではない。処刑の呼び出しには、もう少し力が入っている。
「呼ばれてる。上の人間だ。綺麗な服を着ていた」
綺麗な服。上の人間。男はその組み合わせについて考えた。
綺麗な服を着た人間が牢の囚人に用があるとすれば、その囚人に何かを利用しようとしている。利用できるものが何か、自分の中にあるはずだ。金はない。地位もない。
知識 知識はある。戦の知識だ。
男は立ち上がった。
縄を手首に巻かれながら、男はなぜか少し興味を覚えた。
* * *
連れていかれた場所は、牢番の役所の一室だった。
質素な部屋だったが、卓の上に白湯の入った椀が一つ置かれていた。
それだけで、この話が本気のものだとわかった。囚人に白湯を出す人間は、その囚人をまだ使えると思っている。使えないと判断した人間に、わざわざ湯を沸かす手間はかけない。
対面に座った男は、四十がらみで、文官の衣をまとっていた。しかし姿勢と手の置き方が武人のものだった。隠しているつもりだろうが、体が正直に出てしまっている。きつい訓練を長くやった人間の体は、衣を変えても変わらない。
「李達どの」と男は言った。「どの」という敬称が、この状況では奇妙に響いた。
「達でいい。どのをつけるような男じゃない」
文官は少し微笑んだ。余裕のある笑顔だ。今日来た方が有利だということを知っている
笑顔だ。
「では達どの。単刀直入に聞く。倭国に渡る気はあるか」
男は答えを返す前に、白湯を一口飲んだ。
熱かった。そして旨かった。三日ぶりの温かいものだ。舌が、熱さより先に旨さを感じた。
「倭国というのは」
「東の果ての島国だ。霧に包まれた海の向こうにある。呉の使者が以前に渡ったことがある。あの島には今、複数の勢力が争っている。女王が外から来た有能な将軍を必要としている」
「私が将軍か」
「あなたは匈奴式の兵の組み方を知っていると聞いた。同じ牢にいた男から。あの男は今は釈放されている。あなたのことを『十進法で兵を組む術を知っている変わった男だ』と言っていた」
十進法男は少し笑いたくなったが、こらえた。変わった男か。それは大陸ではそうだろう。匈奴の方法を使う漢人というのは珍しい。
「それで。引き換えに何が欲しい」
文官は少し間を置いた。
「釈放。船三艘。兵五十。渡航の費用。引き換えに、倭国で呉のために働いてもらう。あの島には呉が必要とする資源がある。木材、砂鉄、良港になれる地形。女王と友好関係を築いて、呉との橋渡しをしてほしい」
男は白湯を二口目飲んだ。考えながら飲んだ。
倭国。霧の海。女王。その国で呉のために働く 呉の政争に巻き込まれた官僚がよく使う手だ。厄介者を遠い場所に送る。焼きに経てば儲けもの、役に立たなくても損はない。おそらくそういう話だ。
しかし男にとって、それは問題ではなかった。
問題は、倭国に行けば牢から出られるということだ。牢を出れば、選択肢が増える。選択肢が増えれば、何かが変わる可能性がある。
「一つ条件がある」
「何か」
「別の名で行く。李広の子孫として行く」
文官は眉をひそめた。「李広の子孫というのは 確認のしようが」
「だからいい」男は文官を見た。「確認できないことが、私の材料だ」
文官はしばらく男を見た。何かを確認しようとしている目だった。嘘をついているかどうか、ではなく、この男を信用してよいかどうかを確認しようとしている目だ。
やがて文官は頷いた。「わかった」
* * *
翌朝、男は縄を外され、小さな部屋に移された。
風呂に入ることを許された。垢が湯に溶けた。どれだけ溜まっていたのかと思うほど、湯が濁った。
着替えを渡された。新品ではないが、清潔な衣だった。
鏡を見た。久しぶりに見る自分の顔は、やはり濃かった。漢人の顔ではない。李広の末裔を名乗るにはむしろ好都合な、匈奴の血が混じったような顔。鼻が高く、目が深く、顎が強い。
この顔で、この名で、海を渡る。
「李宗」と男は小さく言った。
李広の「李」。宗家の「宗」。
大陸の最も権威ある家名と、その家を継ぐ者を示す字を組み合わせた。全部嘘だ。しかし嘘は、使い続ければやがて本当になる。少なくとも、信じた者の中では。
李宗。それが、海の向こうでの自分の名だ。
* * *
二
船は三艘だった。
約束の五十人は、実際には四十三人だった。しかもその内訳は、李宗が港で確認してすぐにわかった。本当に戦える者は三十人ほど。残りは商人崩れや、借金から逃げてきたような流れ者だった。
李宗は特に何も言わなかった。
これが呉の本音だ、とわかった。探りを入れる程度の話だ。成功すれば儲けもの、失敗しても三艘の船と四十三人を失うだけだ。それが呉の損失計算の中に収まっている。
しかしそれでいい、と李宗は思った。
探りの先遣隊が主力になることは、歴史上何度もある。小さく始まったものが大きくなる。それは材料次第だ。材料が自分ならば、大きくなる可能性はある。
「準備はできていますか、将軍」
声をかけてきたのは、陳壁という男だった。
三十前後、細くて狡そうな目をした男だ。商人崩れで、若い頃に倭国に来たことがあるという。倭語を少し話せる。それで通訳として雇われた。初めて会った瞬間から、李宗はこの男を気に入った。
狡そうな目が、本当に狡い目をしていたからだ。狡さは役に立つ。真っ直ぐすぎる人間より、曲がることを知っている人間の方が、困難な状況では使える。
「準備というものは、できたためしがない。しかし出発はする」
陳壁は少し笑った。
「将軍らしいお言葉です」
「将軍と呼ぶな。まだ将軍ではない。向こうに着いてから考える」
「では何と呼べばいいですか」
「李宗でいい」
船が動き出したのは朝だった。
建業の港が遠ざかっていくのを、李宗は甲板から見ていた。
この港に戻ることはないだろう、と思った。感傷ではない。合理的な判断だ。戻る理由がない。牢がある場所に戻る理由はない。
ただ一つ、気になることがあった。
父親だ。
父親は今も建業のどこかで生きているはずだ。教師をしているはずだ。息子が詐欺師として牢に入れられたことを知っているはずだ。
知っていて、何も言いに来なかった。
来られなかったのか、来なかったのか。
わからない。しかしどちらでも同じことだ、と李宗は思った。来なかった事実は変わらない。
港が完全に見えなくなってから、李宗は船室に戻った。
* * *
黄海に出ると、水の色が変わった。
黄河が流れ込む内側の海は、名前の通り黄色く濁っている。しかし沖に出るにつれて、その黄色が薄れていく。青灰色に変わり、さらに東に向かうほど青が深みを増す。
李宗は甲板に立って、その色の変化を眺めていた。
大陸から離れるにつれて、水が澄んでいく。それは比喩ではなく物理的な事実だが、しかし比喩のようにも見えた。
陳壁が隣に来た。
「見たことない色の海ですね」
「お前は倭国に行ったことがあると言っていたが」
「若い頃に一度。しかし船の中では船酔いで死にかけていたので、景色を見る余裕がなかった」
「今は」
「今も少し気持ち悪いですが、あの頃より老いた分だけ慣れました」
李宗は少し笑った。「老いるというのは慣れることか」
「そうかもしれません。若い頃は全てが初めてで、初めてのことは体が拒む。老いると初めてが減って、拒むことも減る」
「それは知恵か、それとも諦めか」
陳壁は少し考えた。
「両方ではないですか」
そういう答えを返す男だった。李宗はそれが気に入った。
* * *
五日目の夜、嵐が来た。
予告はなかった。夕方まで海は穏やかだった。しかし夜に入ってから風が急に変わり、波が立ち始め、一刻後には三艘の船が激しく揺れていた。
兵たちの多くが船室で倒れた。船酔いで動けなくなる者が続出した。
李宗は甲板に出た。
風が顔に叩きつける。波が甲板を洗う。足元が不安定に揺れる。それでも甲板にいた。船室の中にいると、自分がどこにいるかわからなくなる。動いているものを感じていたほうが、体が安定する。
「将軍! 中に入っていてください!」
水夫が叫んだ。
「問題ない」
問題はあったが、入らなかった。甲板にいることが、今の自分にとって正解だという感覚があった。理由は説明できないが、感覚は信頼する。
嵐は夜明けまで続いた。
三艘の船は全て無事だった。しかし二艘目の船底に少し浸水があり、荷物の一部が濡れた。食糧が少し減った。
翌朝、陳壁が蒼白な顔で甲板に出てきた。
「将軍は昨夜、どこにいたんですか」
「甲板にいた」
陳壁はしばらく李宗を見た。
「なぜ」
「そのほうが落ち着くから」
「人と逆ですね」
陳壁はため息をついた。
「私は一晩中船室で死にかけていました」
「元気そうだ」
「見た目だけです。内臓がまだ波打っています」
李宗は笑った。陳壁は恨めしそうな顔をしたが、やがて一緒に笑った。
これがこの二人の最初の笑い合いだった。
笑いながら、男は少し昔のことを思い出した。
二十代の終わり頃、淮河沿いの小さな砦に傭兵として雇われていた時期がある。砦の守将は無能で、補給は滞り、兵の士気は底をついていた。三週間ほど、まともに食事が出なかった。
ある夜、同じ傭兵仲間の胡という男が、どこからか兎を一羽捕まえてきた。痩せた兎だった。毛を剥けば手のひら二枚分ほどの肉しかない。二十人近い男たちが囲む火の前で、その兎を串に刺して焼いた。
「少なすぎて喧嘩になるぞ」
と誰かが言った。
「喧嘩するより分けた方が早い」
と胡は言った。
「俺が捕まえたが、俺だけのものじゃない。腹が減っているのは皆同じだ」
兎は二十人に分けると、一人前は指二本ほどの大きさになった。脂も塩もない、焦げた肉の塊だ。
それでも、美味かった。
男はその夜のことを時々思い出す。なぜあの時の肉が美味かったのかは、今でも少し考える。肉自体は不味かったはずだ。しかし美味かった。おそらくそれは肉の問題ではなかった。
胡もその後、戦で死んだ。砦が落ちた夜に。
男は砦から逃げ出したが、胡は戻ってこなかった。
* * *
三
対馬が見えたのは、出航から八日目だった。
霧の中に黒い島影が浮かんでいた。山が深く、岸が切り立っていた。緑が濃い。大陸の植生とは違う、湿気を含んだ濃い緑だ。
その緑を見ていて、男は別の緑を思い出した。
二十代の前半、魏の北方辺境に流れ着いた時期がある。匈奴との国境近くに展開していた辺境軍の下に、傭兵として三ヶ月雇われた。
その地の夏は短く、秋が急に来る。ある日の夜明け、見張りに立っていると、前日まで青かった草原が一夜にして黄色くなっていた。
「昨日と今日で、全部変わった」
と横に立っていた若い兵が言った。
十六か七の、まだ産毛の残る顔の少年兵だった。名前は思い出せない。
「季節はそういうものだ」
と男は言った。
「変わる時は急に変わる」
「急に変わるのは、嫌じゃないですか」
「急に変わる方が、変わったとわかって良い。じわじわ変わると、いつ変わったかわからない」
少年兵は少し考えた。
「 それは……変わることが好きだということですか」
「どちらかといえば、そうだ」
少年兵はそれ以上何も言わなかった。
黄色くなった草原を、二人でしばらく見ていた。
その少年兵は、三ヶ月後に男が辺境軍を離れた時、まだ生きていた。それだけは確かだ。
その後どうなったかは知らない。
「あれが対馬です」
と陳壁が言った。
「倭国と大陸の間の島。昔から交易の場所です」
「人が住んでいるか」
「います。倭国の者たちです。言葉は本土と少し違うと聞きますが、通じます」
水と食糧を補給するために寄港した。
島の港 港—— と呼ぶにはあまりに素朴な、石を積んだだけの突堤があるだけだった—— に近づくと、島の者たちが岸に集まってきた。李宗たちの船を警戒している。当然だ。見たことのない大きな船が三艘、霧の中から現れたのだ。
陳壁が倭語で声をかけた。
ぎこちない発音だったが、通じたらしく、岸の者たちの様子が少し変わった。敵意から好奇心に変わった。
「何と言った」と李宗は聞いた。
「大陸から来た偉い将軍様が、良いものを持ってきた、と言いました」
「私が偉い将軍か」
「そう言ったほうが話が早い。実際、大陸の将軍様が来たことは初めてではないですか、ここでは。なので嘘でもないかと」
「なるほど」
李宗は陳壁の判断を面白いと思った。嘘をついているが、嘘の中に筋がある。これが使える人間の嘘の付き方だ。
「これからも、そのように言え」
「はい」
島の者たちは、銅銭を見ると食糧を売ってくれた。干した魚、根菜、粟。大陸とは違う食べ物だったが、量は十分だった。李宗は交渉の様子を遠くから見ていた。陳壁が島の者たちと話している。笑い声が上がった。陳壁は笑わせることが得意らしい。
島の老人が一人、李宗の方に近づいてきた。
倭語しか話せないらしく、李宗には言葉がわからない。しかし老人は何かを伝えようとしていた。
陳壁を呼んだ。
「何と言っている」
陳壁が訳した。
「大陸から来た将軍様は、南の女王のところに行くのか、と聞いています」
「南の女王を知っているか」
「知っているようです。ここの者たちは倭国と大陸の間にいるので、両方の情報が入ってくるんでしょう」
「女王についてどう思っているか聞いてくれ」
陳壁が訳した。
「偉大な方だ、と言っています。しかし最近は体が弱っているとも聞くとのことです。後継者を誰にするかで、南では揉めているとも」
李宗は老人を見た。この情報は重要だ。女王の権威が揺らいでいる。権威が揺らいでいる場所には、外から来た力が入りやすい。
「礼を言ってくれ」
老人は満足そうに頷いた。
* * *
対馬を出て、さらに四日。
九州北部の海岸が見えたのは、夜明け前だった。暗闇の中に、黒い山々の輪郭が浮かんでいた。霧が出ていた。対馬でも霧があったが、ここの霧はさらに濃い。山の形がぼんやりと見え、また霧に消え、また現れる。
臭いが変わった。
潮の臭いに混じって、土の臭いがする。木の臭いがする。雨の臭いがする。生き物の密度が大陸より高い臭いがした。この島は緑が深い。水が多い。生き物が多い。
李宗は深く息を吸い込んだ。
新しい場所の臭い。
これから自分が生きる場所の臭いだ、という確信が、理由もなくあった。
「李宗」と男は小さく呟いた。
建業の牢で初めて自分に与えた名前。しかしここでは、それが本当の名前になる。そういう予感があった。予感は証拠ではない。しかし李宗は、これまでの人生で、予感を外したことがあまりなかった。
上陸は夜が明けてから行った。
岸に近づくと、砂浜に人影が見えた。二十人ほど。武装していた。しかし攻撃的な様子ではなく、見張っている様子だった。
陳壁が「大陸からの使者です」と倭語で叫ぶと、人影が動いた。一人が走って行った。知らせを持っていったらしい。
三十分ほど後、別の一団が砂浜に現れた。先ほどより数が少ない。その中の一人が、陳壁と話した。
「邪馬台国連合から来た迎えの者たちです」
と陳壁が訳した。
「女王様が大陸の将軍様のことを聞いており、お会いになりたいとのことです」
「速い」
と李宗は思った。対馬の情報が既に届いているのか、それとも別の経路で情報が入っていたのか。どちらにせよ、この連合はそれなりに情報の網を持っている。
「明日、準備が整ったら行く、と伝えてくれ」
陳壁が訳した。迎えの者たちは頷いた。
その夜、浜辺に仮の陣を張った。
兵たちが焚き火を囲んでいた。船旅の疲れが出ているのか、会話が少ない。波の音と火の音だけがしていた。
李宗は一人で浜辺を歩いた。
靴が砂に沈む。波打ち際まで来ると、波が足元まで来て引いていく。冷たかった。大陸の海より冷たい気がした。
それとも、夜だからか。
空を見た。星が出ていた。
大陸の夜空と変わらない。どこで見ても、星は同じように輝く。人間だけが場所によって変わる。
これから何が始まるのか、まだ何もわからない。女王に会う。そこから始まる。始まってから考える。それが自分のやり方だ。
李宗は靴を脱いで、素足で砂の上を歩いた。
砂が冷たかった。しかし悪くなかった。
* * *
四
翌朝、迎えの者たちに案内されて、李宗と陳壁は邪馬台国連合の中心地へ向かった。
天草を含む十人の兵が護衛としてついた。
天草は、まだこの時点では李宗の部下ではなかった。港で雇われた護衛の一人で、九州の出身だという。大柄な男で、口数が少なかった。最初に李宗が目をとめたのは、この男の目だった。静かな目だ。感情を外に出さないのではなく、感情が穏やかに落ち着いている目だ。乱れない人間の目だ。
こういう人間は戦場で役に立つ。戦場で乱れない人間は、乱れている周囲を安定させる。
「名は」
「天草と申します」
「どこの出だ」
「山の中の村です」
「農民か」
「はい。ただ、十代の頃からこの地域を渡り歩いて、色々な仕事をしてきました」
「戦の経験は」
「あります。それほど多くはないですが」
「どんな戦だ」
「豪族同士の争いに、雇われ兵として加わったことが何度か。あとは山賊の討伐」
李宗は天草を眺めた。正直な男だ、と思った。自分を大きく見せようとしない。
「それほど多くはないですが」
という答え方が、過小でも過大でもない。
「お前は、なぜここで働いている」
「食い扶持のためです」
「他に理由はないか」
天草はしばらく考えた。
「……面白いことを探しているのかもしれません」
「面白いこと」
「大陸から将軍が来るというのは、面白いことです。そういう場所に近くいたかった」
李宗は少し笑った。
「ならばついてこい。もっと面白いことになる可能性がある」
天草は頷いた。感謝も驚きも見せなかった。ただ頷いた。
それが気に入った。
* * *
女王の居所まで、半日歩いた。
道は整備されていなかった。踏み固められた土の道が、山と田んぼの間を縫うように続いていた。しかし道が続いている。それは、人が長く使い続けてきたということだ。
道沿いの村の者たちが、李宗たちを見ていた。
好奇心の目だった。恐怖はなかった。大陸の軍が来た、という話は届いているようだったが、敵意はなかった。この辺りの人間は外来のものに慣れているのか、それとも連合の力が及んでいてこの地域は安定しているのか。
道の途中、川を渡る場所があった。
橋はなく、浅瀬を渡った。水が澄んでいた。底の石が見えた。大陸の川は大概濁っているが、ここの水は透明だった。
「水が綺麗だ」
と李宗は陳壁に言った。
「はい。倭国はどこに行っても水が綺麗です。雨が多いからだと思います」
「田んぼが多いな」
「米がよく取れるんです、ここは。土が合っているのか、水が良いのか。米の量が大陸と比べて全然違う」
李宗はその情報を頭の中に入れた。米が取れる。水が豊か。木が多い。砂鉄も取れると聞いている。この島は、資源が豊かだ。
資源が豊かな土地は、治める価値がある。その考えが頭をよぎった瞬間、李宗は自分の思考の方向性に気づいた。
まだ着いて一日も経っていないのに、もう「治める」という言葉が浮かんでいる。
建業の牢にいた頃の自分には、この言葉は浮かばなかった。しかし今は浮かぶ。
それが何を意味するかは、まだわからなかった。
* * *
館は、あった。
丘の上に、土と木で作られた建物が幾重にも連なっていた。周囲に濠が掘られ、木の柵が立っていた。
完全な守りではない。攻める気になれば落とせる。しかしこの場所に権力があることを示す象徴としては、十分な構えだった。人は権威のある場所に集まる。集まった人間の数が、その権威をさらに高める。
「大きい」
と天草が言った。初めて口を開いた。
「大陸の宮殿に比べれば小さい」
と李宗は言った。
「しかしここでは大きいだろう」
「将軍は大陸の宮殿を見たことがあるのですか」
「ない。しかし話には聞いている」
天草は不思議そうな顔をした。見たことのないものを比較に使うことを、この男は不思議に思うらしい。
李宗は説明しなかった。見たことがなくても、知識の中にある形は比較に使える。そういう考え方を、全員が持っているわけではない。
* * *
五
広間に通されると、奥に白い簾が張られていた。
広間自体は広くなかった。二十人も入れば窮屈なほどの空間だ。床は土を固めたもので、藁が敷かれていた。天井は低く、柱が太い。大陸の建築とは全く異なる様式だったが、その空間には独自の静謐さがあった。
簾の前に、連合の臣下らしき者が数人並んでいた。全員が李宗を見ていた。警戒の視線だった。当然だ。自分たちの女王に会いに来た、見知らぬ大陸の男を警戒しない方がおかしい。
李宗は彼らの視線を受けながら、広間の中央に立った。
陳壁が後ろに控えた。天草たちは戸口の外だ。
長い沈黙があった。
待つことは平気だ。急ぐのは弱い者がすることだと、李宗は思っていた。待てる者が、待てない者より有利だ。この沈黙は、こちらの辛抱強さを測っているのかもしれないし、単に準備に時間がかかっているだけかもしれない。
どちらにせよ、待つ。
やがて、簾の向こうから声がした。
老いた声だった。しかし命令の力があった。声の圧力とでも言うべきものが、あった。
陳壁が耳元で囁いた。
「女王様です。直接お姿は見せない。これが慣習だそうです」
李宗は頷いた。
権力者が直接姿を見せないことは、大陸にも同様の例がある。見えないことが神秘を生む。神秘が権威になる。姿を見せることで失われるものがある それを、この女王はわかっている。
「遠くからよく来た」
と声は言った。陳壁が訳す。
「あなたのことは聞いている。大陸の兵法に通じた将軍だと」
「お役に立てれば光栄です」
「来る前に、対馬に寄ったそうだな」
「はい。水と食糧を補給しました」
「そこで何を聞いた」
直接な問いだった。李宗は少し間を置いた。この女王は、こちらが何を知っているかを確認しようとしている。
「後継者について、南で揉めているという話を聞きました」
沈黙。
「正直だ」
と声は言った。
「多くの者が、その話を聞いていながら聞いていないふりをする。あなたは聞いたと言った」
「聞いたことを隠して、後でそれが知れた方が信頼を失います」
「なるほど」
また沈黙。
「演練を見せよう。あなたの判断を聞かせてほしい」
演練は翌日行われた。
三百人ほどの兵が野に集められていた。
李宗は遠くから眺めながら、天草に言った。
「見て何がわかる」
天草は少し考えた。
「……ばらばらです。隊列がない。全員が個人として動いている」
「そうだ。他には」
「武器の手入れが雑です。矢の羽根が曲がっている者がいる。槍の柄が腐りかけているものもある」
「よく見た」
李宗は天草を見た。この男は観察眼がある。農民上がりで正式な訓練を受けていないが、見るべきものを見る目を持っている。
「鍛えがいがある」
と李宗は言った。
「そして何より 自分が必要とされる」
天草は少し不思議そうな顔をした。
「今の状態を喜んでいるのですか」
「問題があるところにしか、解決する者の居場所はない。問題がなければ、私はここに呼ばれていない」
天草はしばらく考えた。
「 そういう……考え方があるんですね」
「詐欺師の考え方だ」
「詐欺師の将軍というのも珍しいですね」
「お前はそれが問題か」
「いえ」
天草は首を横に振った。
「強ければいいと思います」
* * *
演練を見た後、再び女王の広間に通された。
「どう見た」
「三ヶ月で、この者たちに戦い方を教えることができます」
「三ヶ月で」
「狗奴国を追い払うだけなら。根絶やしにするには半年必要です」
「どちらがよいと思うか」
李宗は少し考えた。
「まずは追い払う。そして半年で力をつける。相手が和睦を求めてきたら受ける。平和の間に更に力をつけて、三年後に相手が動く前にこちらから動く」
長い沈黙があった。
「 三年先まで考えているのか」
「三年先の敵を今から考えていない者は、三年後に負けます」
また沈黙。今度はさらに長かった。
「三百の兵と、食糧と、宿舎を提供しよう」
と声は言った。
「ただし一つ、条件がある」
「何でしょう」
「今の隊長たちの顔を立てて、外せ。あの者たちは連合の中でそれぞれ役割を持っている。乱暴に外せば連合が揺れる」
「わかりました」
「本当にわかっているか。あなたは大陸の論理を持っている。しかしここはここの論理がある。それを無視すれば、長くはいられない」
「 ありがとうございます。肝に銘じます」
簾の向こうの沈黙は、今度は別の種類の沈黙だった。
何かを見極めようとしている沈黙だ。
「名は何と言う」
「李宗と申します。李広の末裔です」
「李広の」
また沈黙。
「 その出自が本当かどうかは問わない。ここでは結果だけを問う。それを覚えておけ」
李宗は深く頭を下げた。
この女王は知っている、と思った。自分の出自が嘘かもしれないことを、知っている。
しかし問わないと言った。結果で評価すると言った。
これは、機会だ。
この機会を最大限に使う それだけが、今の自分にできることだった。
李宗はその言葉を気に入った。
* * *
広間を出た時、天草が待っていた。
「どうでしたか」
「思ったよりよかった」
「どういう意味ですか」
「賢い人間がいる場所では、賢い言葉が通じる。それだけで、ずいぶん違う」
天草は少し考えた。
「将軍にとって、賢い場所と賢くない場所、どちらが好きですか」
「賢い場所だ。賢い場所では、正直に動ける。小細工が要らない」
「しかし将軍は詐欺師だったと言っていた」
「そうだ。だから詐欺を必要としない場所がどれだけ楽か、よくわかる」
天草は不思議そうな顔をした。しかし何も言わなかった。
李宗はそれでいいと思った。今は説明しなくていい。これから一緒に動けば、言葉より先に伝わるものがある。
その夜、陣の中に戻って、李宗は一人で空を見た。
明日から訓練が始まる。三百の兵を、三ヶ月で戦える集団にする。それが最初の仕事だ。
できるか、と問われれば、できる、と答える。
なぜできると言えるのか、と問われれば、答えに詰まる。確信の根拠が明確ではない。
しかし確信はある。
この感覚を、建業の牢の中で持ったことはなかった。
新しい何かが始まっている、という感覚だった。
李宗は目を閉じた。波の音がまだ聞こえていた。海から少し離れても、波の音はついてくる。あるいは耳の中に残っているのかもしれない。
この島の音だ。
この島で生きていく者の耳に入ってくる音だ。
第一部 了




