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はにかむ帯と、友達以上の答案用紙  作者: 乾為天女


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第9話 夏休みの予定表、空欄の怖さ

 七月の終業式が終わった放課後、文芸部室の窓の外は、セミの声でいっぱいだった。芽依は机の端に肘を置き、ノートの角を指で押さえた。紙が湿気を吸って、少し柔らかい。


 「はい、夏休み版」

 凜太郎がプリントを一枚ずつ配った。白い紙に罫線が引かれていて、日付と作業の欄が並んでいる。部誌の残り作業表。凜太郎の字は、相変わらず角がそろっていて、眺めるだけで背筋が伸びる。


 芽依の手元に来た紙を見て、喉がきゅっと鳴った。


 自分の名前の列だけ、空欄が多い。ほぼ、真っ白だ。予定というより、空気。


 「芽依、真っ白じゃん」

 菜稀がすぐに見つけた。椅子の背を叩きながら笑う。

 「雪山かと思った。遭難するよ?」

 「しない……しないし」

 芽依は紙を少しだけ引き寄せ、視線をずらした。紙の白さから逃げるみたいに、窓の外の青を見た。


 拳悟が「まあまあ、白い方が書きやすいって」と軽く言って、凜太郎の方を見た。援護のつもりの笑い。けれど凜太郎は笑わなかった。


 「空欄が多いと、後で苦しくなる」

 凜太郎は淡々と、でも紙の上を指でなぞるように言った。

 「全部は埋めなくていい。今日、ここだけ」

 凜太郎の指が、芽依の列のいちばん上のマスを叩く。七月二十六日。今日の日付。


 芽依は反射で口を開いた。

 「明日……」

 言いかけて、舌を噛みそうになって止めた。第八話の最後に自分で書いた言葉が、頭の中で鳴る。


 ――相談は、ここで。


 芽依は息を吸って、紙の上にペン先を落とした。けれど、何を書けばいいか分からない。白いマスは、未来そのものだ。未来は、怖い。


 「はい、ここで困る顔」

 菜稀が、どこからか赤い丸シールを取り出した。何のために常備しているのか分からない。

 「芽依、これ貼る。困ったらここが目印」

 「目印って……」

 「遭難する前に助けに行くため」

 菜稀は真顔で言い、次の瞬間に自分で吹き出した。笑いながら、目の端だけを拭うふりをする。泣いてないふりが上手い。


 拳悟が「俺も貼る。俺も遭難するタイプだし」と言って自分の表にもシールを貼った。表の真ん中にでんと貼るので、罫線が見えなくなる。

 「そこは貼っちゃだめだろ」

 凜太郎が小さく突っ込み、拳悟が「ほら、これが俺の回避」と笑った。笑って言うから、余計に刺さる。


 芽依はそのやりとりに、少しだけ肩の力が抜けた。笑いって、空気を柔らかくする。柔らかくなった空気の隙間から、芽依は言葉を出した。


 「……今日、何をすればいい?」

 自分から聞いた。口に出しただけで、胸が熱くなる。逃げないための一歩。


 凜太郎はすぐに答えなかった。芽依の表とノートを見比べ、短く頷く。

 「原稿用紙を用意する。書き始める前の準備じゃなくて、書くための準備」

 「準備の準備は禁止、ってこと?」

 芽依が言うと、拳悟が「それ、芽依の得意技」と笑う。菜稀が「今、禁じ手にしたからね」と腕を組んだ。


 「買いに行こう」

 菜稀が立ち上がった。椅子がギギッと鳴って、芽依は肩をすくめる。

 「文具店。商店街のとこ。逃げたら追う」

 「追わないで……」

 「追う。走れる靴で来てよかった」

 菜稀は勝手に芽依の鞄を持ち上げ、外へ出る方向に振った。


 商店街の文具店は、冷房が効きすぎていて、セミの声が急に遠くなった。棚に並ぶ原稿用紙の束は、白なのに白くない。紙の白にも種類がある。芽依はそんなことを初めて知った。


 「どれにする?」

 菜稀が棚の前で振り返る。芽依は指で端を触ってみて、ざらりとした感触に驚いた。

 「これ、ざらざらする」

 「鉛筆向き。ほら、芽依、書きやすい言い訳が消えた」

 「言い訳にしてない……」

 言いかけて、芽依は口を閉じた。してた。してたから、ここにいる。


 レジで会計をしていると、後ろから「それ、いいね」と声がした。凜太郎だった。いつの間に来たのか、手には同じ店の封筒。見積書か何かだろう。


 「凜太郎も来たの?」

 芽依が聞くと、凜太郎は頷いて、芽依の原稿用紙を見た。

 「買えた」

 その二文字が、昨日と同じ温度で胸に落ちた。重くない。少し、軽い。


 帰り道、菜稀は拳悟に「既読だけじゃなくて、歩く速度も合わせろ」と訳の分からない命令をして、拳悟が「はいはい」と言いながらちゃんと歩幅を揃えた。芽依はその後ろ姿を見て、笑ってしまう。


 夜。自分の机に原稿用紙を置くと、白さが昼よりまぶしく見えた。芽依は作業表を広げ、空欄のままのマスを見つめる。逃げたくなる。けれど、今日は逃げないと決めた。


 芽依は小さく書いた。


 七月二十六日:原稿用紙を開く。最初の一行を書く。


 書いた途端、肩が少しだけ軽くなった。紙の上の文字が、未来に手すりを付けたみたいだった。


 スマホが震えた。凜太郎からのメッセージ。


 『一行でも進めたら、明日が楽になる』


 芽依はその文を見て、はにかんでしまった。誰にも見られていないのに、視線を落とす癖が出る。画面の光が頬を照らして、熱い。


 芽依は返事を打つ。短く。


 『今日、書く』


 送信して、原稿用紙を一枚引き抜いた。ペン先が紙に触れる。ざらざらが、ちゃんと書ける音に変わる。


 芽依は、最初の一行を書いた。



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