第7話 裏切者は誰?
七月の最初の週。放課後の廊下は、窓から入る風がぬるくて、床に落ちた光だけがやけに涼しそうに見えた。
芽依は図書室に向かう途中で、菜稀に手首をつかまれた。
「ちょっと来て! 走らないでいいから、早歩きで!」
「早歩きって、ほぼ走ってるよ……」
菜稀の靴音に引っ張られるまま、校舎中央の掲示板の前に立つ。生徒会の連絡、委員会の募集、文化祭の出し物案――色とりどりの紙の中に、白いコピー用紙が何枚も並んでいた。
上の見出しに太字である。
「『帯コメントで紹介しよう! おすすめ作品コーナー』……?」
図書委員会の印刷だ。紙の端に、スタンプみたいな小さな本のマーク。下には、短い紹介文がずらりと並び、それぞれに一行だけ、黒い帯の形に囲われた言葉がついている。
芽依の喉が、きゅっと鳴った。
その真ん中に、見覚えのある一文があった。
『自分の作品に帯をつけよう』
ホワイトボードに菜稀が書いたとき、芽依は「なんか本屋さんみたい」と笑って、笑ったあと、照れて視線を落とした。あの言葉が、今は掲示板に貼られている。
「ね、似てない? いや、似てるどころじゃなくない?」
菜稀が腕を組む。目だけが笑っていない。
「……うちの、合言葉だったよね」
芽依は、紙の文字を見つめ直す。偶然だと言い切るには、似すぎている。帯の形まで、黒い線の太さまで。
「凜太郎、知ってるかな」
「今から言う。ていうか、全員集合」
菜稀は芽依の背中を押した。芽依は足が止まりかける。胸の奥が「明日考えよう」と囁く。けれど、その声を聞いた瞬間、六月の終わりの白紙がよみがえった。
芽依は息を吸って、歩き出した。
文芸部室の扉を開けると、古い扇風機が「ギ……」と小さく鳴り、紙が一枚、風でめくれた。机の上には原稿、回収表、赤ペン。凜太郎が会計ノートの角を揃えているところだった。
「凜太郎、掲示板……」
菜稀が言いかけたところで、拳悟が先に口を挟んだ。
「お、文化祭のやつ? 見た見た。図書委員、気合い入ってたな」
「見たの?」
芽依の声が上ずる。
拳悟はスマホをひらひらさせた。
「昼休みにね。まあ、偶然だよ。帯コメントなんて、誰でも思いつくって」
「“帯コメント”ならまだしも、言葉まで同じなんだけど」
菜稀が指を二本立てて、空中に黒い帯の形を描いた。
凜太郎が、ノートを閉じた。音は小さいのに、部室の空気が変わる。誰かが笑って流してくれる、いつもの逃げ道が消える。
菜稀が、いつもの調子で口角を上げる。
「ねえ。これさ――裏切者は誰?」
冗談のはずだった。菜稀は、笑いながら言った。言ったのに、芽依は笑えなかった。
拳悟の笑いも、途中で止まった。凜太郎は視線を上げず、鉛筆を机に置いた。
扇風機の風が、紙の端をぴらりと揺らす。その音が、やけに大きい。
「ちょっと待って」
芽依は、言葉が勝手に出てきた。自分でも驚くくらい、早かった。
「誰かを決める前に、確認しよう。……いつ、どこで、誰に話したか。今ここで」
菜稀が目を瞬かせる。芽依の顔を見て、ゆっくり頷いた。
「芽依、今の言い方、先生みたい」
「褒めてる?」
「褒めてる。たぶん」
芽依は笑いそうになって、唇を押さえた。笑っていいのか、まだ分からない。けれど、笑いそうになった自分を、逃げ道にしない。
「俺は言ってないよ」
拳悟が両手を上げた。机の上の飲み物が揺れて、氷が鳴る。
「ていうか、俺が言ったらまずいって分かるし」
「“まずい”って思ってるのに、返事はあとでにするけどね」
菜稀が即座に刺す。
「刺さるんだよ、それ」
拳悟が笑おうとして、笑いきれずに肩をすくめた。
凜太郎が初めて顔を上げた。芽依の方ではなく、掲示板のコピーを想像するみたいに、机の一点を見る。
「同じ言葉が出るのは、情報がどこかで重なった可能性が高い。偶然か、伝わったか。どちらでも、今やることは同じ」
「今やること?」
芽依が問う。
凜太郎は短く言った。
「文化祭の部誌を、止めない」
芽依の胸が少しだけ軽くなる。凜太郎は、背負ったまま走ろうとしている。だからこそ、芽依は隣に立てる。
芽依は回収表を引き寄せ、空いている欄に鉛筆を当てた。
「じゃあ、書く。私から。……四月に入部したとき、家では言った。母に。『文化祭で部誌つくる』って」
「それは普通だろ」
拳悟が小さく言う。
「普通でも、言ったのは事実。あと、五月の放課後。喫茶店で、クラスの子に『文芸部、忙しい』って言った。帯の話はしてない。でも、部誌の話はした」
芽依は書きながら、背中に汗をかく。怖いのは、責められることじゃない。自分がまた「明日」で逃げて、誰かに疑いを残すことだ。
菜稀が勢いよく椅子を引いた。
「私も書く! 私は――駅前で、印刷屋さんの前を通ったとき、つい『今年は帯つけるんだよ』って言った。相手は……誰だっけ。あ、図書委員の一年の子! 名前、今思い出せない!」
「思い出して」
凜太郎が淡々と言う。菜稀は頭を抱えた。
拳悟は、スマホを机に置いたまま、指先で机の縁をこすった。
「……俺は、言ってない。……けど」
「けど?」
芽依が顔を上げる。
拳悟は、視線を泳がせた。いつもの「まあまあ」が喉まで出て、飲み込んだ。
「相談、された。図書委員の知り合いに。『面白い紹介の仕方ない?』って。俺、適当に……」
「適当に?」
菜稀の声が低くなる。
拳悟が笑おうとして、今度は笑わなかった。
「……帯、って言った。言っただけ。言葉までは言ってない。たぶん」
“たぶん”。芽依は、その曖昧さが自分の昔と似ているのが分かって、胸の奥が痛んだ。
凜太郎は拳悟を見つめたまま、責める言葉を出さない。その代わり、鉛筆で紙の端を一度、叩いた。
「たぶんを、今ここで確かめる。誰に相談された?」
「……同じクラスの、図書委員。えっと……」
拳悟の口が止まる。扇風機の風が、机の上の回収表を揺らす。芽依は手で押さえた。逃げない。戻る。今、話す。
芽依は、凜太郎の袖口の辺りをちらっと見た。指先が、ほんの少しだけ震えている。震えているのに、声は落ち着いている。
「拳悟」
芽依は、名前を呼んだ。六月の終わりより、少しだけ太い声で。
「思い出すまで、一緒に考える。……あとでじゃなくて、今」
拳悟は息を吐いた。苦笑いでも、照れ笑いでもない、変な顔をして、頷いた。
「……うん。今」
その一言が部室に落ちた瞬間、氷の音より小さいのに、芽依にははっきり聞こえた。
疑いの矢が刺さる前に、言える言葉がある。明日じゃない、今日の一歩がある。




