第5話 友達以上の距離、恋人未満の言い訳
六月の放課後。梅雨の切れ目の青空が出ると、校舎の窓は急に明るくなった。けれど文芸部室だけは、いつも通り紙の匂いが薄く残り、机の上の原稿用紙が白さを主張している。
芽依は椅子を引き寄せ、ノートを開いた。鉛筆の芯を整える癖が出そうになって、慌てて止める。机だけ整えて満足するのは、もう卒業したい。
「今日の一歩、いける?」
菜稀が部室のドアに肘をかけて、にやりと笑う。背中を押すときの顔だ。
「いける。……たぶん」
「たぶん、禁止ね」
芽依が口を尖らせたところで、凜太郎が会計ノートを閉じた。輪ゴムをかけ、机の角に揃えて置く。いちいち整っていて、見ているだけで息が整う。
「芽依。今、困ってるのはどこ?」
問い方が短い。逃げ道も、言い訳も、広げないまま、焦点だけ当ててくる。
「えっと……最後の場面。書きたいのに、言葉が……」
芽依はノートの余白を指で撫でた。白いところが多いほど、胸がざわつく。
凜太郎は芽依のノートの端に、付箋を一枚貼った。真っ白な付箋だ。芽依の心臓が一瞬だけ跳ねる。
「ここに一文。主語と動詞だけでいい」
「主語と動詞……」
芽依が固まると、拳悟が椅子を回しながら割り込んできた。
「え、作文の授業みたい。凜太郎って国語の先生でも狙ってんの?」
「狙ってない」
凜太郎は即答し、拳悟のほうを見ない。拳悟が「冷たっ」と笑って、菜稀に背中を叩かれた。
「ほら芽依、いま!」
菜稀が両手で拍手を一回。芽依の肩がびくっと跳ねる。
芽依は息を吸って、付箋に書いた。
――私は、逃げない。
書けた瞬間、自分で驚く。たったそれだけの文字なのに、目の前の白が少し薄くなる。
凜太郎が付箋を見て、うなずいた。
「いい。次は、どう逃げない?」
「えっ……」
「場所。動き。何をするか」
凜太郎の指が、付箋の下の行を軽く叩く。押すのは背中じゃなくて、今日の行だ。
芽依は慌てて続けて書いた。
――校舎裏のベンチへ行って、言う。
書きながら、頬が熱くなる。言うって、誰に。芽依はそこまで書いて、鉛筆を止めた。菜稀が目ざとく覗き込む。
「うわ、ベンチ。青春」
「うるさい」
「で、誰に言うの?」
「……誰でもいい」
芽依が早口で言い切ったところで、凜太郎が小さく咳払いをした。視線はノートに落ちたままなのに、芽依はなぜか見られた気がして、さらに頬が熱くなる。
「部誌の相談、今日はここまで。俺、これからバイト」
凜太郎が腕時計を見た。秒針が進む音が聞こえる気がする。
芽依は「お疲れさま」と言いかけて、言葉が引っかかった。自分がここにいるせいで、時間を取らせていないか。凜太郎はいつも、間に合うように動く人だ。だから余計に、芽依の「もたもた」が邪魔になりそうで怖い。
「……私、邪魔?」
口に出てしまった。出た瞬間に、胃がきゅっと縮む。
凜太郎は鞄を肩にかける手を止めた。すぐに否定の言葉は出さない。代わりに、芽依の付箋を指でつまみ、そっと剥がす。剥がして、芽依のノートの表紙の裏に貼り直した。外からは見えない場所だ。
「邪魔なら、貼らない」
それだけ言って、凜太郎は廊下へ歩き出す。芽依は一瞬置いていかれそうになり、慌てて鞄を掴んだ。
部室の鍵を閉める拳悟が「え、二人で帰る感じ?」とわざとらしく言い、菜稀がすかさず言った。
「もう友達以上でしょ」
「違うし!」
芽依の声が、また少し高くなる。拳悟が口笛を吹く真似をした。
「はいはい。恋人未満の言い訳、いただきました」
「言い訳じゃない!」
駅前までの道は、夕方の匂いがした。商店街の八百屋が店じまいを始め、パン屋から甘い匂いが流れてくる。凜太郎は歩幅を芽依に合わせてくれる。合わせているのに、いかにも、じゃない。足音の間隔が、自然にそろっていく。
駅前の小さな喫茶店。看板の豆の絵が少し色あせている。凜太郎が扉を押さえ、芽依を先に入れる。店内は冷房が効きすぎていて、芽依の腕に鳥肌が立った。
「寒い?」
凜太郎が短く言い、メニューを見ずに店員へ向けて言う。
「ホットのミルクティー、ひとつ。砂糖なしで」
芽依が「私、頼んでない」と言いかけたところで、店員が「かしこまりました」と笑って引っ込んだ。
「……なんで分かるの」
「前に、砂糖いらないって言ってた」
凜太郎は椅子に座り、カバンからシフト表の紙を出した。折り目がまっすぐで、手に馴染んでいる。芽依はその紙を見て、また胸が小さく痛む。
自分は、白い余白ばかりだ。凜太郎は、余白まで予定が入っている。
芽依は机の下で、指先を握った。出したい言葉があった。けれど「ごめん」は違う。「ありがとう」も、まだ足りない気がする。
代わりに、芽依は言った。
「次の締切、守る」
声が震えないように、息を整えて。
凜太郎はシフト表から目を上げ、芽依を見る。目が合う。芽依は視線を落としたくなって、ぎりぎりで堪えた。逃げない、と書いたばかりだ。
「うん」
凜太郎は頷いて、指で机を軽く二回叩いた。合図みたいに。
「一緒に守ろう」
その言葉が、砂糖のないミルクティーみたいに、じわっと温かい。芽依の胸の中の余白が、少しだけ埋まる。
店員がカップを運んできた。湯気が上がり、芽依は思わず手を伸ばす。熱さが掌に伝わる。ここにいるのは邪魔じゃない。そう思いたくて、芽依はカップの縁に口をつけた。
「ねえ、凜太郎」
芽依が言うと、凜太郎は「ん」と短く返す。
芽依は、付箋に書いた二つ目の文を思い出した。
――ベンチへ行って、言う。
今日は、ベンチじゃない。喫茶店だ。けれど、言ってしまってもいい気がした。
「私、逃げない。……逃げたくなっても、ちゃんと戻る」
芽依の声は小さかった。けれど、消えなかった。
凜太郎は返事の代わりに、腕時計を一度見る。時間を確認したあと、カバンを閉じる。
「俺も。背負いすぎたら、言う」
それは約束の形だった。難しい言葉じゃなくて、日付も未来もまだ書いてないのに、芽依の胸の奥に残る。
拳悟と菜稀の言った「友達以上」「恋人未満」の言葉が、喫茶店の天井でふわっと漂う。芽依はそれを、手で掴んで隠したくなった。けれど今日は、隠さない。
芽依はカップを置き、少しだけ笑った。はにかむ、と言われたら否定したくなる顔で。
「じゃあ、次の締切の日。放課後、校舎裏のベンチで確認して」
言えた。日付はまだ言ってない。けれど場所と行動は言えた。
凜太郎が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「分かった。ベンチ」
短い返事なのに、芽依の胸が軽い。
店の外に出ると、空が薄い橙色に変わっていた。凜太郎は駅の改札へ向かい、芽依はその背中を見送る。追いかけたいのに追いかけない。代わりに、芽依はノートを鞄から出し、付箋のあるページを開いた。
白い余白に、芽依は小さく書き足す。
――放課後、ベンチで確認。
今日の一歩は、喫茶店の机の上に残った。芽依はそれを確かめるように、鉛筆を握り直した。




