第3話 自分の作品に帯をつけよう
五月の放課後。昇降口の外に出ると、風がもう冬の角を忘れていた。芽依は靴紐を結び直しながら、文芸部室へ向かう。ノートの一行は、あれから少し増えた。増えたぶん、ページを開くたびに胸が落ち着く――はずなのに、部室の扉の前だけは別だった。
扉を開けた瞬間、白い壁が一枚、声を出した。
「ででん!」
菜稀がホワイトボードの前に立ち、マーカーを掲げている。黒板消しの代わりに、雑巾を肩に乗せていた。ボードには、太い文字ででかでかと書かれている。
――自分の作品に帯をつけよう。
「……おび?」
芽依が小さく声に出した。頭の中に、着物の帯が浮かぶ。次に、腹巻が浮かぶ。なぜか最後に、凜太郎が図書室で表紙を直していた手つきが浮かび、芽依は慌てて首を振った。
「そう、おび! 本屋さんの、あれ。巻いてあるやつ!」
「巻くって……紙に巻くの?」
「巻くよ。心にも巻くよ」
菜稀は自信満々に言い切り、マーカーのふたを歯でカチッと閉めた。危なっかしくて、芽依の指先が勝手に動く。
「口で閉めると、インクつくよ」
言ってから、芽依は自分の声に驚く。菜稀は「おっ」と目を丸くし、すぐに笑った。
「芽依、言えるようになってきたじゃん。今日の一歩、増えてる」
「……増えてる、かな」
机の奥では、拳悟が椅子を回しながらボードを見上げている。笑っているのに、目だけが逃げ道を探しているみたいだった。
「派手すぎない? うち、文芸部だよ? 美術部じゃないよ?」
拳悟は言いながら、ボードの「帯」のところだけ、指でなぞって消そうとする。消えない。菜稀が「消すな!」と雑巾を投げるふりをし、拳悟は肩をすくめて避けたふりをした。
その横で、凜太郎は机にノートを並べ、定規を当てて、紙の端を揃えている。部室に入ってきた芽依へ視線を向け、短くうなずく。言葉は少ないのに、挨拶の分だけ空気が整う。
「文化祭、部誌を出す。決まった」
凜太郎が言うと、拳悟が「あ、そういうのは早いね」と軽く笑った。菜稀はホワイトボードをバンッと手のひらで叩き、音の大きさに自分でも少しびっくりして、咳払いでごまかす。
「出すなら、読まれる形にしないと。背表紙で迷わせるやつ、ね」
「迷わせる……」
芽依は自分のノートを抱え直した。読まれる、という言葉が、ふわっと現実になる。読まれるなら、怖い。けれど、読まれるなら――少しだけ、嬉しい。
凜太郎は会計ノートを開き、ページを一枚ずつめくった。紙の音が、落ち着いたリズムで部室に広がる。
「部費は、今月分まで入ってる。印刷は駅前の印刷所。部誌二十部、本文二十四ページ想定。表紙は色紙を使うと一枚あたりが上がる」
芽依は「想定」という言葉だけで、頭がくらくらした。凜太郎は数字を並べながら、鉛筆の先を折れない力で持っている。折れないのに、硬い。
菜稀が手を挙げる。
「はいはい! そこで帯ですよ。帯コメント。短い言葉で、読んでみたくなるやつ」
「キャッチコピー、みたいな?」
「そうそう。けど、もっと近い。背中を押すやつ」
芽依はその言い方を、胸の中で転がした。背中を押す――。自分の背中を押してくれた二文字が、すぐに思い浮かぶ。
――今日ね。
言ったのは菜稀。けれど、芽依の足を前へ動かしたのは、そのあと凜太郎が言った「十秒だけ」だった気がする。十秒なら逃げる暇がない、と指で数えた横顔。
芽依は、ホワイトボードの大きな文字を見上げた。帯。短い言葉。背中。
(私の作品にも、そんなの、つけられるのかな)
芽依の手の中のノートは、まだ薄い。薄いのに、重い。重いのに、抱きしめると少し安心する。
凜太郎が会計ノートを閉じ、芽依のノートに視線を落とした。
「芽依。今、何ページ書けてる」
問いかけが、責める声じゃない。けれど、逃げ道もない。芽依は喉がきゅっとなり、数字を探す。
「……二ページ、ちょっと。行間、広いけど」
拳悟が「行間は大事だよ。心の余白だよ」と言って、誰より先に笑った。菜稀が「余白に逃げるな」と返し、拳悟は「ぎくっ」と胸を押さえて大げさに倒れる。芽依は思わず口元を押さえた。笑い声が出る直前で、はにかんでしまう。
凜太郎は笑わない。けれど、拳悟の芝居が床に転がったままなのを見て、ペン立てを少しだけ奥へずらした。倒れた拳悟の足が当たっても、ペンが落ちない位置に。
「二ページなら、今月中に四ページを目標。締切は、七月の最初の土曜にする」
「早っ! 文化祭、秋だよ!」
拳悟が起き上がって抗議する。菜稀が肩をすくめた。
「夏休みに泣くより、今泣いたほうが涼しい」
芽依は「今泣いたほうが涼しい」の意味がわからないのに、なぜか笑いが込み上げた。菜稀の言葉は、変なところで刺さる。
凜太郎は淡々と続ける。
「七月までに原稿が揃えば、八月に見直せる。九月は印刷と製本。文化祭当日に、慌てない」
慌てない。芽依の胸が、ちくりとした。提出前夜に机だけ綺麗にして満足した自分が、思い出の中で布団にもぐっている。芽依は唇を噛んで、でも言い訳を飲み込んだ。
「……うん。私、やる」
声が、少しだけ真っすぐ出た。菜稀が「よし」と小さく拳を握る。拳悟が「芽依が言った!」と大げさに拍手し、凜太郎はただ、短くうなずいた。
「帯は、あとで練習する。まずは原稿」
凜太郎がそう言って、芽依のノートの上に付箋を一枚置く。真っ白な付箋だ。芽依はそれを見るだけで、怖くなりかけた。
凜太郎は付箋の端を指でトントンと叩き、視線を上げる。
「怖いなら、言葉を先に決める。帯の練習だ」
「言葉……?」
芽依が聞き返すと、凜太郎は迷わず言った。
「『今日の一歩』。それが今の芽依の帯」
芽依の胸の奥が、ふっと温かくなった。付箋が、ただの白じゃなくなる。短い言葉が、背中に触れる。
菜稀がボードの下に、さらに小さく書き足した。
――今日の一歩。
芽依はそれを見て、息を吸った。吐いた。ノートを開く指が、迷わず動く。
拳悟が椅子を回しながら、ふと真面目な顔で言う。
「でもさ、帯って、他人がつけると面白いよね。自分じゃ照れるし」
芽依の頬が、また熱くなる。照れる。自分じゃ言えない。だから――。
芽依は、凜太郎の横顔を見た。定規で紙を揃える手。余計な力の入らない指。短い言葉で、方向だけ示す声。
(私も、誰かの背中を押せるのかな)
芽依はペンを握り、付箋に小さく書いた。
――今日の一歩。
字を書くだけで、胸が少し軽くなる。凜太郎がその字を見て、うなずく。
「それでいい」
たった四文字なのに、芽依のノートの白いページが、もう逃げ場じゃなくなる気がした。部室の窓の外で、五月の風が木の葉を揺らす。芽依は、揺れる影を見ながら、次の一行のために、息を整えた。




