第2話 提出前夜、机だけが綺麗
四月下旬の夜。芽依の部屋の机は、やけに広かった。
教科書は立てて並べ直し、付せんは色ごとに揃え、シャープペンは芯の太さで順番をつけた。消しゴムの角も、使いかけのまま四角く見える向きに置く。小さな定規を机の手前にまっすぐ当てると、机の縁と平行になって気分がいい。
「よし」
芽依は両手を腰に当てて頷いた。頷いた勢いで、机の上の原稿用紙がふわっと揺れた。白いままの束が、風に弱い生き物みたいにそよぐ。
芽依は見なかったことにして、鉛筆立ての中をさらに整えた。削ったばかりの鉛筆を、尖っている順に並べる。今日のために買った新品の消しゴムを封を切り、匂いを一度だけ嗅いでから元の場所に戻す。やる気の匂いがした。匂いだけは。
机の端に置いた小さなメモ帳が目に入る。図書室で書いた名前の字は、やっぱり少し曲がっていた。
芽依はそれを裏返し、何も書いていないページを開いた。白い紙が続くと、胸の奥がむず痒くなる。書けばいい。書けば、明日の自分が楽になる。分かっているのに、指が止まる。
芽依は机の引き出しを開け、入部した日に菜稀から渡された「提出日」のメモを取り出した。
――明日の朝。
紙一枚で、明日の朝が急に速くなる。芽依は笑ってごまかそうとして、声が出なかった。
「……明日、朝、早いし。今日は、準備だけ」
言い訳が、口の中でうまく転がった。芽依は準備をした。机は綺麗だ。必要なものは揃っている。だから今日は、寝てもいい。
そう思いながら、芽依は原稿用紙の束を透明なクリアファイルに入れた。白いままの束が、余計に整って見えてしまうのが悔しい。
布団に潜り込むと、天井の木目が波みたいにゆらゆらしていた。芽依は「明日」と小さく言い、目を閉じる。言った瞬間だけ安心して、次の瞬間には不安が戻る。安心と不安が交互に来るうち、芽依は眠ってしまった。
翌朝。
芽依は、目覚まし時計の音を止めた記憶がないのに、音が止まっていた。カーテンの隙間から差し込む光が、すでに「急げ」と言っている色だった。
「うそ……」
時計を見る。いつもの登校時間を過ぎている。芽依は布団から飛び出し、机へ走った。机は、昨夜のまま綺麗だった。綺麗すぎた。
クリアファイルを開く。原稿用紙は白い。白い、白い、白い。
芽依は、膝の力が抜けそうになりながら制服に着替え、髪を結び、家を飛び出した。息が白くならない季節なのに、胸の奥だけが冷たい。
午前の授業をなんとか終え、昼休み。芽依は文芸部室の前で立ち止まった。扉の向こうから、菜稀の声が聞こえる。笑っている。笑っているけど、笑いの中に「逃がさない」が混じっている声だ。
芽依が扉を開けた瞬間、菜稀が振り返った。芽依の顔を見るより早く、菜稀の手が机の上を指差す。
「ねえ芽依。提出物、出した?」
芽依は反射で頷きそうになり、喉で止まった。頷いたら、たぶん次の瞬間に自分が泣く。芽依は、先に口を開いた。
「ごめん……私が悪い」
言った途端、肩の力が抜ける。言い訳を飲み込んだら、空気が少しだけ軽くなるのが分かった。
菜稀は机の上の原稿用紙をひらりと持ち上げた。白い紙が、旗みたいに揺れる。
「机だけは、めっちゃ綺麗って聞いた。誰からかって? 私の勘」
「勘、当たりすぎ……」
芽依が小さく言うと、拳悟が椅子にだらんと座ったまま、笑って手を振った。
「まあまあ。締切って、だいたい人を焦らせるためにあるから」
「焦らせるためじゃなくて、守るためにあるんだよ」
返事をしたのは凜太郎だった。机の上に会計ノートを広げたまま、視線だけをこちらに向ける。叱る顔じゃない。ただ、状況を確認する顔だった。
芽依は、凜太郎の前に立つのが怖くて、椅子の背に指を置いたまま動けなくなる。白い紙のせいで、自分の存在まで薄くなった気がした。
凜太郎は会計ノートを閉じ、芽依のほうへノートを一冊差し出した。芽依が普段使っている、罫線のある小さなノートだ。
「原稿用紙じゃなくていい。今日書ける一行だけ、ここに」
「一行……?」
「うん。一行。今この場で決める」
芽依の喉まで「明日」が上がってきた。明日なら、もっといい一行が書ける。明日なら、恥ずかしくない。明日なら――。
芽依は自分の口を手のひらで覆った。菜稀が「ほら、出た」と言いたげに目を細める。拳悟は「明日って便利だよね」と笑い、凜太郎は笑わない。
「明日って言うと、明日が重くなる」
凜太郎が短く言った。芽依は、胸の真ん中を指で押されたみたいに息が詰まる。言い返せない。だって、そうだ。
凜太郎は立ち上がり、部室の鍵を手に取った。
「昼休み、まだある。校舎裏のベンチ、空いてる」
菜稀が「行ってこい!」と芽依の背中を叩いた。昨日も今日も、背中はよく叩かれる。芽依は少しだけよろけて、でも前に進んだ。
校舎裏のベンチは、授業のざわめきから一枚壁を挟んだだけで、急に静かになる。芽依は座る前に、制服のスカートの皺を伸ばした。凜太郎は先に座り、ノートを芽依の膝の上に置く。
「題材は、何でもいい」
「でも……私、何を書けば……」
芽依が言い終える前に、凜太郎は図書室で芽依が抱えていた文庫の題名を口にした。
「昨日、返却台の前で、手が止まってた」
芽依は顔が熱くなり、視線を落とす。はにかむ癖が勝手に出る。凜太郎はそれを追いかけず、ベンチの背にもたれて空を一度見た。
「そのまま書けばいい。『四月の放課後、図書室で――』とか」
芽依は、ノートの白いページを見た。原稿用紙より怖くないのは、罫線があるからだろうか。それとも、隣に人がいるからだろうか。
芽依はペンを握った。握った手が少し震える。凜太郎は「十秒だけ」と言って、指で静かに数え始めた。十秒なら、逃げる暇がない。
芽依は息を吸い、吐いて、書いた。
――四月の放課後、図書室の返却台の前で、私は自分の声にびっくりした。
書けた。たった一行。けれど、白紙じゃない。
芽依は自分の字を見て、目を丸くした。驚きが、胸の中で小さく跳ねる。
「……書けた」
凜太郎は頷いた。それだけで、芽依の肩がふっと軽くなる。
「今日の一歩でいい。次の一歩は、今日の続きになる」
芽依はノートを閉じ、胸に抱えた。はにかみながら、でも逃げずに。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。芽依は立ち上がるとき、ベンチの下に落ちていた小さな紙くずを拾って、ゴミ箱へ入れた。机だけじゃなくて、今いる場所も少し整えられた気がした。




