表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
はにかむ帯と、友達以上の答案用紙  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/20

第2話 提出前夜、机だけが綺麗

 四月下旬の夜。芽依の部屋の机は、やけに広かった。


 教科書は立てて並べ直し、付せんは色ごとに揃え、シャープペンは芯の太さで順番をつけた。消しゴムの角も、使いかけのまま四角く見える向きに置く。小さな定規を机の手前にまっすぐ当てると、机の縁と平行になって気分がいい。


 「よし」


 芽依は両手を腰に当てて頷いた。頷いた勢いで、机の上の原稿用紙がふわっと揺れた。白いままの束が、風に弱い生き物みたいにそよぐ。


 芽依は見なかったことにして、鉛筆立ての中をさらに整えた。削ったばかりの鉛筆を、尖っている順に並べる。今日のために買った新品の消しゴムを封を切り、匂いを一度だけ嗅いでから元の場所に戻す。やる気の匂いがした。匂いだけは。


 机の端に置いた小さなメモ帳が目に入る。図書室で書いた名前の字は、やっぱり少し曲がっていた。


 芽依はそれを裏返し、何も書いていないページを開いた。白い紙が続くと、胸の奥がむず痒くなる。書けばいい。書けば、明日の自分が楽になる。分かっているのに、指が止まる。


 芽依は机の引き出しを開け、入部した日に菜稀から渡された「提出日」のメモを取り出した。


 ――明日の朝。


 紙一枚で、明日の朝が急に速くなる。芽依は笑ってごまかそうとして、声が出なかった。


 「……明日、朝、早いし。今日は、準備だけ」


 言い訳が、口の中でうまく転がった。芽依は準備をした。机は綺麗だ。必要なものは揃っている。だから今日は、寝てもいい。


 そう思いながら、芽依は原稿用紙の束を透明なクリアファイルに入れた。白いままの束が、余計に整って見えてしまうのが悔しい。


 布団に潜り込むと、天井の木目が波みたいにゆらゆらしていた。芽依は「明日」と小さく言い、目を閉じる。言った瞬間だけ安心して、次の瞬間には不安が戻る。安心と不安が交互に来るうち、芽依は眠ってしまった。


 翌朝。


 芽依は、目覚まし時計の音を止めた記憶がないのに、音が止まっていた。カーテンの隙間から差し込む光が、すでに「急げ」と言っている色だった。


 「うそ……」


 時計を見る。いつもの登校時間を過ぎている。芽依は布団から飛び出し、机へ走った。机は、昨夜のまま綺麗だった。綺麗すぎた。


 クリアファイルを開く。原稿用紙は白い。白い、白い、白い。


 芽依は、膝の力が抜けそうになりながら制服に着替え、髪を結び、家を飛び出した。息が白くならない季節なのに、胸の奥だけが冷たい。


 午前の授業をなんとか終え、昼休み。芽依は文芸部室の前で立ち止まった。扉の向こうから、菜稀の声が聞こえる。笑っている。笑っているけど、笑いの中に「逃がさない」が混じっている声だ。


 芽依が扉を開けた瞬間、菜稀が振り返った。芽依の顔を見るより早く、菜稀の手が机の上を指差す。


 「ねえ芽依。提出物、出した?」


 芽依は反射で頷きそうになり、喉で止まった。頷いたら、たぶん次の瞬間に自分が泣く。芽依は、先に口を開いた。


 「ごめん……私が悪い」


 言った途端、肩の力が抜ける。言い訳を飲み込んだら、空気が少しだけ軽くなるのが分かった。


 菜稀は机の上の原稿用紙をひらりと持ち上げた。白い紙が、旗みたいに揺れる。


 「机だけは、めっちゃ綺麗って聞いた。誰からかって? 私の勘」


 「勘、当たりすぎ……」


 芽依が小さく言うと、拳悟が椅子にだらんと座ったまま、笑って手を振った。


 「まあまあ。締切って、だいたい人を焦らせるためにあるから」


 「焦らせるためじゃなくて、守るためにあるんだよ」


 返事をしたのは凜太郎だった。机の上に会計ノートを広げたまま、視線だけをこちらに向ける。叱る顔じゃない。ただ、状況を確認する顔だった。


 芽依は、凜太郎の前に立つのが怖くて、椅子の背に指を置いたまま動けなくなる。白い紙のせいで、自分の存在まで薄くなった気がした。


 凜太郎は会計ノートを閉じ、芽依のほうへノートを一冊差し出した。芽依が普段使っている、罫線のある小さなノートだ。


 「原稿用紙じゃなくていい。今日書ける一行だけ、ここに」


 「一行……?」


 「うん。一行。今この場で決める」


 芽依の喉まで「明日」が上がってきた。明日なら、もっといい一行が書ける。明日なら、恥ずかしくない。明日なら――。


 芽依は自分の口を手のひらで覆った。菜稀が「ほら、出た」と言いたげに目を細める。拳悟は「明日って便利だよね」と笑い、凜太郎は笑わない。


 「明日って言うと、明日が重くなる」


 凜太郎が短く言った。芽依は、胸の真ん中を指で押されたみたいに息が詰まる。言い返せない。だって、そうだ。


 凜太郎は立ち上がり、部室の鍵を手に取った。


 「昼休み、まだある。校舎裏のベンチ、空いてる」


 菜稀が「行ってこい!」と芽依の背中を叩いた。昨日も今日も、背中はよく叩かれる。芽依は少しだけよろけて、でも前に進んだ。


 校舎裏のベンチは、授業のざわめきから一枚壁を挟んだだけで、急に静かになる。芽依は座る前に、制服のスカートの皺を伸ばした。凜太郎は先に座り、ノートを芽依の膝の上に置く。


 「題材は、何でもいい」


 「でも……私、何を書けば……」


 芽依が言い終える前に、凜太郎は図書室で芽依が抱えていた文庫の題名を口にした。


 「昨日、返却台の前で、手が止まってた」


 芽依は顔が熱くなり、視線を落とす。はにかむ癖が勝手に出る。凜太郎はそれを追いかけず、ベンチの背にもたれて空を一度見た。


 「そのまま書けばいい。『四月の放課後、図書室で――』とか」


 芽依は、ノートの白いページを見た。原稿用紙より怖くないのは、罫線があるからだろうか。それとも、隣に人がいるからだろうか。


 芽依はペンを握った。握った手が少し震える。凜太郎は「十秒だけ」と言って、指で静かに数え始めた。十秒なら、逃げる暇がない。


 芽依は息を吸い、吐いて、書いた。


 ――四月の放課後、図書室の返却台の前で、私は自分の声にびっくりした。


 書けた。たった一行。けれど、白紙じゃない。


 芽依は自分の字を見て、目を丸くした。驚きが、胸の中で小さく跳ねる。


 「……書けた」


 凜太郎は頷いた。それだけで、芽依の肩がふっと軽くなる。


 「今日の一歩でいい。次の一歩は、今日の続きになる」


 芽依はノートを閉じ、胸に抱えた。はにかみながら、でも逃げずに。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。芽依は立ち上がるとき、ベンチの下に落ちていた小さな紙くずを拾って、ゴミ箱へ入れた。机だけじゃなくて、今いる場所も少し整えられた気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ