第15話 展示机の上、笑いと涙の渋滞
文化祭の朝は、校門をくぐった瞬間から、音が多かった。模擬店の鉄板が鳴る金属音、廊下を走る足音、どこかのクラスの呼び込みの声。昨日の印刷所の静けさが、夢だったみたいに遠い。
芽依は段ボール箱を両腕で抱えて、文芸部の教室へ向かう。箱の中には、まだインクの匂いが残る部誌がぎゅうぎゅうに詰まっていた。紙が擦れるたび、胸の中で「間に合った」が小さく鳴る。
「おはよー! 勝つよ、売るよ、今日!」
菜稀が先に来ていて、ドアを開けた芽依に向かって、いきなり拳を突き上げた。
「声、もう枯れるよ」
芽依が言うと、菜稀は舌を出して笑い、机を二つ叩いた。
「ここ、展示机。ここ、会計。で、こっちが、はにかみ担当」
「担当ってなに」
「芽依が、はにかむ係」
菜稀は真顔で言い切って、芽依の頬を指先でちょん、と触れた。
「ほら、もう赤い」
「赤くないし」
芽依は箱を机に置き、わざと乱暴にガムテープを剥がした。ぱりぱりと音がして、少し落ち着く。
凜太郎は窓際で、展示机の位置を微調整していた。床のテープに合わせ、机の脚を数センチずつ動かす。誰も頼んでいないのに、列ができた時の通路幅まで測っている。昨日の「助けてください」を言った人と同じ人だと、頭では分かっているのに、目の前の背中はいつも通り静かだ。
「……おはよう」
芽依が言うと、凜太郎は振り返り、頷いた。
「おはよう。箱、重かっただろ」
「重かったけど、まだ生きてる」
芽依が言ったら、凜太郎の口元が一瞬だけ動いた。笑う寸前で止める、いつもの癖。
そこへ拳悟が、遅れて駆け込んできた。髪が寝癖のままで、片手に値札の紙束を握っている。
「やばい、寝坊した! でも値札は作った! 俺、今日、できる男!」
「昨日からの反省は?」
菜稀が即座に言う。
「反省は……あとで」
「あとで禁止!」
菜稀の声が教室に響いて、拳悟が肩をすくめた。
展示机に部誌を並べる。表紙が白く揃うと、教室の空気が少しだけ締まった。芽依は帯の紙を一冊ずつ巻き直しながら、自分の書いた短い言葉が、見知らぬ誰かの指に触れることを想像して、喉の奥がむずむずした。
(読まれたら、どうするの……)
帯には、凜太郎の作品への一行を書いた。昨夜、印刷所の机で、震える手を押さえながら書いた言葉だ。逃げないで書いたから、逃げられない。
「はい、値札貼るぞー」
拳悟が張り切って、机の端に値札を貼りはじめる。芽依は横目で見て、すぐに笑ってしまった。
「拳悟、それ、逆」
「え? 逆って、なにが」
値札の文字が、上下逆さだった。拳悟は一瞬固まって、それから紙を剥がそうとして、勢いよく破いた。
「あっ……!」
「破くな!」
菜稀が叫び、芽依は腹の底から笑いがこみ上げて、口を押さえた。笑うと同時に、昨日の眠気と焦りと、紙の温かさが一気に戻ってきて、涙腺が妙に刺激される。
凜太郎が黙って新しい値札を一枚差し出した。拳悟は受け取りながら、小声で言った。
「……俺、今日、できる男じゃない」
「できる男は、まず上下を確認する」
凜太郎は淡々と言って、机の角を整えた。拳悟が「ぐう」と呻いて、菜稀が勝ち誇ったように頷く。
開場の合図が鳴ると、人の流れが廊下に溢れた。教室の前にも、ちらほら足が止まる。菜稀がすかさず両手でメガホン代わりの筒を作った。
「文芸部でーす! 部誌、できたて! 読むと、ちょっとだけ胸があったかくなるやつ! あと、芽依がはにかむやつ!」
「それ、売り文句じゃない!」
芽依が抗議すると、菜稀は「十分売れる」と断言した。
最初の一冊が売れたのは、予想より早かった。制服ではない、見知らぬ中学生らしい女の子が、表紙を撫でて言う。
「この帯、かわいい……。コメント、誰が書いたんですか?」
芽依は視線を落とした。頬が熱い。まさに菜稀の言う「係」だ。
「……部員です」
「へえ。これ、好き」
女の子はそう言って、財布を開いた。
会計の横で凜太郎が列を作りはじめる。人が増えると、教室の中が急に狭くなる。椅子を少し引き、通路を空け、足元に置いた段ボールを奥へ寄せる。芽依はその動きが、昨日の「ホチキスが詰まる」よりずっと頼もしく見えて、胸がきゅっとした。
昼が近づくと、模擬店の匂いが流れ込んできた。焼きそばの甘いソース、揚げ物の油。芽依の胃が鳴りそうになる。
「腹減った人、挙手」
菜稀が手を挙げ、自分で自分に拍手した。
「はい、交代制。芽依、五分でいいから水飲んで。顔、真っ白」
「真っ白じゃない」
芽依は言い返したいのに、声が少し掠れていた。笑いすぎたのか、緊張しすぎたのか分からない。
その時、凜太郎が芽依の横に来て、誰にも聞こえない大きさで言った。
「……ありがとう」
「え」
芽依は顔を上げた。凜太郎は列の方を見たまま、目だけこちらに向ける。昨日の夜、印刷所で「間に合う」と言ったときと同じ目だった。疲れているのに、折れていない。
「昨日、逃げなかったから。今日、ここに並べられてる」
凜太郎はそれだけ言って、すぐに列に戻った。
芽依は返事の代わりに、頷いた。喉の奥が詰まって、息がうまく通らない。笑ってごまかそうとして、口角を上げたら、目の奥が潤んだ。
(やだ、今ここで)
芽依は慌てて手の甲で目尻を拭く。拭いた瞬間、菜稀が横から覗き込み、声をひそめた。
「泣くなら、売り切ってからね」
「泣いてない」
「潤い補給」
菜稀は真面目な顔で言って、芽依の手元にペットボトルを置いた。
午後、教室の前を通る人が、帯の言葉を声に出して読んでいく。笑う人も、黙って頷く人もいる。芽依はそのたびに、紙の束がただの紙じゃなくなっていくのを感じた。
拳悟は、値札を今度こそ正しい向きで貼り直し、なぜか得意げに胸を張った。
「見た? 俺、成長してる」
「成長の基準が低い!」
菜稀が突っ込み、芽依が笑う。凜太郎も、背中だけで小さく笑っているのが分かった。
展示机の上は、笑いと涙の渋滞だった。けれど、その渋滞は嫌じゃない。誰かの足が止まり、誰かの手が伸びて、誰かの心が一瞬だけ動く。そんな瞬間が、紙の上から教室の中へ、少しずつ広がっていく。
芽依は、帯の端を指で押さえながら、胸の中で小さく言った。
(今日の一歩、踏めてる)
そして、列の向こうで凜太郎がまた机を少しだけ動かす。芽依も同じ方向へ一歩だけ寄って、机の脚を一緒に押した。言葉はまだ追いつかない。けれど、並んで押す力だけは、同じだった。




