第14話 夜の印刷所で、最後の一冊
電車のドアが閉まった瞬間、四人の息づかいだけが車内に浮いた。夕方の混み方が少し落ち着いた時間で、座席に空きはある。けれど誰も座らない。座ったら足が止まりそうだった。
車窓に街の灯りが流れる。芽依は、鞄の中のUSBメモリを指で確かめながら、送信履歴、という凜太郎の言葉を反芻した。履歴は、残る。残るのに、見ないふりはできる。自分も、ずっとそうだった。
「……印刷所、閉まってないよね」
菜稀が言った。声の明るさが、わざとらしい。
「電話で言ってた。待ってるって」
凜太郎が短く答える。顔は窓の外に向いたまま。けれど、拳が握られているのが見えた。
次の駅で降りた。階段を駆け上がると、冷えた夜気が頬に刺さる。商店街のアーケードはシャッターが下り始め、コロッケ屋の明かりだけが名残みたいに残っていた。
「こっち! 近道!」
菜稀が細い路地に曲がる。誰がそんな道を知っているのかと思ったら、菜稀は振り向きざまに言った。
「文化祭で迷子になった時のルート!」
笑いそうになって、芽依は口を結んだ。笑ってる場合じゃない。けれど、菜稀のその一言で、胸の中の固い塊がほんの少しだけ割れた気がした。
印刷所は、駅前の大通りから一本入ったところにあった。看板の灯りが、雨上がりの舗道にぼんやり映る。シャッターは半分だけ上がっていて、機械の低い音が漏れている。
中に入ると、紙の匂いが鼻をくすぐった。温かい空気。金属とインクの匂い。夏に嗅いだあの匂いが、今夜は緊急の色を帯びている。
「お、来たね」
作業着の男性が顔を出した。前に来た時、見積書を説明してくれた人だ。腕時計を見て、眉を寄せる。
「データ、途中で止まってる。最後のページが来てない。ここから先、印刷に回せないよ」
凜太郎が一歩前に出る。
「すみません。すぐ、送り直します」
声が少し掠れている。
拳悟が、凜太郎の横に出た。いつもなら「まあまあ」と笑って場を流すはずの口が、今日は動かない。代わりに、深く頭を下げた。
「……俺が、確認してなかった。送ったつもりで、止まってた」
最後の「た」が震えた。
芽依は喉の奥に熱いものが上がってきた。責めたい。言いたい。「なんで」って。けれど、拳悟の背中が小さく揺れているのを見たら、言葉の刃が自分の手に刺さる気がした。
「今、直そう」
芽依は自分でも驚くほど、はっきり言った。逃げ道のない声だった。
「確認しながら。途中で止まったら、すぐ分かるように」
菜稀が、拳悟の肩を軽く叩いた。
「ほら。泣くのは後。今は手が動く時間」
菜稀の声も、少しだけ湿っている。
凜太郎は一瞬だけ目を閉じた。それから、印刷所の人に向かって、言った。
「……助けてください。今日中に、文化祭に出せる形にしたい」
その「助けて」が、芽依の胸の奥を強く叩いた。凜太郎が、誰かに頼む言葉を口にした。いつも自分で抱えて、短い「大丈夫」で蓋をしていたのに。
作業着の男性は、ため息をつきながらも、机の上の紙を指で弾いた。
「できる範囲でやろう。全部を今夜刷るのは無理。だけど、展示用と販売分の最低限なら……。欠けてるページを先に刷って、手で綴じれば間に合うかもしれない」
「手で……」
拳悟が呟く。
「手で、だよ」
男性は笑わない。でも、拒まない声だった。
凜太郎がノートパソコンを開く。芽依はUSBメモリを差し出し、拳悟は隣で画面を覗き込む。送信バーが進むのを、三人で無言で見守った。百分率の数字が、今夜だけは心臓の鼓動みたいに重い。
「九十……九十五……」
菜稀が小声で読み上げる。数字を声にしたら、止まりにくい気がしたのかもしれない。
「百」
芽依が言った。送信完了の表示が出た瞬間、拳悟の肩から力が抜けた。
そこからは、紙の山との勝負だった。刷り上がったページを揃え、順番に重ね、ホチキスで留める。二枚ずつ留めようとして、ホチキスが詰まる。菜稀が「今ここで反抗期!」と叫び、凜太郎が無言で芯を替える。芽依は紙を落として散らばらせ、「あっ」と声を上げた。拳悟が素早く拾い集め、ページ番号を確かめて戻す。間違えたら終わるから、笑えないのに、四人の動きはどこか必死で、滑稽だった。
「表紙、逆!」
菜稀が拳悟に言う。
「逆じゃない、表紙の向きが俺に逆なんだよ」
「意味わかんない!」
芽依は、思わず息を漏らした。笑いだった。胸の奥が痛いのに、笑いが出た。凜太郎がそれを見て、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
深夜、最後の一束が机に残った。指先が紙の粉で白い。インクの匂いが手に移っている。作業着の男性が「これで最後」と言って、刷りたてのページを渡してきた。触れた紙は、まだ温かい。
「最後の一冊、作ろう」
凜太郎が言った。声は疲れているのに、背中は折れていない。
四人で、ゆっくり綴じた。紙の角を揃える。穴の位置を合わせる。留め具を押し込む。芽依は、端を押さえる指に力を込めた。今夜、自分が逃げなかった証拠を、この紙に残したかった。
完成した一冊を、机の上に置く。白い表紙に、黒い字。芽依は、それを見て胸が詰まった。印刷所の蛍光灯の下で、ただの紙の束が、誰かに渡るものになった瞬間だった。
「……間に合う」
凜太郎が呟いた。言い切る前に息を吸って、それからもう一度、今度ははっきり言った。
「間に合う。ありがとう」
拳悟が目をこすって、鼻で笑った。
「言うの遅いって……」
言いながら、拳悟の声も少し濡れていた。
菜稀は自販機で買った缶ココアを芽依に押しつけた。
「飲め。手、震えてる」
「震えてないし」
「震えてる。ほら、こぼす」
芽依は缶を受け取り、口をつけた。甘さが喉を通る。温かい。紙の温かさと同じで、今夜の温度が体に入ってくる。
シャッターの外に出ると、夜の空気は冷たかった。商店街の灯りがまばらで、足音だけが響く。芽依は、凜太郎の横を歩きながら、言葉を探した。
(明日じゃなくて、今言える言葉)
けれど今夜は、言葉の代わりに、歩幅を合わせた。凜太郎も、何も言わない。けれど、さっきの「助けて」は、まだ耳の奥に残っている。芽依はそれを、そっと胸の内側にしまった。
駅へ向かう道の途中、菜稀が急に振り返った。
「ねえ。文化祭、絶対勝つよ。部誌、売り切る」
「勝つって……」
芽依が言いかけて、菜稀に睨まれる。
「売り切る、って言ったの。具体的に」
菜稀は自分で言って、自分で笑った。
芽依も笑った。今夜は、笑っていい気がした。笑いながら、目の奥が少しだけ熱い。
四人の鞄の中で、最後の一冊が、まだ温かかった。




