第13話 文化祭前日、止まったままの送信履歴
十月の金曜日、放課後の文芸部室は、窓の外がオレンジに傾くより先に、机の上が紙で白くなっていた。明日の文化祭で並べる部誌。ページ順に揃えた束が、輪ゴムでいくつもまとめられている。
芽依は自分の束の角を指でそろえながら、喉の奥が乾くのを感じた。今日こそ、先延ばしをしない。そう決めて、ここまで来た。だから、いまの静けさは、よけいに怖い。静かな時ほど、何かが起きる。
「はい、確認いくよー」
菜稀が、部室の鍵を指でくるくる回しながら言った。「確認」なのに声が大きい。勢いで、輪ゴムが一つ、ぴんと弾けそうになる。
「輪ゴム、飛ばすな」
凜太郎が短く言って、飛びそうな輪ゴムを指先で押さえた。押さえ方が、相変わらず優しい。必要な分だけ、力を入れて止める。
「凜太郎、細かすぎ」
拳悟が笑って、椅子にもたれた。笑いながら、スマホを持ち上げる。画面は、何も見せないように、くるりと裏返しにする。
芽依は、その裏返しが気になってしまう。自分も、裏返してしまいたいことがある。原稿が白いままの時みたいに、見なかったことにして、布団に潜りたくなる瞬間がある。
けれど今日は、違う。
凜太郎が机の端に置いたノートパソコンを開き、印刷所に送ったデータのチェック表を見た。画面の光が、凜太郎の頬の色を少しだけ青くする。芽依はその横顔を見て、胸がきゅっと縮む。
その時だった。
凜太郎のスマホが、机の上で小さく震えた。音は短いのに、部室の空気が一瞬で変わった。凜太郎はすぐに出た。耳に当てて、視線だけを落とす。
「……はい。……え?」
声が低くなる。芽依の指先が、紙の角で止まる。
凜太郎は「少々お待ちください」と言ってから、通話の相手を切らずに、キーボードを叩いた。クリック、クリック。画面の中を確かめる速度が、いつもより速い。
「データが、最後まで届いてない……?」
凜太郎が小さく言った。通話の向こうの声は聞こえないのに、言葉だけで、芽依には状況が見えた。送ったはずのものが、途中で止まっている。止まったまま、誰も気づいていない。
芽依の頭の中に、真っ白な原稿用紙が浮かぶ。白いままなのに、机の上だけ綺麗にして寝た夜。あの白さは、手を伸ばせば消せたのに、伸ばさなかった白さだ。
凜太郎が通話を終えた。スマホを机に置く手が、ほんの少しだけ強い。カツ、と音がした。
「印刷所が、言ってた。……データ、途中で止まってるって」
凜太郎が言う。息を吐くのを忘れたみたいに、肩が固い。
「え、まじ?」
菜稀が椅子から立ち上がった。椅子の脚が床を擦って、ぎぎ、と鳴る。
拳悟が口を開けた。
「それ、あとで――」
言いかけて、拳悟は止まった。自分の言葉に自分で気づいたみたいに、唇を噛む。芽依は、その止まり方を見て、胸の奥が少しだけ動いた。逃げたいのに、逃げないでいようとしている。
凜太郎は言わない。「誰のせい」とも。「なんで」とも。ただ、画面を見たまま、指先が震えるのを隠すように、手を組んだ。
(このまま凜太郎が全部抱える)
芽依の中で、答えが勝手に出る。凜太郎はそういう人だ。穴が空いたら、自分のバイト代で埋める。足りないなら、自分が走る。
芽依の口から、言葉が先に出た。
「今、行こう」
自分でも驚くくらい、声がはっきりしていた。
菜稀が芽依の方を見て、ぱちんと指を鳴らした。
「それ! 今! 行く!」
勢いで鍵束を掴む。金属がじゃら、と鳴って、拳悟が反射で肩をすくめる。
「パソコン、持ってく」
凜太郎が言った。立ち上がるのが早い。けれど、ノートパソコンを閉じる手は丁寧だ。閉じる前に、ケーブルを一本ずつ抜いて、抜いた穴の向きまで揃える。
芽依は自分の鞄を掴んで、底に入れていたUSBメモリを指で探った。ある。ちゃんとある。こういう時に限って、ない気がして焦るのに、今日はあった。芽依はその小さな硬さに、少しだけ安心して、すぐに自分を叱った。
(安心してる場合じゃない)
「俺も行く」
拳悟が言った。言い切るまでに一拍あったけれど、言い切った。笑って誤魔化さない顔だった。
四人は部室を飛び出した。廊下の空気がひんやりして、汗ばんだ手のひらが一気に冷える。階段を下りる音が重なる。菜稀が先頭で走る。スカートの裾が揺れて、靴音が軽い。
「走るよ! 乗り遅れたら終わり!」
菜稀が叫ぶ。終わり、という言葉が喉に刺さるのに、芽依は「終わりにしない」と心の中で返した。
下駄箱の角で、生活指導の先生と鉢合わせた。先生が眉を上げる。
「こら、廊下は――」
「文化祭の部誌が、紙が、えっと、紙が!」
菜稀が早口で言って、何を言っているのか自分でも分からなくなり、拳悟が横から補足した。
「印刷所です。今、行かないと間に合わないです」
拳悟が敬語を使ったことに、芽依は一瞬だけ目を丸くした。
先生はため息を一つついて、手を振った。
「転ぶなよ。道路、ちゃんと見ろ」
「はい!」
四人の返事が重なった。
校門を出ると、夕方の風が頬を叩いた。駅前までの坂道。芽依は息が切れて、胸が痛い。けれど足は止まらない。止めたくない。
凜太郎の隣で走りながら、芽依は横顔を盗み見た。凜太郎は唇をまっすぐ結んでいる。目だけが前を見て、焦りを見せないふりをしている。ふり、だと芽依は分かる。指の先が、鞄の持ち手を強く握って白くなっている。
「凜太郎」
芽依が呼ぶと、凜太郎は一度だけ視線を寄せた。短い。けれど、ちゃんと見る。
「……大丈夫。今、行ってる」
凜太郎が言った。大丈夫、と言うほど、大丈夫じゃないのに。
芽依は頷いた。頷きながら、頬が少しだけ熱くなる。今、見られている。自分が逃げない顔をしているのを、凜太郎に見られている。
駅の改札が見えた。人の流れ。自転車のベル。商店街のコロッケの匂いが、空腹を思い出させる。そんな普通の匂いの中で、芽依の胸だけが、紙の白さみたいに張り詰めている。
「次の電車、十七時十二分!」
菜稀が、駅の電光掲示板を見て叫んだ。数字が具体的で、芽依の頭が少しだけ冷える。十二分。間に合うか、間に合わないかの境目。
「走れ」
凜太郎が言った。短い命令なのに、芽依の足が軽くなる。背中が押された。
改札を抜けた瞬間、拳悟が財布を落とした。小銭が床に散らばって、ちゃりん、と鳴る。芽依の体が反射で止まりかけた。止まったら、十二分が消える。
拳悟が自分で拾おうとして、しゃがんだ。その背中が小さく見える。
芽依はしゃがんで、手を伸ばした。指先で小銭を二枚掴む。凜太郎も無言で一枚拾って、拳悟の手のひらに落とした。菜稀は「あとで数えろ!」と言いながら、拳悟の鞄を持ち上げる。
「ありがと」
拳悟が言った。笑わなかった。
ホームへの階段を上がる。芽依の足が震える。けれど、震えているのは怖いからじゃない。今日、逃げなかった自分に、体が追いついていない。
電車の到着ベルが鳴った。
芽依は、息を吸って、凜太郎の袖の端を一瞬だけ掴んだ。掴んで、すぐ離す。指先に残った布の感触が、紙の角みたいに細いのに、確かだった。
「行こう」
芽依が言うと、凜太郎は頷いた。頷き方がいつもより深い。
四人は、開いた扉の中へ、滑り込んだ。




