第12話 はにかむ帯コメント、読まれた瞬間
九月の頭。放課後の部室は、窓を開けると風が通った。まだ暑いのに、風だけは夏のまま居座ってくれない。机の上で、プリントの角がふわりと持ち上がって、すぐ落ちる。
「集めるよー! 帯コメント!」
菜稀がホワイトボードに大きく書いた文字を、もう一度指でなぞった。前に書いたものの上から、さらに太く。筆圧が強くて、マーカーがキュッと鳴る。
「帯ってさ、腰のやつだよな」
拳悟がイスにもたれて言う。部室に入ったときから、手にはペットボトルが一本。けれど蓋は閉まったままだ。
「腰じゃない。紙に巻くやつ。人の心に巻きつくやつ」
「それも怖いな」
「怖くない! 押すの! 背中!」
菜稀が拳悟の背中を、言葉どおり軽く押した。拳悟は「押すな押すな」と言いながら、押された分だけ前に滑って、机に肘をついた。
芽依は、そのやり取りを笑いそうになって、口元を押さえた。笑うと、緊張がばれる。ばれたくないのに、今日だけは隠せないものを持ってきてしまった。
机の上に、白い紙が一枚。芽依の筆箱の横で、真っすぐに置かれている。角も揃えてある。揃えたのは、芽依だ。昨夜、何度も揃え直した。
(早く渡したら、楽になる)
分かっているのに、手が動かない。喉が、乾く。麦茶を飲んだのに、まだ乾く。
凜太郎は部室の隅で、いつものノートを開いていた。ページをめくる音が、風より静かで、でも確かにそこにある。見積書の数字を追うみたいな目で、今日は、紙の上の言葉を追っている。
「じゃ、提出。名前書いてる?」
菜稀が言って、机の端に紙を置くスペースを作った。拳悟が「俺、字、汚いからなあ」と笑って、先に一枚出した。笑って出すのが、いつもより早い。逃げない努力が、見える。
「……出す」
芽依は声が小さくなりそうで、唇に力を入れた。紙を持ち上げる。腕が、ちょっとだけ重い。たった一行なのに。
芽依は凜太郎の前に紙を置いた。置いた瞬間、手を引っ込めたくなって、指が空を掴んだ。
凜太郎は紙を見た。目を動かすだけで、顔は動かない。芽依はその横顔の角度が、いつもより近い気がして、息を吸うのを忘れた。
紙には、芽依が書いた一行。
「この一文で、背中が軽くなる」
それだけ。短い。短いから、逃げられない。
芽依は視線を机に落とした。机の傷の一本一本が、急に鮮明になる。木目が波みたいにうねって、芽依の心臓も同じように波打った。
凜太郎が、紙を持ち上げた。音がしないように、指で端を支える。いつかの返却台みたいに、端が曲がらないように。
「……読む?」
菜稀がわざと大げさに言った。拳悟が「読むんじゃね」と軽く返す。芽依の耳が熱くなる。
凜太郎は、うなずきもせず、否定もせずに、紙の文字を声にした。
「この一文で、背中が軽くなる」
部室の空気が、一拍だけ止まった。
芽依は顔が熱くなって、机の角を見つめた。逃げる場所が、机の上しかない。なのに、心は机の下で暴れている。
「うわーっ!」
菜稀が叫んだ。椅子がギギッと鳴る。
「ほら、刺さってる! 刺さってるって顔してる!」
「顔してねえよ」
拳悟が笑って、でも笑い方が少しだけ優しい。いつもみたいに流してるはずなのに、流しきれていない。
芽依は凜太郎の顔を見られなかった。見たら、もっと熱くなる。もっと熱くなったら、きっと言葉が出る。言葉が出たら、止められない。
そのとき、紙が机の上に戻る音がした。カサ、と小さな音。
芽依が顔を上げると、凜太郎は紙を丁寧に二つ折りにしていた。指の腹で、折り目を軽くなぞる。強く押さない。折り目が、必要以上に尖らないように。
凜太郎は折った紙を、自分のノートの後ろのポケットに差し込んだ。中に入れて、ずれないように、もう一度だけ指で整える。
からかわない。笑いもしない。けれど、紙の扱いだけで、芽依には伝わった。
大事にされた。
芽依の胸の奥が、紙の熱みたいにじんわり温かくなる。八月の印刷所で触った熱と似ているのに、場所が違う。指先じゃなくて、胸の奥。
「……それ、いい」
凜太郎が言った。短い。いつも通りの短さ。でも、その短さが、芽依の耳に残って離れない。
「い、いい?」
芽依の声が裏返りそうになって、慌てて咳払いで誤魔化した。菜稀が笑う準備をしている気配がして、芽依は睨むように菜稀の方を見る。菜稀は肩をすくめて、口を手で塞いだ。塞いでも、目が笑っている。
「いい。……背中、軽くなるって、具体的」
凜太郎が言って、ノートを閉じた。閉じるときの音が、いつもより静かだった。芽依は勝手に「ほっ」と息を吐いて、吐いた分だけ、頬がまた熱くなる。
拳悟が机の上の自分のペットボトルを見て、ようやく蓋を開けた。プシュッと音が鳴って、菜稀が「今かよ」と突っ込む。
「だって、さっき開けたら、いいところに音入るだろ」
「いいところって、どこ」
「今のところ」
「今のところは、今、もう終わった!」
菜稀が言って、また笑った。笑いながらも、机の上の紙を一枚ずつ集めて、束にする。笑い担当の手が、今日は妙に忙しい。
芽依は自分の紙が凜太郎のノートの中にあることを思い出して、また顔が熱くなる。熱いのに、逃げたくない。
「次は、芽依の帯も作る。自分の作品に」
菜稀が言う。ホワイトボードの文字を、もう一度見上げる。
芽依は、うなずいた。
空欄を白いままにしない。机だけを綺麗にして寝ない。そう決めた夜が、いま、紙の形でここにある。
凜太郎がペンを回しながら、芽依の方を見た。視線がぶつかって、芽依は反射で目を逸らしそうになった。けれど、今日は逸らさなかった。
「……明日も、やる?」
芽依が言う。自分の声が、ちゃんと聞こえる。
「やる。九月は忙しい」
凜太郎が言う。忙しい、の中身は言わない。でも、芽依には見える。文化祭の机の上に並ぶ紙の束。そこに混ざる、自分の名前。
「じゃあ、私、明日も来る」
芽依が言い切ると、菜稀が「偉い!」と両手を上げた。拳悟が「青春だなあ」と笑った。芽依はその言葉に反応しそうになって、また口元を押さえる。
凜太郎は笑わない。けれど、芽依の目を見たまま、短く言った。
「……助かる」
芽依の胸の奥が、また軽くなる。軽くなった分だけ、足が前に出る気がした。




