第11話 印刷所のにおいと、紙の熱
八月中旬。駅前の商店街は、昼の熱を抱えたまま息をしていた。制服の白いシャツが、歩くたび背中に張りつく。芽依は汗を拭こうとして、手ぶらなのに手が空回りして、結局、髪の毛の先だけ触って誤魔化した。
「こっち。看板、青い」
凜太郎が短く言って、角を曲がる。
小さな印刷所は、喫茶店と駄菓子屋の間に挟まれていた。ガラス戸の向こうに、紙の束と、よく分からない金属の箱みたいな機械が見える。戸を開けた瞬間、空気が変わった。外の甘い熱とは別の、紙の乾いた匂いと、ほんの少しだけインクが混ざった匂い。
「うわ……」
菜稀が声を落として、鼻をひくひくさせる。
「わ、分かる。なんか……教科書の新しいところの匂い」
芽依が言うと、菜稀が「それ!」と指を鳴らした。
拳悟は入口で一度止まった。視線が、奥で動くローラーみたいなものに吸い寄せられている。
「……俺、やっぱ、こういうの無理かも」
言い終える前に、菜稀の肘が拳悟の脇腹に軽く入った。
「無理って言う前に入る! 見学じゃない、用事!」
「痛っ。暴力反対」
「反対は、あとで聞く」
凜太郎は笑わないまま、カウンターに近づいた。店の奥から、作業着の袖をまくった人が出てきて、目の上のタオルをずらした。
「お、凜太郎くん。今日はみんなで?」
「部誌です。見積もり、確認したくて」
凜太郎が鞄から見積書を出す。紙は角が揃っている。渡すときも、端がずれないように指が広がっていた。芽依は、その動きだけで「この紙、守られてる」と思ってしまう。
店の人が見積書を受け取って、指で行を追った。機械の音が、奥で一定のリズムを刻む。ガチャン、ガチャン、と遠いけど、耳に残る。
「ページ数、ここで確定?」
「まだです。原稿は集めてます。だけど、目安を合わせたい」
「はいはい。じゃ、紙はこれでいく?」
店の人が引き出しから、いくつか紙の見本を出してくれた。白さの違いと、指に乗る重さが違う。
「触ってみ。好きなの選びな」
菜稀が遠慮なく一枚つまんで、頬に当てた。
「ほっぺに当てるな。紙が汗かく」
拳悟が言うと、菜稀がにやりと笑う。
「汗かいた紙、読んだら分かるじゃん。努力の味」
「味じゃない。匂いだろ」
「匂いも努力」
芽依は紙を一枚受け取って、指先でこすった。さらさらして、でも、滑りすぎない。紙って、こんなふうに手に返ってくるんだ。いつもは原稿用紙の白さだけ見て、焦って、閉じて終わりだったのに。
見積書の数字が目に入った途端、芽依の胃が小さく縮む。桁が多い。ページ数、部数、製本、表紙……。全部が数字になって、並んでいる。
(これ、全部、凜太郎が見てたの……?)
芽依は顔を上げそうになって、止めた。視線が落ちた先の紙が、少しだけ揺れている。自分の手が震えているのが分かった。
逃げたくなる。帰って、冷たい麦茶を飲んで、スマホを見て、明日の自分に渡してしまいたくなる。
でも、凜太郎の横に立ってしまった以上、今の自分がここにいる。
「……ここ、どういう意味?」
芽依は、見積書の一番上の行を指でなぞった。声が小さくなりそうで、喉に力を入れた。
凜太郎は、芽依の指先を一度見てから、行を追った。
「部数。何冊刷るか。これは二百部の仮。で、こっちはページ数。本文が増えるとここが変わる」
「増えたら……高くなる?」
「増えると、紙も時間も増えるから。だけど、ここは調整できる。紙の厚さとか、綴じ方とか」
凜太郎の説明は短い。でも、短いからこそ、芽依の頭に残った。芽依はポケットからメモ帳を出して、鉛筆で書いた。
部数=冊。ページ=本文。紙=厚さ。綴じ=方法。
「……メモ、してる」
凜太郎が、ぽつりと言った。
「だって、忘れるから」
芽依が言うと、菜稀が後ろで「自覚!」と笑った。
凜太郎は見積書を押さえていた指を、少し緩めた。肩が、ほんの少しだけ下がる。息を吐く音が、紙の上に落ちる。
「分からないところ、全部聞いていい。俺、説明はできる」
「……聞く。逃げない」
芽依はそう言ってしまってから、頬が熱くなるのを感じて、また紙を見る。視線を落とす癖が、勝手に出る。
凜太郎は何も言わない。ただ、見積書の余白に鉛筆で小さく図を描いた。四角の中に、ページが重なって、最後に針が二つ。
「これが中綴じ。ホチキスみたいなやつ。うちはここにする予定」
「ホチキス……」
芽依が口に出すと、急に現実になる。紙の束が、物になる。机の上の白いままの原稿用紙も、いつか束になって、誰かの手に渡る。
店の人が「ここ、熱くなるから気をつけて」と言って、機械の脇に置いた刷りたての紙を一枚渡してくれた。
「触ってみ。紙ってね、熱を持つんだよ」
芽依は両手で受け取った。指先に、じんわりした温かさ。外の暑さとは違う。中から来る熱。
「ほんとだ……」
芽依が呟くと、凜太郎が横で同じ紙を軽く押さえた。二人の指が、同じ場所の近くで止まって、ぶつからないぎりぎりで揺れる。
芽依は息を止めそうになって、代わりに、紙を少しだけ持ち上げた。熱が逃げて、空気に混ざる。
「これ、私の原稿も、こうなる?」
芽依は凜太郎を見た。今度は視線を落とさない。
「なる。だから、間に合わせよう」
「……うん。間に合わせる」
菜稀が後ろで、小さく「よし」と言った。拳悟は紙を見て、さっきの入口の言い訳を飲み込んだみたいに口を閉じた。
凜太郎が店の人に頭を下げる。帰り際、カウンターの端に置かれた紙見本がずれていて、凜太郎の指がつい伸びた。端が揃う。店の人が笑った。
「几帳面だなあ」
「癖です」
凜太郎の返事はいつも通り短い。でも、その横で、芽依は紙の熱を抱えたまま、口元が勝手に上がるのを止められなかった。
外へ出ると、商店街の熱がまた戻ってきた。けれど、芽依の手の中には、別の温かさが残っている。
「次、いつ来る?」
芽依が聞くと、凜太郎は少し考えてから答えた。
「九月の頭。帯コメントも集める」
「……その日、空ける。予定表、白くしない」
芽依が言い切ると、凜太郎が目を瞬いた。
「……助かる」
また言った。今度は、芽依の胸の中で、紙の熱みたいにじんわり広がった。
芽依は麦茶の缶を一本、凜太郎に差し出した。凜太郎は受け取って、缶の冷たさに一度だけ眉を動かす。
「提案?」
「命令」
「……従う」
菜稀が「はいはい、前進!」と二人の背中を押した。拳悟は「俺も前進ってことで」と言いながら、凜太郎の鞄の持ち手を少しだけ支える。
芽依は、紙の熱と、冷たい缶と、四人の足音を一緒に抱えて、商店街を歩いた。




