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はにかむ帯と、友達以上の答案用紙  作者: 乾為天女


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第10話 駅のホームと、責任の重さ

 八月の朝は、制服の襟元だけ先に汗をかく。芽依は駅の改札を抜けた瞬間、冷房の風に「助かった」と口の中で言って、すぐに後悔した。助かったのは二秒で、そのあとホームの熱気が待ち構えていたからだ。


 文芸部の夏休み当番。今日は部室の片づけと、部誌の進み具合の確認。集合は十時。芽依は少し早く着きすぎて、ホームの端で自販機の前に立った。どれも冷たそうなのに、指先がどれにも決められない。


 背後で、制服の靴音が速いリズムで近づいてきた。


 振り向くと、凜太郎がいた。制服のまま、鞄を肩に引っかけ、もう片方の手に白い紙を挟んでいる。紙の角が折れないように、指が必要以上に丁寧だった。見覚えのある茶色い封筒も一緒に挟まっている。文具店のやつじゃない。印刷所の、と芽依はすぐに思った。


 「凜太郎」


 芽依が呼ぶと、凜太郎は足を止めないまま視線だけ寄せた。


 「おはよう」

 「……おはよう。早いね」


 凜太郎は頷き、ホームの時計を一瞬見た。秒針の音が聞こえる気がした。


 「これ、見積もり」

 凜太郎は短く言い、紙を少し持ち上げた。紙の上には数字が並んでいるはずなのに、芽依の目には「責任」という二文字に見えた。


 「部活、十時じゃなかったっけ」

 「先に寄る。バイト」


 凜太郎の言葉が切れたところで、電車の到着を知らせるチャイムが鳴った。反射で、周りの人が一斉に白線の内側に寄る。芽依も身体を引いた。凜太郎はその流れと逆に、階段のほうへ早足で向かった。制服の背中が、いつもより固い。


 芽依は一歩、追いかけた。二歩目で足がもつれて、危うく自販機にぶつかりそうになった。変なところでコメディが出る。芽依は自分に小さく突っ込みながら、凜太郎の背中に声を投げる。


 「待って!」


 凜太郎が振り向いた。眉は動かない。けれど、足は止まった。


 「どうした」

 「その……」


 芽依の喉の奥に言葉が詰まる。「一人で背負うの、やめて」と言いたかった。けれど、「背負う」って何を。具体的に言うべきなのに、頭が白くなる。ホームの熱と、人の視線と、凜太郎の手の中の紙の角が、全部いっぺんに見えた。


 芽依は代わりに、別の言葉を掴んだ。


 「印刷所、私も行く」


 自分でも驚くほど、まっすぐ出た。言ったあとで、心臓が遅れて走り出す。


 凜太郎は一瞬だけ目を見開いた。ほんの一瞬。すぐにいつもの顔に戻るけれど、息を吐く音が短く変わった。


 「……来るの?」

 「うん。だって、部誌のことだし。私も部員だし」


 芽依は言いながら、語尾がだんだん小さくなった。「部員だし」のあとに、もう一個言いたいことがあるのに、喉が許してくれない。凜太郎は紙を持つ手を少し下げて、頷いた。


 「助かる」


 その二文字が、芽依の胸の中で小さく弾んだ。助かる、って言った。凜太郎が。


 電車がホームに滑り込んできて、風が巻き起こった。芽依の前髪が持ち上がる。凜太郎はそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 「……髪、すごい」

 「言わないで。自分でも分かってる」


 芽依が両手で前髪を押さえると、横から「それ、写真撮っていい?」という声が飛んできた。制服姿の女子がスマホを構えている。芽依は反射で首を振った。


 「ダメです! 公開しないで!」


 女子は笑って「冗談」と言い、電車に乗り込んでいった。芽依は肩をすくめる。凜太郎は階段のほうに視線を戻した。


 「バイト、間に合う?」

 「ギリギリ」


 凜太郎はそう言って、また歩き出した。芽依も並んで歩く。歩幅が違う。芽依は一歩分だけ急いだ。


 「見積もり、私……数字、弱いけど」

 「弱くてもいい。聞けばいい」


 凜太郎の言葉は、責める音がない。芽依は「うん」と返事をして、鞄の中のメモ帳を探った。紙とペンが指に触れる。いつもなら「あとで」としまい込みそうなものを、今日は先に手に取れた。


 階段の前で、凜太郎が少しだけ立ち止まった。手の中の紙を、芽依のほうへ差し出す。


 「持つ?」

 「え、いいの?」

 「折れたら困るから」


 言い方が不器用で、優しい。芽依は両手で紙を受け取った。角が折れないように、指を広げる。紙が、思ったより温かい。凜太郎がずっと握っていたからだ。


 芽依は紙を胸の前で抱えて、階段を下りる。


 「凜太郎」


 呼びかけると、凜太郎が「ん」とだけ返事をした。


 「……次から、誰かに言って。忙しいって」

 「言ってる」

 「言ってない」


 芽依が即答すると、凜太郎は少し困ったように目を逸らした。いつもの「大丈夫」が口の形になりかけて、飲み込まれる。


 「……じゃあ、言う」


 小さな約束みたいな音だった。芽依はその「じゃあ」に、胸の奥がほどけるのを感じた。


 改札の前で、凜太郎は一度だけ足を止めた。


 「部室、遅れる。菜稀と拳悟に、俺からも連絡する」

 「うん。私も送る」


 芽依はスマホを取り出して、菜稀の名前をタップした。文章は短く。「凜太郎、バイト。印刷所、私も行く。部室あとで」。送信すると、すぐ既読が付いた。菜稀の返信は早い。


 『了解! 駅前集合にしよ! 拳悟も連れてく!』


 芽依は画面を凜太郎に見せた。凜太郎は息を吐いて、頷いた。


 「……助かる」


 また言った。芽依は、さっきより自然に笑えた。ホームで言えなかった言葉の代わりに、紙を両手で持つ。その動作が、今の芽依にできる「一緒にやる」の形だった。


 凜太郎は改札を抜けながら、振り返らずに言った。


 「印刷所、暑いから。飲み物、買っておけ」

 「命令?」

 「提案」


 芽依は「はいはい」と返して、自販機の前に戻った。今度は迷わない。冷たい麦茶を二本。一本は自分。もう一本は、制服のまま走る背中のため。


 缶の冷たさが、指先から心臓まで届いた気がした。



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