第1話 図書室の背表紙が笑う
四月の放課後。神奈川県の私立高校の図書室は、窓の外の校庭より一足先に静かだった。芽依は、借りたばかりの文庫を胸に抱え、返却台の前で立ち止まる。入学した一年の間、ここには来ても「見るだけ」で、誰かに話しかける用事なんて作らなかった。
今日も、来た理由は似たようなものだ。文芸部の見学。けれど、廊下で菜稀に「今行くよ!」と腕を掴まれてしまい、逃げ道が消えた。
「大丈夫。見学って、見て帰ってもいいやつだし」
芽依がそう言うと、菜稀は返事の代わりに背中を二回、軽く叩いた。音が小さくて、叩いた本人だけが満足そうに笑う。
返却台の向こうに、ひとりの男子がいた。制服の袖をまくって、紙の束を両腕に抱えている。図書室のカウンターに置かれた原稿束――表紙が何枚か逆さで、背表紙の題名が上下ひっくり返っていた。
男子は眉一つ動かさず、ひっくり返った表紙だけをそっと直す。まるで背表紙が笑っているのを、真顔で黙らせているみたいだった。
(何、あの手つき……)
芽依は思わず見入ってしまって、気づいたら、菜稀が肩を寄せてきていた。
「あれね、凜太郎。部の会計と締切の番人。怖いわけじゃないけど、紙が曲がってると寝られないタイプ」
「……寝られないって、そんな人いるの?」
「いる。あ、ほら。本人がこっち見た」
視線がぶつかった。凜太郎――その名前の男子は、芽依の抱える文庫に一瞬目を落とし、返却台の横に少しだけ場所を空けた。言葉はない。けれど「そこ、通れるよ」とでも言われた気がして、芽依の足が勝手に一歩前に出る。
その瞬間、芽依の胸が、いつもの「明日」へ逃げようとした。明日なら、もう少し声が出る。明日なら、頬が赤くならない。明日なら――。
菜稀が、耳元で小さく囁いた。
「今日ね」
逃げ道のない二文字だった。
芽依は返却台の前に立つ。文庫を台に置く音が、やけに大きく響いた気がして、指先がじわりと熱い。
「……あ、あの。見学、です」
自分の声が裏返った。芽依は目を見開き、すぐに口を押さえた。恥ずかしくて、文庫の背表紙だけを見つめる。『短編の作り方』。今日に限ってタイトルが攻めてくる。
凜太郎は、笑わなかった。からかいもしない。代わりに、返却台の脇に置いてあった小さなメモ帳を差し出した。そこには、丁寧な字で書かれている。
「文芸部 見学 名前」
芽依は、メモを受け取り、ペンを探すふりをした。実際、手が震えてうまく字が書けそうになかったからだ。菜稀が横からペンを差し出し、拳悟がその後ろで「まあ、気楽にね」と軽い声で笑った。
拳悟は部室の鍵をくるりと指で回し、校舎の奥へ先に歩き出す。鍵が小さく鳴るたび、芽依の心臓も同じリズムで鳴った。
「芽依、だよね? 名字じゃなくて、下の名前でいい?」
菜稀が言う。芽依は頷き、メモに『芽依』と書いた。字が曲がって、最後の「依」のはねが変になった。けれど、凜太郎はそれも直さない。メモを受け取って、原稿束の端を揃えるように一度指でなぞっただけだった。
部室へ向かう廊下で、芽依は図書室の窓を振り返る。夕日が本棚の背を照らして、題名がきらきら光っていた。背表紙の列は、笑っているようにも、見守っているようにも見えた。
「ねえ芽依。入るなら今だってば」
菜稀がまた背中を叩く。芽依は、小さく息を吸った。口の中に「明日」が浮かんだが、飲み込んだ。
「……見学だけ、ね」
「うん、見学だけ。で、気づいたら入部届が出てるやつ」
「それ、勝手に出ないから」
芽依が抗議すると、拳悟が前を向いたまま肩をすくめた。
「出るよ。菜稀が書く」
「書かないって!」
菜稀は笑いながら否定しない。芽依の抗議は、そのまま笑いに飲まれていく。胸の中の緊張も、ほんの少しだけほどけた。
部室の前で、拳悟が鍵を差し込み、回す。扉が開いた瞬間、紙とインクの匂いがふわりと流れてきた。机の上には原稿用紙が積まれ、ホチキスが転がり、ホワイトボードには前の年の落書きが残っている。
凜太郎が、芽依の後ろに立った。
「見学、今日だけ?」
短い問いかけ。責める音はない。ただ、確認のための言葉だった。
芽依は、頬の熱を誤魔化すように、部室の机の端を指でなぞった。木目の溝に、紙の粉が少し溜まっている。自分でも気づかないうちに、それを払っていた。
「……もう一回、来てもいいですか」
声は、さっきより少しだけ真っすぐ出た。菜稀が「ほらね!」と勝ち誇った顔をする。拳悟は「気楽が一番」と言いながら、机の椅子を引いた。
凜太郎は頷き、机の上の原稿束を芽依の見える位置に置いた。表紙は全部、正しい向きになっていた。
「じゃあ、次は――ここに名前」
凜太郎は入部届の欄を指で示す。芽依は、まだ書かない。けれど、その紙の白さが、さっきの白紙より怖くなかった。
背表紙が笑う図書室の静けさは、扉の向こうに置いてきた。芽依は、今日という一日を、明日に預けずに持って帰ることにした。




