冷めきった夫婦関係に国中がざわついています
三年前の朝、私は静かに荷造りをした。
結婚から十年、王都の屋敷で“夫の帰らない生活”を続けてきたが、ある日ふと悟ったのだ。
——この人は、私がいなくても困らないのだと。
「マーガレット様、本当にお一人で?」
荷物を抱えた侍女が心配そうに聞いてくる。
「ええ。置き手紙を残したわ。彼が読むかどうかは別として」
机の上には短い文。
『あなたの帰りを十年待ちました。これからは自分の庭を耕して暮らします。お元気で』
私は侯爵令嬢としてルシアン殿下のもとに嫁いだが、彼は王弟として多忙だった。
結婚式の翌週には戦地へ赴き、その後は政治と外交に明け暮れた。
再会したのは一年後の晩餐会。
そのときの彼の第一声が「元気だったか?」ではなく「君、まだここにいたのか」だった時点で、少し心が冷えた。
——まあ、冷めたものを温め直すほどの執念もない。
私は馬車に乗り込み、王都を後にした。
***
三年後。
「マーガレット様、畑のトマトが見事に育ちましたよ」
「まあ、本当に。殿下にも見せて差し上げたいわね」
口に出してから、苦笑する。
もう“殿下”ではない。少なくとも私にとっては。
村に移ってからの生活は静かで快適だ。
自分で料理し、村人と笑い合う。夜は蝋燭を灯して読書をし、朝は自分の手でパンを焼く。
王都の屋敷では使用人が山ほどいたのに、いまのほうが息がしやすい。
私はもう、妻という肩書きに縛られていない——そう思っていた。
その日の昼下がり。
村の入り口に見慣れない馬車が止まり、人々がざわついた。
「誰か貴族様が……!」
と、声を上げた少年がこちらを指さす。
「マーガレット様! 王都からお客人です!」
私はエプロンを直しながら外に出た。
金の刺繍を施したマント。鋭い灰色の瞳。
——ああ、最も会いたくなかった顔。
「……ルシアン殿下」
「探したぞ、マーガレット」
彼は一瞬、言葉を飲み込んだように口をつぐみ、それから微笑を作った。
「いや、今は“侯爵夫人”と呼ぶべきか?」
「どちらでも。好きに呼んでください」
まさか三年越しに、本人がここまで来るとは思わなかった。
彼は村人たちの好奇の目を気にしたのか、「話がある」とだけ言い、馬車の中に私を促した。
***
「……この三年、王都では君の話題で持ちきりだった」
馬車が走り出して間もなく、彼が切り出した。
「離縁の書状が正式に受理されたからでは?」
「それもある。だが、それ以上に——君が王妃に呼び出された件だ」
「王妃陛下に?」
「そうだ。君が離縁を願い出た理由を尋ねられた。君の答えがあまりに……印象的でな」
私は少し首を傾げた。
あのとき、王妃陛下は穏やかに尋ねてくださった。
“なぜ離婚を?”と。
そのとき私が言ったのは、ただひとつ。
「夫の不在に、ようやく慣れてしまったのです」
——王妃は長く沈黙したあと、微笑んでおっしゃった。
「それは、悲しいわね」と。
「……それを、まだ気にしているんですか」
「気にするなと言うほうが無理だ」
彼は額に手を当て、短く息を吐いた。
「君が去って初めてわかった。私は、君に甘えすぎていた。
君が静かに笑っていれば、何もかも上手くいくと信じていた」
「それはよかったですね。笑っていた甲斐がありました」
皮肉を込めたつもりだったが、彼は真剣な目でこちらを見た。
「戻ってきてほしい」
……この人は本当に、肝心なところで唐突だ。
「殿下、三年の間にいくつも決裁を出した方が、そんな勢い任せで話すのは感心しませんよ」
「書類ではなく、心の問題だからな」
「上手いこと言いましたね」
軽く笑ってみせる。
が、胸の奥がざらりと痛んだ。
私が離れた理由は、冷めた愛情ではなく、“見えない孤独”だった。
忙しさにかまけて心が擦り切れるより、誰もいない場所で呼吸をしたかったのだ。
「……殿下、私はもうあなたの妻ではありません」
「それでも、君がいない食卓は寂しかった」
「執務机の上には、山のような書類があったでしょう」
「書類は話をしてくれない」
沈黙。
車輪の音だけが響く。
私は膝の上で手を組み、息を吐いた。
「……この三年、私は幸せでした」
「わかっている」
「だから、戻っても、もう昔のようにはなれません」
彼は少し考えてから、低く言った。
「昔のように戻るつもりはない。新しく始めたい」
「始めたい?」
「君が畑を耕していたなら、私は隣で種を蒔く。
君がパンを焼くなら、私は火を起こす。
そうやって、君の暮らしの中にいたい」
まるで求婚のような言葉に、息が詰まる。
「殿下、それは——」
「“侯爵夫人”ではなく、“マーガレット”として隣にいてほしい」
馬車が止まった。
窓の外には、私の小さな家が見えた。
その前で、村人たちがパンを焼く煙を眺めている。
ルシアンは扉を開け、先に降りた。
手を差し伸べられる。
あの日、結婚式で握られた手よりもずっと、温かかった。
「……まずは庭の手入れからですね」
「畑でもいい」
「なら、雑草取りをお願いします」
「光栄だ」
ふと笑ってしまった。
この人は昔から、そうやって私を困らせる。
「——おかえりなさいませ、殿下」
「ただいま、マーガレット」
庭に風が吹き、二人の間をやわらかく通り抜けていった。
***
夜。
薪のはぜる音を聞きながら、彼が静かに言った。
「君がいなくなったあと、王妃が私にこう言ったんだ。
“真の夫婦とは、互いを失って初めて形になるものです”と」
私は膝に手を置き、少しだけ笑った。
「王妃陛下は、なかなか詩人ですね」
「だろう?」
「でも、今度は失くさないでくださいね」
「約束しよう」
ルシアンは真面目に頷き、火の光を見つめた。
その瞳は、三年前よりもずっと柔らかい。
私は心の奥で、小さく呟く。
——まあ、しばらくは様子を見ましょう。
***
翌朝、村の子どもたちが叫んだ。
「マーガレット様! 王都の新聞に載ってます!」
『王弟殿下、離縁を撤回! 妻のもとに居住を宣言!』
——なんて早さ。
「殿下、これは?」
「報道が早い国でね」
「……ほんとに、昔から話が大きい方」
「だからこそ、君が必要なんだ」
私は額に手を当て、苦笑した。
どうやら、静かな生活はもう少し先になりそうだ。
——まあ、悪くない。
パンの香りが部屋に満ちていく。
火のそばで、彼が焼き加減を見ている。
少し焦げそうで、少し幸せだった。




