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冷めきった夫婦関係に国中がざわついています

作者: くまくま
掲載日:2025/10/31

三年前の朝、私は静かに荷造りをした。

結婚から十年、王都の屋敷で“夫の帰らない生活”を続けてきたが、ある日ふと悟ったのだ。


——この人は、私がいなくても困らないのだと。


「マーガレット様、本当にお一人で?」

荷物を抱えた侍女が心配そうに聞いてくる。


「ええ。置き手紙を残したわ。彼が読むかどうかは別として」


机の上には短い文。


『あなたの帰りを十年待ちました。これからは自分の庭を耕して暮らします。お元気で』


私は侯爵令嬢としてルシアン殿下のもとに嫁いだが、彼は王弟として多忙だった。

結婚式の翌週には戦地へ赴き、その後は政治と外交に明け暮れた。


再会したのは一年後の晩餐会。

そのときの彼の第一声が「元気だったか?」ではなく「君、まだここにいたのか」だった時点で、少し心が冷えた。


——まあ、冷めたものを温め直すほどの執念もない。


私は馬車に乗り込み、王都を後にした。


***


三年後。


「マーガレット様、畑のトマトが見事に育ちましたよ」


「まあ、本当に。殿下にも見せて差し上げたいわね」


口に出してから、苦笑する。

もう“殿下”ではない。少なくとも私にとっては。


村に移ってからの生活は静かで快適だ。

自分で料理し、村人と笑い合う。夜は蝋燭を灯して読書をし、朝は自分の手でパンを焼く。


王都の屋敷では使用人が山ほどいたのに、いまのほうが息がしやすい。


私はもう、妻という肩書きに縛られていない——そう思っていた。


その日の昼下がり。

村の入り口に見慣れない馬車が止まり、人々がざわついた。


「誰か貴族様が……!」


と、声を上げた少年がこちらを指さす。


「マーガレット様! 王都からお客人です!」


私はエプロンを直しながら外に出た。

金の刺繍を施したマント。鋭い灰色の瞳。


——ああ、最も会いたくなかった顔。


「……ルシアン殿下」


「探したぞ、マーガレット」


彼は一瞬、言葉を飲み込んだように口をつぐみ、それから微笑を作った。

「いや、今は“侯爵夫人”と呼ぶべきか?」


「どちらでも。好きに呼んでください」


まさか三年越しに、本人がここまで来るとは思わなかった。


彼は村人たちの好奇の目を気にしたのか、「話がある」とだけ言い、馬車の中に私を促した。


***


「……この三年、王都では君の話題で持ちきりだった」


馬車が走り出して間もなく、彼が切り出した。


「離縁の書状が正式に受理されたからでは?」


「それもある。だが、それ以上に——君が王妃に呼び出された件だ」


「王妃陛下に?」


「そうだ。君が離縁を願い出た理由を尋ねられた。君の答えがあまりに……印象的でな」


私は少し首を傾げた。

あのとき、王妃陛下は穏やかに尋ねてくださった。

“なぜ離婚を?”と。


そのとき私が言ったのは、ただひとつ。


「夫の不在に、ようやく慣れてしまったのです」


——王妃は長く沈黙したあと、微笑んでおっしゃった。

「それは、悲しいわね」と。


「……それを、まだ気にしているんですか」


「気にするなと言うほうが無理だ」


彼は額に手を当て、短く息を吐いた。


「君が去って初めてわかった。私は、君に甘えすぎていた。

君が静かに笑っていれば、何もかも上手くいくと信じていた」


「それはよかったですね。笑っていた甲斐がありました」


皮肉を込めたつもりだったが、彼は真剣な目でこちらを見た。


「戻ってきてほしい」


……この人は本当に、肝心なところで唐突だ。


「殿下、三年の間にいくつも決裁を出した方が、そんな勢い任せで話すのは感心しませんよ」


「書類ではなく、心の問題だからな」


「上手いこと言いましたね」


軽く笑ってみせる。

が、胸の奥がざらりと痛んだ。


私が離れた理由は、冷めた愛情ではなく、“見えない孤独”だった。

忙しさにかまけて心が擦り切れるより、誰もいない場所で呼吸をしたかったのだ。


「……殿下、私はもうあなたの妻ではありません」


「それでも、君がいない食卓は寂しかった」


「執務机の上には、山のような書類があったでしょう」


「書類は話をしてくれない」


沈黙。

車輪の音だけが響く。


私は膝の上で手を組み、息を吐いた。


「……この三年、私は幸せでした」


「わかっている」


「だから、戻っても、もう昔のようにはなれません」


彼は少し考えてから、低く言った。


「昔のように戻るつもりはない。新しく始めたい」


「始めたい?」


「君が畑を耕していたなら、私は隣で種を蒔く。

君がパンを焼くなら、私は火を起こす。

そうやって、君の暮らしの中にいたい」


まるで求婚のような言葉に、息が詰まる。


「殿下、それは——」


「“侯爵夫人”ではなく、“マーガレット”として隣にいてほしい」


馬車が止まった。

窓の外には、私の小さな家が見えた。

その前で、村人たちがパンを焼く煙を眺めている。


ルシアンは扉を開け、先に降りた。

手を差し伸べられる。


あの日、結婚式で握られた手よりもずっと、温かかった。


「……まずは庭の手入れからですね」


「畑でもいい」


「なら、雑草取りをお願いします」


「光栄だ」


ふと笑ってしまった。

この人は昔から、そうやって私を困らせる。


「——おかえりなさいませ、殿下」


「ただいま、マーガレット」


庭に風が吹き、二人の間をやわらかく通り抜けていった。


***


夜。

薪のはぜる音を聞きながら、彼が静かに言った。


「君がいなくなったあと、王妃が私にこう言ったんだ。

“真の夫婦とは、互いを失って初めて形になるものです”と」


私は膝に手を置き、少しだけ笑った。


「王妃陛下は、なかなか詩人ですね」


「だろう?」


「でも、今度は失くさないでくださいね」


「約束しよう」


ルシアンは真面目に頷き、火の光を見つめた。

その瞳は、三年前よりもずっと柔らかい。


私は心の奥で、小さく呟く。


——まあ、しばらくは様子を見ましょう。


***


翌朝、村の子どもたちが叫んだ。


「マーガレット様! 王都の新聞に載ってます!」


『王弟殿下、離縁を撤回! 妻のもとに居住を宣言!』


——なんて早さ。


「殿下、これは?」


「報道が早い国でね」


「……ほんとに、昔から話が大きい方」


「だからこそ、君が必要なんだ」


私は額に手を当て、苦笑した。


どうやら、静かな生活はもう少し先になりそうだ。


——まあ、悪くない。


パンの香りが部屋に満ちていく。

火のそばで、彼が焼き加減を見ている。


少し焦げそうで、少し幸せだった。

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