第八話 氷の迷宮と偽りの記憶
試練の扉が開かれた瞬間、空気が変わった。
冷気――というにはあまりにも純粋で、凍結という言葉すら追いつかない絶対零度の静寂。
リーノのまつげに触れた瞬間、空気そのものが霜になった。
第二の試練は、氷魔公エルシエリカの迷宮。
入り口の石碑には、こう刻まれていた。
「記憶とは、魂を欺く霧である」
(記憶を試す……タイプか)
リーノは剣を構えたまま進む。
だが、剣も魔力も、この空間では鈍く感じられた。
白く霞んだ視界。氷壁が音もなく姿を変え、進む者を惑わす。
足音さえも吸い込まれ、まるで世界に一人きりのようだった。
――そして、次の瞬間。
「リーノ様」
聴き慣れた声がした。
懐かしく、そして痛いほどに過去に縛られた声。
振り返ると、そこにはクラウスがいた。
「……っ!」
瞬間、リーノは魔剣を振るった。
黒き刃が幻影を斬り裂く――はずだった。
しかしクラウスは微笑みながら、まるで本物のようにリーノの手を取った。
「なぜこんな場所に? 城では、聖務式が始まる時間ではありませんか」
「やめて……っ、これは幻覚。記憶の偽物……!」
「偽物? ……違います。これは、あなたが愛された証。あなたが、大切にされていた記憶――」
「嘘よッ!! 私は、裏切られた! 聖女の地位を奪われ、追放されて――!」
叫んだ瞬間、空間がまた一つ変わった。
今度は、王宮の礼拝堂。
純白の神像。差し込む光。
リーノがまだ“聖女”だった頃、最も愛していた空間――
「おかえりなさい、リーノ」
そこにいたのは――クラリッサだった。
真っ白な聖衣を纏い、あの日のように微笑む。
「あなたは私の親友だった。……なのに、どうして私を憎むの?」
「……あなたは私のすべてを奪った。笑いながら、私の居場所を踏みにじった……!」
リーノの手が震える。
彼女の記憶にあるクラリッサは、最初から“悪”ではなかった。
慈しみも優しさも、本当にあったのだ。
それを裏切られたからこそ、痛みは深く、未だ癒えていない。
「ねえ、リーノ。復讐なんて、あなたらしくない。あなたは“誰かを癒す”聖女だったじゃない」
「私はもう、聖女じゃない……!!」
その瞬間、幻影が裂けた。
空間が歪み、氷壁の奥から現れたのは、蒼氷の衣を纏う女――氷魔公エルシエリカ。
「よくぞ破ったわね。記憶の檻を。だが、まだ足りない」
彼女の声は凍てつく風のようだった。
「本当にあなたは、聖女ではなかったと断言できるの? 自ら闇に落ちたと? 本当に……?」
「……私は、聖女だった。かつては、人を信じ、人を救うと誓った」
リーノは胸に手を当てた。
その奥に、今もなお輝く“光”が確かにあった。
「けれど、奪われて、信じていたものに裏切られて……私は、生きるために闇を選んだ。
――それでも、私が選んだこの道を、誰にも否定させない!!」
「ならば、力で証明してみなさい」
氷の柱が天を貫き、剣と槍に変わって降り注ぐ。
リーノはすぐさま魔力を解放し、空中へ飛翔した。
「”月冥”!!」
月のような斬撃が炸裂し、氷柱を切り裂く。
だが次の瞬間、氷の霧がリーノの視界を塞いだ。
「幻覚はまだ終わってない……!」
「終わらせてみせる!!」
リーノは霧の中に剣を振るい、斬るたびに過去の幻影が浮かび上がる。
王子との踊り、民の感謝、聖女としての誇り――
それらをすべて、自らの刃で断ち切った。
「過去は……大切。でも、それに縛られて進めないなら――私は、斬り捨てる!」
最後の一閃が霧を払う。
そして、リーノの剣先は――エルシエリカの喉元に届いていた。
「……見事ね。あなたは、記憶に打ち勝った。
ならば、次の試練に進みなさい、魔王の器よ」
氷魔公が道を開いた。
背後には、氷壁が音もなく崩れ去っていく。
迷宮を抜けたリーノの眼前には、次の門が見えていた。
そこに立つのは、漆黒の甲冑を纏う男――第三の試練、《獄騎士バルザド》。
だが、リーノはもう迷わなかった。
(私は、聖女ではない。だけど……)
(聖女だった私が、今の私を否定していない)
それだけで、前に進む理由になる。
ここまで読んでいただきありがとうございました
次の話もお楽しみください
一ノ瀬和葉