第六話 闇の国、選ばれし姫
クラリッサとの激戦から数日後。
リーノは魔族の王都の中央宮殿に招かれていた。
空は赤黒く染まり、黒曜石の塔が林立する街並みは、まるで地の底に開いた巨大な口のようだった。
魔力の霧が常に漂い、空気そのものが重たく感じられる――だが、不思議と不快ではなかった。
ここには、理不尽な祝福も、空虚な信仰もない。誰もが、生きるために力を使い、力を示し、誇りを守っている。
(あの頃の私だったら、ここに立つことすら恐れていたと思う)
リーノは足を止め、見上げる。
巨大な漆黒の門。その向こうには、魔王とその重臣たちが待っている。
ふと、前世の記憶が蘇る。
かつての自分は、“聖女”と呼ばれていた。
選ばれたのは奇跡の力ではなく、“純潔”という幻想だった。
聖女として祭り上げられた少女リーノは、汚れなき器として神託を伝え、微笑み、祈ることだけを求められた。
戦うことも、泣くことも、怒ることさえ許されなかった。
(私は、ただの象徴だった。誰かの希望を背負うための、透明な器)
しかし――クラリッサが現れた。
才知に優れ、魔力も高く、美しさも兼ね備えた彼女は、瞬く間に民の心を掴んでいった。
神官たちの態度が変わり、貴族たちは距離を取り始め、街の人々の祈りは次第に別の名前を呼ぶようになった。
「リーノさまは“ただの飾り”ですものね」
あの日、クラリッサは微笑みながらそう言った。
その瞳は、慈悲に満ちていた――演技で塗り固められた、偽りの慈悲。
そして、聖女の階段から突き落とされた。
白い大理石の階段がぐにゃりと歪み、視界が血に染まり、最後に見たのは、背後で佇むクラリッサの静かな微笑だった。
(あれが、私の終わり。そして、始まり)
奈落のような闇の中で、リーノは死者の国に落ちた。
その深淵で、彼女は“闇王”と出会った。
――まだ、生きる理由がある。
その声と共に、リーノは“魔族の血”を与えられた。
聖なる光に捨てられた身体は、魔の力によって甦り、闇の姫として再び世界に立つことを許された。
「聖女だった私が、今は魔族の姫……。皮肉というには、できすぎてるわね」
リーノは呟いた。
背後に控える騎士、クロウ・ダグザが静かに問う。
「……覚悟は、できているのか?」
リーノはゆっくりと頷いた。
「もちろん。ここからが本番でしょう?」
門が重々しく開いた。
玉座の間――そこには五つの玉座があった。
中央の一段高い玉座には、漆黒の威厳をまとう王。
彼こそが、現魔王ザヴァリウス。
左右に並ぶ四つの玉座には、魔王に仕える四大魔将が座していた。
炎獣将ガラバル。氷魔公エルシエリカ。死霊侯グラン=マルス。幻影姫アリュナ・アステリオ。
いずれも、一騎当千の力を持つ魔族の長たちであり、戦乱の時代に王と共に世界を震わせた伝説の存在たちだ。
彼らの視線が、一斉にリーノに注がれる。
その気圧だけで空気が揺れた。
「これが、魔王に選ばれし“転生姫”……か」
ザヴァリウスが重々しい声で言う。
その目は深淵のように黒く、見つめられた者の心をそのまま呑み込むほどの力があった。
「名を名乗れ」
リーノはまっすぐに前を見て、一歩前へ出た。
「リーノ。かつて“聖女”と呼ばれた者。今は――魔族として、この地に立っています」
堂々とした声音だった。
ザヴァリウスはしばし無言のまま、彼女を見下ろす。
「……よかろう。我ら魔族は、かつて神に見捨てられた存在。
だが、だからこそ人を超える資格を持つ。
貴様が魔王を継ぐに値するか――我らが見定めよう」
「見定め?」
「“魔王継承の儀”。七つの試練を乗り越え、真に魔族を率いる意思と力を証明せよ。
拒めば、その場で処される」
リーノは口元を引き締めた。
「受けるわ」
即答だった。
魔将たちがざわめく。
その中でもひときわ大きく笑い声を上げたのは、筋骨隆々たる炎獣将ガラバルだった。
「いい女だ! その瞳、気に入ったぜ! 試練一発目は、俺がやらせてもらう!」
「構いません。どんな試練でも、私は退かない」
リーノの眼差しは揺るがなかった。
それは、聖女だった頃には決して持たなかった光――自分の意志で立つ者のまなざしだった。
(もう私は、誰かの言葉を待つ器じゃない。命令されるだけの人形でもない。
私自身の意志で選び、戦い、血を流し、進んでいく)
魔族の姫として、世界の理に抗ってみせる。
戦いの火蓋は、再び切って落とされた。
ここまで読んでいただきありがとうございました
次の話もお楽しみください
一ノ瀬和葉