第四話 人間の国へ
魔王ノクスの命により、リーノは人間の国――かつて自分が聖女だった王都イルメアへ潜入した。
偽名はリナ・クレイド。
黒髪と淡金の瞳、清楚で控えめな侍女として、中級貴族アルマス伯爵家へ仕えている。
目的はただ一つ。
クラリッサ・ロゼリア――自らを貶め、座を奪った偽聖女への復讐。
王都の神殿は、かつてリーノが祈りを捧げた場所だった。
だが今やそこには、別の女の名が溢れていた。
「クラリッサ様の神力は、もはや人ではありませんわ。真なる神の血を継いでおられるのでは……」
貴族の奥方のそんな噂話を聞きながら、リーノは静かに歯を食いしばる。
(神の血? 違う、それは偽りの契約よ……)
神殿には強力な結界が張られていた。
一般の者が聖所に近づけば、即座に浄化魔法が発動する。
その上、神殿を守る特別騎士団――《祝福騎士団》が常時巡回していた。
彼らは聖女クラリッサにのみ忠誠を誓い、その力の一部を“祝福”という形で共有しているという。
(神殿内部に入るには、まず“鍵”が要る)
リーノは情報を集めながら機を窺った。
やがて、一人の侍女見習いが彼女に近づいた。
「……あなた、元・聖女リーノ様、ですよね?」
その声はかすれて震えていた。
名前を出された瞬間、リーノの動きが止まった。
「……誰?」
「わたし、ミレナと申します。母がかつてあなたに癒やされた者で……」
少女は神殿の清掃係をしており、夜の見回りと騎士の動線、隠し通路の存在を知っていた。
「……力になりたいんです。今の“聖女様”は、違う。わたし、嘘に耐えられません」
その瞳に偽りはなかった。
リーノは数秒の沈黙の後、少女の手をそっと握った。
「ありがとう。あなたの勇気、無駄にはしない」
数日後の深夜。
ミレナの案内により、リーノは神殿裏の井戸を経由して“清めの地下道”へ侵入する。
そこは古の祭祀用の空間で、現在は封鎖されているが、結界は薄かった。
しかし、地下道の途中で魔力の反応があった。
待ち伏せしていたのは、祝福騎士の一人、ルキウスだった。
「闇の気配を感じていた。やはり……魔族か」
「残念だけど、これは通してもらうわ」
「神聖なる場所に足を踏み入れた異端者……斬るしかあるまい!」
ルキウスが剣を抜く。
その刃先には淡く白い光――神力が宿っていた。
対してリーノは指先を鳴らし、黒炎を纏う。
「“黒焔咆哮”」
放たれた炎の波がルキウスの前に炸裂する。
激しい衝突が地下に響いた。
数合の打ち合いの末、ルキウスは片膝をつく。
が、彼はなおも剣を構える。
「聖女様に……指一本触れさせない!」
「……あなたたちが信じている“聖女”は、偽りよ。力を与えている“神”は、正体不明の存在……」
「黙れッ!」
激昂するルキウス。
だがそのとき、ミレナが駆け寄り、叫んだ。
「ルキウス様! この人は、元・聖女なんです! 嘘を暴きに来ただけ……」
その声に、彼の剣が一瞬止まる。
その隙を突き、リーノは魔力を爆発させ、視界を封じてすれ違いざまに突破する。
「ミレナ、早く!」
「はい!」
二人は駆け抜ける。
ついに聖所の扉の前へと辿り着いた。
扉は、以前よりも重く、冷たかった。
それでも、リーノは手をかける。
(ここから……すべてを変える)
音もなく、聖所の扉が開いた。
そこにいたのは、クラリッサだった。
白銀のローブを纏い、祭壇の前で祈りを捧げていた。
「……やはり、あなたは来たのね。リーノ」
「クラリッサ……!」
二人の視線が交差する。
緊張が、張りつめた空間に広がっていく。
「偽聖女クラリッサ・ロゼリア。今日ここで、あなたの“神託”が偽りであることを暴く」
「ふふ……どうかしら。今の私のほうが“正しい”と、皆が思っているのよ」
ゆっくりとクラリッサが振り返る。
その瞳は、神に仕える者のものではなかった。
「次に会うとき、私は――あなたを裁く」
「できるものならね。魔族の姫、リーノ=ノクス」
そのとき、祭壇の奥で“声”が響いた。
『我が巫女よ。そやつは闇より来たりし者。討て』
天井の聖紋が激しく光を放ち、闇を裂こうとする。
リーノの紅い瞳が、静かに燃えた。
「……この戦いは、始まったばかりよ」
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一ノ瀬和葉