第三話 魔族の姫、目覚める
魔王城――その中枢にある「宵闇の間」は、魔族の王族のみが足を踏み入れる特別な空間だった。
光の一切を拒絶するその場所で、リーノは目を覚ましてから七日目の朝を迎えた。
「姫様、お食事の用意が整いました」
扉の外から、柔らかな声が響いた。
リーノはゆっくりと立ち上がる。
真紅の絨毯、漆黒の石壁、銀の燭台――すべてが人の世界では見たことのない美しさと荘厳さに包まれていた。
(この身体にも、だいぶ慣れてきたわね……)
立ち上がった彼女の背から、黒銀色の翼がそっと揺れた。
人間だった頃には持ち得なかった異形の象徴。
それが今、彼女の“現実”だった。
食堂へと向かう途中、廊下に立つ魔族の兵たちが一斉に膝をついた。
「我らが姫君、リーノ=ノクス様に敬礼を」
リーノはその光景に、最初こそ戸惑ったが、いまや冷静に頷きを返せるようになっていた。
(人間だった頃の私は、“敬われる”ことに意味を見出していた。けど今は違う。――恐れられてこそ、本物の力よ)
食堂では、魔王ノクスが待っていた。
鋭い双眸が娘を見つめ、ふっと笑みを浮かべる。
「よく眠れたか、リーノ」
「ええ。夢の中で人間を焼き払う夢を見たわ。とても楽しかった」
リーノの返答に、ノクスは満足そうに頷いた。
隣の席には、一人の青年が座っていた。
褐色の肌に白髪、琥珀の瞳。整った顔立ちに隠された冷徹な気配。
「紹介しよう。私の義弟にして、お前の教育係となる者。名をクロウ・ダグザという」
クロウは無言のまま軽く頭を下げた。
その態度は、尊敬というより観察の色が強かった。
「魔族の姫として生きるならば、まずは“力”を証明してもらう」
「……試すつもりなの?」
「当然だ。お前が本物かどうか、この城の誰もが疑っている。力なき者は、血筋すら嘘と見なされる」
リーノはナイフを取り上げ、皿に並んだ赤黒い果実を切りながら言った。
「いいわ。誰であれ、私の存在を疑う者は――跪かせるだけ」
三日後、リーノは魔族の闘技場にいた。
観客席には、魔王直属の四大将軍や側近、兵たちが詰めかけていた。
全員が「新参の姫」の実力を見定めようと目を光らせている。
対するのは、魔族の戦士ラゼル。
身の丈二メートル、四本の腕と鋼鉄の皮膚を持つ歴戦の猛者。
「姫君といえど、情けは無用。全力で叩き伏せる!」
「どうぞ、ご自由に。でも負けたら――跪いてね」
号令と同時に、ラゼルが突進した。
四本の腕が唸りを上げ、巨大な斧が振り下ろされる。
が――
リーノの身体は、ふわりと宙に舞った。
まるで重力が存在しないかのような軽やかな動き。
その瞳が紅く光り、指先から黒い炎が渦巻いた。
「“黒焔鎖”」
炎が鎖となって地を走り、ラゼルの足元を絡め取る。
身動きの取れなくなった彼に、リーノは手をかざす。
「跪け」
鎖が一気に収縮し、ラゼルの膝が地面に叩きつけられた。
その場にいた全員が息を呑む。
リーノは、涼しい顔でその場を見下ろしていた。
「次は誰?」
静寂の中、誰一人名乗り出る者はいなかった。
その日、魔王城に“真の姫”が誕生したと、全員が認めた。
夜。
闘技場の勝利を祝って開かれた宴の後、リーノは一人、月下の庭に佇んでいた。
その姿は静かで、どこか哀しげにも見えた。
「誇らしい姿だったな、リーノ」
クロウが現れる。
彼女は振り返らずに言った。
「でも、本当は楽しくなんてなかった。私はただ、“勝たなきゃいけなかった”だけ」
「お前はすでに魔族の姫として十分な力を持っている。だが、何を願い、何を憎むか――それが定まらねば、お前の力はやがて暴走する」
リーノは月を見上げた。
静かに、そしてはっきりと口を開く。
「私が憎んでいるのは、クラリッサ。私の座を奪った女。そしてそれを黙認した人間の王と神殿と騎士たち」
「その名、心に刻んでおく」
「私は、魔族として人間を罰する。あの腐りきった世界を、一度壊してみせるわ」
その誓いは、夜の闇に溶けて消えていった。
だがその瞳に宿る炎は、確かに“復讐者”のものだった。
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一ノ瀬和葉