第十一話 置き去りの声
谷底に立つと、空さえも遠かった。
空気は重く、沈んでいる。音も、匂いも、色彩さえ、死に絶えている場所。
ここが第五の試練《死者の谷》。
リーノは足元の骸骨を踏まぬように歩いた。誰のものかも分からない亡骸。
声なき声が、そこかしこから這い寄ってくる。
……その中に、一つの気配があった。
「久しぶりだな。聖女リーノ」
低く、どこか懐かしい声。
霧の奥から現れたのは、灰色の鎧に身を包んだ青年――エリオット・カークス。
かつてリーノの直属の聖騎士。
そして、彼女が「見殺しにしてしまった男」。
「……あなたは……」
「死者に名は不要だ。だが、あえて言うなら“未練”だな」
彼の声には怒りも哀しみもなかった。ただ、どこか冷めていた。
リーノは一歩踏み出す。
「……ごめんなさい。あの時、私は……怖かった。助けられる力が、なかった」
「違うな」
剣を抜いた音が響く。
亡者の地にあるまじき、聖なる銀の光。
「お前は力を恐れていたんじゃない。お前自身の“選択”を恐れていたんだ。誰を救い、誰を見捨てるか。――お前は、そういう覚悟を持っていなかった」
リーノの胸が締めつけられた。
彼の言葉は、刃よりも鋭く、深く刺さった。
逃げていた。
正しさの影に隠れて、自分の選択から目を背けていた。
「誰かのため」と言えば、自分を許せる気がしていた。
リーノは剣を抜いた。
血ではなく、想いを交わすために。
「……あなたを助けられなかったこと、後悔してる。だけど、私は前に進む。あの時の弱さも、無力さも、全部抱えて。それでも、私は今――魔王の器として生きてる!」
「ならば、その覚悟……この剣で試させてもらう」
二人は駆けた。
剣がぶつかる。
金属音が響き渡り、霧が裂けた。
リーノの剣は黒き魔の気を帯び、エリオットの剣は亡霊でありながら聖光を宿す。
過去と現在、赦されぬ罪と赦そうとする意志が、交差する。
エリオットの一閃。リーノは防御を間に合わせたが、腕が痺れた。
魂を削るような斬撃。これは夢でも幻でもない。
「お前の罪は消えない。あの夜、俺を置いて逃げた。それが真実だ」
「……ええ、その通りよ!」
リーノは叫ぶ。
「でも、今の私は逃げない! 誰かの盾になるためじゃなく――私自身の意志で、誰かを守る!」
闇の魔力が光を纏う。
黒と白が、交差した。
リーノの剣が、エリオットの刃を弾き、彼の胸へと突きつけられる。
「……勝ったな」
エリオットが微笑んだ。
「お前は、過去を切り捨てたんじゃない。乗り越えたんだな。ようやく、誇れる自分になれたな……リーノ」
その瞬間、彼の姿が霧のように崩れていった。
苦悩も、哀しみも、安堵もすべて混じった表情で――彼は消えた。
谷に、ようやく風が吹いた。
リーノは剣を下ろし、静かに目を閉じた。
「ありがとう、エリオット。……ようやく、言えたわ」
第五の試練、突破。
赦しとともに、リーノはまた一歩、前へと進んでいく。
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一ノ瀬和葉