第十話 森の奥、鏡の中の私
霧が深く森を包んでいた。
音がすべて飲まれていく。鳥のさえずりも、風のざわめきさえも聞こえない。
ここは第四の試練の場――《迷いの森》。それは、魔物も恐れて近づかぬ、“己の心を映す鏡”。
リーノはゆっくりと歩を進めていた。
足元の草が、彼女の足音に反応するように色を変えていく。赤、青、紫――感情が踏み荒らされていくようだった。
(静かすぎる……これは、ただの森じゃない)
数歩先の霧の中。誰かがいた。
「……リーノ?」
それは、十七歳の少女。
白銀の髪を束ね、聖女の純白の衣を纏っている。
鏡のように完璧な姿。かつて、王国で“光の奇跡”と讃えられたその頃の自分――聖女リーノ。
「どうして、ここに……?」
「どうして、私がいるのかって?」
鏡の中のリーノが、微笑んだ。だがその笑みは、どこか痛ましかった。
「あなた、忘れてしまったの? あの日、王に呼ばれて“聖女の使命”を言い渡されたとき、あなたは、ただ微笑んで“はい”って頷いた。心の中では泣いてたくせに」
「やめて……」
「“民を守るのが私の役目”。“誰かのために生きられるなら、それでいい”。そうやって自分を殺してた」
「それが、私の――」
「違う! あなたは誰の声も聞いていなかった。
あなた自身の声すら、黙らせてたのよ!!」
聖女の姿をした影が、涙を浮かべながら叫ぶ。
その声に、リーノの胸が痛んだ。
(私は……ずっと……)
誰かに必要とされることで、自分の価値を見出していた。
犠牲になることでしか、自分を肯定できなかった。
それが“聖女”だった。
クラリッサに座を奪われたとき、初めて自分が「道具」だったことに気づいた。
死んで、魔族に転生して、それでも――
「私は……変わったのよ」
「何が変わったの? 魔族になったから? それとも、力を手に入れたから? それであなたは、“自分を救った”とでも?」
鋭い問いが胸を突く。リーノは震える指先を握りしめた。
「……違う。私は、今もまだ迷ってる。けど――」
リーノは、霧の中の“聖女の影”へと歩を進める。
「私はもう、誰かに選ばれるためだけに生きるんじゃない。
誰かのために命を捧げて“満足したフリ”をするつもりもない」
「じゃあ、あなたは――何のために生きるの?」
その問いに、リーノは言葉を噛みしめるようにして答えた。
「私自身のために。
私が見たい未来のために、私が守りたい人のために。
私は、自分の意志で進むの。たとえ、それが孤独でも――」
影のリーノが微笑んだ。
「それが……あなたの答えなのね」
聖女の影は、ゆっくりと光に還っていく。
その手が、リーノの頬に触れた。
「強くなったね。……本当は、ずっとこう言ってほしかったのかもしれない」
「ありがとう。私」
リーノは、自分自身に向かって、静かに礼を言った。
霧が晴れていく。森の空気が柔らかく変わった。
踏みしめた地面が、今までになく確かだった。
第四の試練、突破。
リーノの中で、ひとつの“迷い”が終わった瞬間だった。
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一ノ瀬和葉